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【P#72】幻覚剤の歴史⑦〜幻覚剤を規制した理由、リアリーの登場、市民への広がり、ヒッピー文化

はじめに

東京・渋谷でロルフィング・セッションと脳科学から栄養・睡眠・マインドの脳活(脳科学活用)講座を提供している大塚英文です。

過去に、幻覚剤とは何か?今注目されている理由を含め、LSDサイロシビンメスカリンMDMADMTの歴史を紹介してきた。いよいよ、幻覚剤がどのようにして法的規制が入るようになり、規制物質法(Substance Controlled Act)制定につながったのか?紹介したい。

主に参考にしたのが、マイケル・ポーランの「幻覚剤は役に立つのか (How To Change Your Mind)」だ。

ティモシー・リアリーの登場〜市民へLSDの使用が広まる

1960年に、ティモシー・リアリー(Timothy Leary)がハーバード・サイロシビン計画に着手する頃には、幻覚剤の研究は、10年、何百もの論文が発表されていた。

1959年、リアリーは、アイビーリーグの一つ、ハーバード大学に招聘され、心理学の教授に就任する。元々、好奇心の旺盛なリアリーは、1960年の夏に、メキシコのプールサイドでキノコを摂取。人生を変えるような幻覚体験をする。

リアリーは、
「クエルナバカのプールサイドで過ごした4時間の間に、熱心な心理学者として過ごしたそれまでの15年間よりもはるかに人間の心、脳、その構造について知った」
「脳は活用されきっていないバイオコンピュータだと知った。通常の意識は、知性の海の中の一雫にすぎない。意識と知性はシステマチックに拡大させることができる。脳をプログラムし直すことができるのだ」
と振り返っている。

ハーバード・サイロシビン計画〜どのような成果があったのか?

1、2年後に、リアリーは、鉄道会社の資産相続人であるリチャード・アルパート(Richard Alpert、後のラム・ダス(Ram Dass)と改名)を同僚として迎え、ハーバード・サイロシビン計画を開始する。

計画案を大学側に申請し、条件付きで承認された。その新薬について、大学院生に与えてもいいが、学部生に与えないことが条件だった。計画は3年間続いたが、科学的な面で成果が上がったと言い難い。下記に実験の例を挙げるが、実験の正当性と安全性に懸念を提起され、最終的に頓挫することになる。

1961年、リアリーと大学院生のラルフ・メツナーが行った「コンコード刑務所実験」。実験の主旨は、マサチューセッツ州コンコードにある刑務所の受刑者を2つのグループに分ける。サイロシビンを与えるグループと、薬を飲まなかったグループと。出所後、数ヶ月間、経過を観察した。

出所後、10ヶ月経った時点で、サイロシビンを摂取した者のうち、再び刑務所に戻ってきたのが25%。対照群は、80%(平均値に近い)だった。この驚くべき結果が出た。

数十年後、MAPS(Multidiciplinary Association for Psychedelic Studies)(幻覚剤学術研究学会)のリック・ドブリン(Rick Doblin)が、被験者一人一人の結果を再検討、見直した。結果、リアリーはデータを誇張。実際、両グループの間の再犯率に明確な差がなかったのだ。

「マーシュ礼拝堂の軌跡」は、ハーバード大学の神学生のウォルター・パンケ(Walter Pahnke)の下、神学院生のボランティアを被験者に二重盲検の対照群比較試験が行われ、サイロシビンとプラセボ(ナイアシン)が割り当てられた。幻覚剤は、宗教体験と「同等とは言えなくとも、明確な違いはない」神秘体験を起こすと結論。

同実験も、ドブリンが詳しい追解析を行う。実際には、二重盲検に誤りがあり、神秘体験についても質問票が不明確といった点を指摘している。2002年には、ジョンズ・ホプキンズ大学のローランド・グリフィス(Roland Griffith)より、同じ試験を厳格な条件で実施。14ヶ月後を追跡して2006年に報告している。

