1. HOME
  2. ブログ
  3. ブログ/全ての記事
  4. コラム
  5. 【P#71】幻覚剤の歴史⑥〜ヒッピー文化、シリコンバレー形成、問題解決の手法として

BLOG

ブログ

コラム ブログ/全ての記事 向精神薬 幻覚剤 脳科学 西洋医学

【P#71】幻覚剤の歴史⑥〜ヒッピー文化、シリコンバレー形成、問題解決の手法として

はじめに

東京・渋谷でロルフィング・セッションと脳科学から栄養・睡眠・マインドの脳活(脳科学活用)講座を提供している大塚英文です。

幻覚剤の歴史については、LSDサイロシビンメスカリンMDMADMTを取り上げた。法律で禁止される前に、どのような歴史を辿ったのか?が中心。実は、幻覚剤は意外な分野に影響を与えている。IT業界のメッカシリコンバレーだ。

スティーブ・ジョブズと幻覚剤

ウォルター・アイサックソンが書いた「スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)」の伝記には、興味深いことが書かれている。ジョブズは、自分の人生における重要な出来事をいくつかあげるとすれば、LSDを試したことがその一つだと語っているのだ。

更に、スタンフォード大学の卒業式(2005年)のスピーチで、ジョブズは、ご自身に影響を与え、コンピュータ思想やヒッピー文化の形成に重要な役目を果たした「Whole Earth Catalog」の編集者、スチュワート・ブランド(Stewart Brand)について言及しているが、ブランドもLSDの影響を受けた一人だった。

ヒッピー文化からIT業界が生まれたことを考えると意外ではないかもしれない、幻覚剤とシリコンバレーとの関係。今回は、この点に注目してまとめたい。

LSDの活用〜精神疾患の治療からの転換

アルバート・ホフマン(Albert Hofmann)によってLSDが発見された後、精神疾患の治療手段として実験的に使用されてきた。中でも、ハンフリー・オズモンド(Humphrey Osmond)とアブラム・ホッファー(Abram Hofer)がアルコール依存症への治療は大きな注目を浴びた。

一方で、LSDは、精神疾患と似たような症状を誘発して治療に向かわせるという仮説は間違いであったこともわかり、新たな治療法としてLSDを模索するようになる。そこで、彼らはアマチュアに目を向けた。一人目は、過去のオルダス・ハクスリー(Aldous Huxley)。二人目が今回取り上げる、アル・ハバード(Al Hubberd)だ。

アル・ハバードとシリコンバレー〜治療環境と人脈

ハバードは、元密造業者、銃密業者、スパイ、発明家、船長、前科者等、様々な肩書を持つ。幻覚剤の体験が成功するためには、治療室に絵画や音楽、花、ダイヤモンドを持ち込み、セラピストが付き添いならが、患者が神秘体験の旅に導き、それに任せるため、アイマスクをしながら音楽を流す治療環境が大事だ。

この治療体験=「セット」と「セッティング」は、シャーマンが太古の昔から、トランス状態の人や強力な薬草の影響下にある人に、適切な言葉、道具、音楽の助けを借りることで、思うような方向に導く。ハバードは、これを西洋化して導入。ハバードは、幻覚経験を練り直し、治療方法の確立に大きく貢献したのだ。

ハバードが、1953年に幻覚剤の体験をすると、オズモンドとすぐにコンタクトを取り、ランチに誘う。ハバードは、「高用量のメスカリン、LSDを1回摂取しただけで、多くの患者が経験する神秘体験こそ治療に役立つはず」だと提案し、オズモンドと組むようになる。

凄いのは、ハバードは、瞬く間に、北米全土に幻覚剤研究のネットワークを築く。最も興味深いのはシリコンバレーとの関係を築き、ほとんどの関係者が薫陶を受けたことだ。

シリコンバレーのIT企業で、LSDを実験的に使用

ハバードとシリコンバレーを結びつけたのが、マイロン・ストラロフ(Myron J. Stolaroff)。電気工学のエンジニアで、1950年代に、アンペックス社(AMPEX)で戦略計画立案に関わる仕事に従事していた。

シリコンバレーのハイテク企業の一つとして、最盛期には、従業員は13,000人に及んだアンペックス社。録音、データ記録のためのオープンリール式の磁気テープを開発したパイオニアとして知られている。

ストラロフは、スタンフォード大学で工学を専攻。初期のメンバーとしてアンペックス社に入社したため、富豪に。30代にスピリチュアルな世界に興味を持ち、後に、ハバードと出会う。ハバードの自宅でLSDを体験すると、人生が一変するような人類の一体感、神の実在を感じたそうだ。

ストラロフは、ごく親しい友人と同社の同僚に幻覚剤の経験をシェア。月一回のペースで、スピリチュアルやLSDについて話し合う場を開催するようになった。そこに、スタンフォード大学の電気工学教授のウィリス・ハーマン(Willis Harman)も参加する。

ストラロフは、アンペックス社を「サイケデリック企業」に変えようとし、ハバードと共に活動。経営陣が難色を示したため、頓挫。ハーマンが、スタンフォード大学での指導の方向性を転換。幻覚セッションを行い、人間の可能性を追求する授業を開始。エンジニアたちが授業に殺到したという。

