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ウィーンを離れた人々は、なぜ現代世界を変えたのか?──ドラッカー、ハイエク、ポパー、そして亡命知識人たち

シリーズ「ウィーンから生まれた思想」第5回・最終回

はじめに──都市が崩壊しても、思想は消えなかった

2026年1月、リチャード・コケットの『Vienna: How the City of Ideas Created the Modern World』(2023年)を読んだことをきっかけに、ウィーンという都市について考えてきた。

第1回では、なぜ19世紀末から20世紀初頭のウィーンから、これほど多様な思想が生まれたのかを取り上げた。ハプスブルク帝国の多民族性、移民による都市の発展、ギムナジウムを中心とする教育制度、そしてカフェやサロンでの交流。

第2回では、ブレンターノ、マッハ、フッサール、ゲシュタルト心理学、メルロ=ポンティを通して、人間の心や知覚の捉え方がどのように変わっていったのかを考えた。

第3回では、そこで生まれた〈ゲシュタルト〉という概念が、都市を離れたあとどこまで行ったのかを追った。亡命先で書かれたカッシーラーの遺稿が、その概念を数学の群論と並べることになる。

第4回では、その知的な創造性を支えたウィーンが、第一次世界大戦、ハプスブルク帝国の崩壊、政治的な分断、そしてナチズムによって、どのように変化していったのかを取り上げた。

では、ウィーンの歴史は、1938年のナチス・ドイツによるオーストリア併合で終わったのだろうか。

実際には、そうではなかった。

ウィーンで学び、研究し、議論していた人々の多くは、イギリスやアメリカなどへ移住し、そこで新しい活動を始めた。彼らの思想は、経営学、経済学、科学哲学、社会科学、さらにはデザインや情報伝達の方法にまで影響を与えていった。

ここで重要なのは、彼らが全員、1938年にナチスから逃れるためにウィーンを離れたわけではないということである。

仕事や研究のために移住した人もいれば、1930年代の政治的な迫害を逃れた人もいる。移住した時期も、その理由も異なっていた。

それでも、共通するものがあった。ウィーンや中欧で形成された知的な経験を、移住先へ持ち込んだということである。

今回は、ピーター・ドラッカー、フリードリヒ・ハイエク、カール・ポパー、オットー・ノイラート、ルドルフ・カルナップを中心に、ウィーンの思想がどのように世界へ広がっていったのかを考えてみたい。

1.ピーター・ドラッカー──経営学は、なぜ「人間」を中心に考えるのか

最初に取り上げたいのが、ピーター・ドラッカー(Peter F. Drucker, 1909–2005)である。

現代経営学の重要な思想家として知られている。しかし、その思想を理解するためには、ウィーンで育った経験に目を向ける必要がある。

第1回でも紹介した『傍観者の時代』には、ドラッカーが幼少期から青年期にかけて出会った、さまざまな人々が登場する。特に印象的なのが、オイゲニア・シュワルツワルトのサロンである。

シュワルツワルトは、女性の教育に力を注いだ教育者であり、異なる分野の人々を結びつける人物でもあった。ドラッカーは、彼女やその周囲の人々との関係を通して、組織や制度だけでなく、そこに生きる人間について考える機会を得ていた。

ドラッカーは1920年代にウィーンを離れ、ドイツのハンブルクやフランクフルトで働きながら学んだ。その後、ナチスが政権を握った1933年にドイツを離れてイギリスへ渡り、1937年にはアメリカへ移住した。

つまり、ドラッカーがウィーンを離れたことと、ナチスの台頭によってドイツを離れたことは、区別して考える必要がある。

イギリス滞在中のドラッカーには、興味深い経験がある。

ケンブリッジでジョン・メイナード・ケインズの講義を聴いたとき、経済学者たちが商品や経済の動きに関心を向けている一方、自分は人間の行動に関心があると気づいた、というエピソードである。

この話は、後のドラッカーの経営思想を考えるうえで象徴的である。

彼は、企業を単に利益を生み出す仕組みとして捉えなかった。組織は人間によって構成され、人間が働き、意思決定し、社会に貢献するための場でもあると考えた。

1954年の『現代の経営』では、経営を特定の経営者の才能に依存する活動ではなく、組織全体で取り組むべき仕事として体系化した。その中で重要なのが、目標による管理という考え方である。組織の上位者が一方的に命令し、部下がそれに従うだけではなく、それぞれの人が自分の役割と目標を理解し、自律的に貢献することが重視された。