幻覚剤の使用が市民へ広がる〜市民層 vs エリート層

ハーバード大学では、主婦、ミュージシャン、芸術家、学者、作家、同僚の心理学者等、様々な人に投与したが、実験というよりもパーティの雰囲気で行われたという。「実験的意識拡大ゼミ」を発足。ゼミ参加者は、大学院生に限り参加が可能に。大人気を博すことになる。

最終的に、幻覚剤には、社会を変革し人類を救済するパワーがあるとリアリーに確信させ、できるだけ多くの米国市民に「強力な幻覚剤を与え」人の脳を一つ一つ変化させて、国全体を変革することをモットーに伝導してきな役目を担うようになる。そのためにはLSD使用者が400万人必要であり、1969年までに達成すると決めた。

リアリーらの取り組みは、同僚からの不快感があり、リアリーのグループは一種のカルトができており、一部の学生はドラッグセッションへの参加を強制されている。科学的な解析よりも、体験に重点が置かれている等。

ハーバード学生新聞「クリムゾン」にも「心理学教授陣、サイロシビン研究に反対する」「ボストン・ヘラルド」は、「幻覚剤、ハーバード大学で論争を巻き起こす:350人の学生が薬物を摂取する」といった見出しで論争になる。

リアリーらは「幻覚剤を大学の中で研究するのは強すぎるし、議論の的となる」と結論、精神的自由のための国際協会(IFIF)を設立。この団体の管轄下で行うと宣言する。

その後、自然療法として有名なアンドリュー・ワイル(Andrew Weil)(当時ハーバード大学の学部生)が、本来禁止だった幻覚剤の薬物を与えたことを「クリムゾン」に暴露。これがきっかけとなり、リアリーとアルバートが大学を解雇される。

リアリーは、IFIFを通じて、できるだけ多くの大衆に幻覚剤を与え、文化に大きな影響を与えようとしたのに対し、幻覚剤の歴史でも取り上げた、オルドス・ハクスリー、アル・ハバード、ハンフリー・オズモンドも、同じような歴史的使命感を持っていた。彼らは、エリート層に属していたため、どう達成するかが方法が違った。

ハクスリーらは、エリートたちに幻覚剤による意識改革を体験させ、最終的に、大衆に浸透させる。なぜならば、大衆には、これほど圧倒的な体験を、いきなり受け入れる心の準備ができてないと感じていたからだ。

実際、1960年代半ばから、何万人もの若者たちがドロップアウト。ベトナム行きを拒み、戦闘意欲や体制側の権威が地に堕ちた。ヒッピー文化や既得権益層に対して反発する「カウンターカルチャー」の形成に大きな役割を果たしており、これが米政府に規制の口実を与える可能性を危惧してのかもしれない。

幻覚剤を規制する方向へ〜カウンター・カルチャー、ヒッピー文化の反発

1962年から63年にかけ、大量の密造LSDが、市販されるようになり、精神破綻、フラッシュバック、自殺など、幻覚剤のバッドトリップで緊急搬送される人たちが精神科に殺到。精神医学界の主流たちは、幻覚剤研究をすぐにやめさせなければならないと考えるようになる。つまり、LSDは治療薬ではなく、精神疾患の原因とみなされるようになる。

LSDの危険性に関する情報が広がり、自殺未遂1件の報告、染色体に与えるダメージ、先天異常を引き起こす等が報告。幻覚剤の長所・短所をバランスよく評価る記事が減り、新聞の見出しは、事実ベースではなく、感情を煽る「ネガティブキャンペーン」を張るようになる。

1966年末には、サンド社が非難の波から距離を置こうと、LSDを市場から回収。在庫を全て米国政府に預けら上で、70件の研究計画を中止。1966年5月には、上院で聴聞会を開催。リアリーも弁護するための証言台に立った。

興味深いのは、ロバート・ケネディ上院議員が、FDAの査察官に対して追及。「6ヶ月前まで価値が認められたのだとすれば、なぜ今になって認められなくなったのか?」違法な利用のせいで利用が中止になるのは、国家の損失だと主張した。