マイケル・ポーランの「幻覚剤は役に立つのか?」によると、ベイエリアのハイテク企業では、今でも管理職研修で幻覚剤を使っていることや、一部の企業ではマイクロドーシング(低用量)・フライデーを制定しているそうだ。

IFAS、SRIの設立〜LSDの問題解決の手段としての模索

ストラロフは、幻覚剤研究に打ち込むため、1961年にアンペックス社を退社。ハーマンと共に、メンロー・パークに、国際先進研究財団(IFAS、International Foundation for Advanced Study)を設立。LSDによる人間の人格や創造性の開発についての研究を開始した。1966年に解散するまで、6報の論文を報告している。

IFASに、ハーマンが参加。更に、心理学者のスタッフとして、大学院1年生のジェイムズ・ファディマン(James Fadiman)を雇い入れる。FDAから薬品研究の許可を取り付け、ハバードからLSD、メスカリンを入手。6年間、350人に対して、セッションを行った。

興味深いのは、LSDを使って問題解決能力や想像力が高くなることかどうかを検証した実験だった。ファディマンらは、100マイクログラムの比較的低用量のLSDを使って、自らに試し、これはいける!と感じた。

そこで、芸術家、エンジニア、建築家、科学者等、全員が仕事で何かの行き詰まりを感じている人を4人ずつのグループにして100マイクログラムのLSDを摂取。

「創造力が格段と高まってきっと驚くし、これまでになく問題が解決できるはずだ」と事前に伝えたところ、対象者たちは、頭の回転がはるかにスムーズになり、容易に問題を視覚化し、別の文脈に置き換えたりできるようになったことを報告した。

対象者の中には、ゼロックスにてマウスを作った、ビル・イングリッシュダグラス・エンゲルバートも含まれていて、彼らは、コンピュータ界で革命を起こす先駆者たちだった。対照群が置かれていないという問題点があったものの、実験は、期待と方向性を示していた。

1966年にIFASが解散後、ハーマンはシンクタンクのスタンフォード研究所(SRI)に勤務。同研究所は、軍部を含む連邦政府の各機関と連携していた。ハバードと共に、未来の教育体制についての任務を遂行。LSDを使用し、教育との可能性について模索するようになる(法的規制が入るまで)。

1960年代の後半までに、スタンフォードやバークレーの教授たち、コンピュータ・エンジニア、科学者、作家たちはLSDによる影響を受けており、集積回路を設計するとき、コンピュータ上でそれができるようになる前に、LSDに頼っていたらしい。その流れもあり、シリコンバレーのエンジニアたちが幻覚剤に飛びついた。

元SRI職員で、エンジニアのピーター・シュワルツ(Peter Schwartz)は、
「工学で解決しなければならない問題には単純化できない複雑さが常につきまとう。完璧には解決しきれない複雑な変動要素のバランスをずっと取り続ける必要がある。だからパターンを探すので必死なのだ。`LSDは、そのパターンを示してくれる」
とポーランの本で述べている。

スチュワート・ブランド〜パソコン文化、地球の写真

アップルのスティーブ・ジョブズに大きな影響を与えたスチュワート・ブランドも、1962年にIFASで、LSDを初体験。ファディマンのガイドの下、彼の幻覚体験は、人生を一変させていく。

ブランドは「全地球ネットワーク(Whole Earth Network)」を招集。コンピュータの意味と働きの再定義から行う。軍や企業のトップダウン構造で役立つ道具から、個人の解放やバーチャルコミュニティ(今でいうインターネットのバーチャル空間)のためのツールへと変貌させる。

1966年、ある寒い午後にブランドが、ノースビーチの自宅の屋根に登り、100マイクログラムのLSDを摂取。毛布にくるまって、ダウンタウンの方へ目を向けた時、街並みが必ずしもまっすぐではなく、地球が丸いことに気づく。大地が平らだと資源も無限に考えがちだが、丸い地球がある限り、慎重に管理しなければならない。

今でいうエコロジーにつながる考え方だが、世間にこれを伝えられればと思いつく。表現手段として「宇宙からみた地球の写真を手に入れよう」となり、写真開示運動を開始。2年後、アポロ宇宙船から月から地球を撮影した写真を公開。ブランドはカウンターカルチャー系の雑誌「Whole Earth Catalog」第1号に発表する。

ブランドは、1967年、エンゲルバートをアシストし「The Mother of All Demos(全てのデモの母)」を実施。ウィンドウ(GUI)、電子メール、ハイパーテキスト、グラフィックス、ビデオ会議、ワープロ等、パソコンに使われる現代の技術を実演。1970年のパロアルト研究所で同様のプロジェクトが立ち上がり、後にマッキントッシュやMS Windows開発に大きな影響を及ぼす。

まとめ

今回は、幻覚剤の歴史において、シリコンバレーとIT業界にどのような影響を与えたのか?今回は、この点に注目してまとめさせていただいた。

少しでもこの投稿が役立つことを願っています。

関連記事

【Y#17】チネイザン体験記(2)〜腹と足裏

【E#253】第1回・「クラブ大塚」の開催〜2月14日〜...

【B#143】第59回・読書会の開催の報告〜はせくらみゆ...

【E#252】52歳の誕生日・綱島で迎えて〜人とどうコラ...

【W#146】リスボン(3)〜カスカイスとシントラ

【E#125】自分軸を整えるセミナー:5回目〜聞き方+伝...