規制物質法の制定〜スケジュールI〜Vに分類

ケネディの主張が通らず、1966年10月には、FDAから米国の六十人の幻覚剤研究者へ中止するよう手紙が送られる。1970年には、Controlled Substance Act(CSA、包括的医薬品濫用防止及び管理法、規制物質法)が制定。特定の薬物の製造、輸入、所有、流通を米国政府によって規制されるようになった。

1973年、ニクソン政権の時、薬との戦争を本格的に進めるため、DEA(Drug Enforcement Agency、麻薬取締局)を設立。1970年の規制物質法の執行する連邦捜査機関として創設された。

CSAでは、薬物の分類をスケジュールI〜IVに分類されている。製薬会社、医師会、薬剤協会、薬物乱用に関する公益団体、地方公共団体機関などの薬事関係者による請願、DEA、保健福祉省(HHS)により、スケジュールの変更が可能としている。DEAにより、嘆願が受け入れられた場合は、薬物の調査を開始する。

スケジュールIは、高い濫用の危険性、治療のための医学的用途がない、医療管理下で使用しても安全性のデータが不足している薬物。大麻、マリファナ、LSD、ヘロイン、MDMA、サイロシビン、メスカリン等を含む。

スケジュールIIは、高い濫用の危険、一般に認められた治療の為の医学的用途があり、深刻な精神依存もしくは肉体依存に至らしめる可能性がある薬物。流通はDEAにより慎重に管理・監視される。コカイン(局所麻酔薬)、リタリン(メチルフェニデート)、フェンサイクリジン(PCP)、不純物を含まないオピオイド作動薬、短時間作用型・バルビツール酸系薬物、アンフェタミン等がある。

スケジュールIIIは、スケジュールI、IIには満たさない濫用の危険、一般に認められた治療の為の医学的用途があり、深刻な精神依存もしくは中程度から低い肉体依存を示す薬物。アナボリックステロイド、ケタミン、中時間作用型・バルビツール酸系薬物、ケタミン、コデイン、ザイレム等

スケジュールIVは、スケジュールIIIと比較して、低い濫用性の危険、一般に認められた治療の為の医学的用途があり、スケジュールIIIと比較して、限定的な肉体依存もしくは精神依存に至らしめる可能性の薬物。べんゾジアゼピン系睡眠薬・抗不安薬、フルニトラゼパム、モダフィニル、酒石酸ゾルピデム、長時間作用型・バルビツール酸系薬物、部分アゴニスト・オピオイド鎮痛薬、非アンフェタミン興奮剤等

スケジュールVは、スケジュールIVに比べ、限定的な肉体依存もしくは精神依存に至らしめる可能性の薬物。スケジュールV薬物は時折、処方なしで利用が可能。コデイン入り咳止薬等。

詳しくは、下記のをご参照ください。

ニクソン政権の「薬物との戦争(War on Drugs)」

背景となったのは、リチャード・ニクソンの政権の意識だと考えられている。ニクソンは、リアリーを「米国で最も危険な男」と烙印を押す。幻覚剤がカウンター・カルチャーを繁栄させ、若者の戦闘意欲を削いでいる理由である。そのため、カウンター・カルチャーの神経科学的基盤をたたいて、勢いを鈍らせることを考えた。

興味深いのは、粛清を逃れた研究プログラムが一つだけあったことだ。スプリング・グローブにあるメリーランド精神医療研究センターは、1976年まで幻覚剤の研究を継続。スタニスラブ・グロフ、ビル・リチャーズ、ウォルター・パンケ等、アルコール依存症、統合失調症、がん患者に対する幻覚剤治療等行われていた。

幻覚剤のセラピストは、地下活動を余儀なくされたが、その研究を細々と続けた場所として、カルフォルニア州、ビッグサー(Big Sur)にある伝説的な施設、エサレン研究所が挙げられる。どのように、幻覚剤のルネサンスを迎えるようになったのか?エサレン研究所を含め、紹介できたらと考えている。

まとめ

今回は、幻覚剤がどのようにして法的規制が入るようになり、規制物質法(Substance Controlled Act)制定につながったのか?を中心に紹介させていただいた。

少しでもこの投稿が役立つことを願っています。

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