晩年のドラッカーが、知覚について書いていたこと

ここで、一つ付け加えておきたいことがある。1989年の『新しい現実』(The New Realities)という本がある。その最終章のタイトルが、「分析から知覚へ──新しい世界観」である。

経営学の本の最後に、知覚の話が置かれている。しかもそこで彼が名前を挙げているのが、ゲシュタルト心理学だった。

私たちは「C・A・T」という音を聞いているのではなく、「cat」と聞いている。約100年前、1890年代に、ゲシュタルト心理学が最初にそれを捉えた──そういう趣旨のことが書かれている。

1890年代のウィーンで出された概念が、1989年の経営学の本の最終章に出てくる。

この接続については、ボディワークの側から一本書いている(「部分を足しても、身体にならない──現象学とゲシュタルト心理学が分かれた場所」)。ロルフィングで「全体を見ろ」と教わることの出所をたどったら、ドラッカーが先に同じ場所を指していた、という話である。

もちろん、ドラッカーの経営思想を、ウィーンのサロン文化だけから説明することはできない。彼の考え方は、ドイツでの経験、イギリスでの生活、アメリカ企業の研究を通して発展していった。

それでも、幼少期から異なる専門家や知識人が交流する環境に触れていたことは、彼の人間観や社会観を考えるうえで重要だと思う。

私自身、経営者向けのコーチングや脳科学の講座に取り組む中で、組織の仕組みと、そこにいる人間の在り方を、切り離して考えることはできないと感じている。

2.ハイエク──社会全体を、一人の人間が理解できるのか

フリードリヒ・ハイエク(Friedrich A. Hayek, 1899–1992)は、ウィーンに生まれ、ウィーン大学で学んだ後、経済学者として活動した。

1931年、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に招かれ、イギリスへ移った。この時点では、ナチスによるオーストリア併合はまだ起きていない。ハイエクのロンドン移住は、まず学問的な活動の機会によるものだった。

しかし、その後のヨーロッパの政治的な変化は、彼の思想にも大きな影響を与えた。

ハイエクの重要な問題意識の一つは、社会全体に存在する知識を、中央の権力がどこまで把握できるのかということである。

一つの都市に住む人々の生活を考えてみる。

パン屋は小麦粉の価格や客の好みを知っている。農家は天候や土地の状態を知っている。消費者は自分が何を必要としているのかを知っている。しかし、こうした情報のすべてを、一人の人間や一つの組織が完全に把握することは難しい。

ハイエクは、社会に必要な知識が、個々の人々の間に分散していることに注目した。1945年の論文「社会における知識の利用」は、この問題を論じた代表的な著作である。

彼によれば、市場の価格には、異なる場所に分散している情報を調整する役割がある。価格の変化を通して、人々は自分が直接知らない事情にも対応できる。

この考え方は、経済学にとどまらず、組織や社会のあり方を考えるうえでも重要である。

私たちは、優れたリーダーがすべてを理解し、正しい判断を下せば、組織はうまく動くと考えがちである。しかし実際には、現場にいる人々が持っている情報を、経営者がすべて知っているわけではない。

一方で、彼の思想を、あらゆる政府の介入や社会保障を否定する単純な市場万能論として理解するのも適切ではない。ハイエクが問題にしたのは、社会に分散している知識を、特定の権力が完全に把握し、設計できると考えることの危険性だった。

1944年の『隷従への道』では、経済的な計画と政治的な自由の関係を論じた。さらに1950年にはアメリカのシカゴ大学へ移り、政治哲学や社会理論の研究を深めていった。

3.ポパー──間違いを認められる社会は、なぜ重要なのか

カール・ポパー(Karl Popper, 1902–1994)は、ウィーンに生まれ、ウィーン大学で学んだ哲学者である。

科学とは何かという問題に取り組み、1934年に『探究の論理』(Logik der Forschung)を出版した。のちに英語版が『科学的発見の論理』として出ている。

彼の名前と結びつけられるのが、「反証可能性」という考え方である。

科学的な理論は、どれだけ多くの観察結果と一致していても、それだけで絶対に正しいと証明されたわけではない。むしろ、どのような観察結果が出たら、その理論が間違っていると判断できるのかを明確にすることが重要になる。

「すべての白鳥は白い」という主張を考えてみる。白い白鳥を何千羽観察しても、すべての白鳥が白いことを完全に証明することはできない。しかし、黒い白鳥が一羽見つかれば、その主張は間違っていたことになる。

ポパーは、科学が発展するためには、理論を批判的な検証にさらし、誤りを発見したときに修正することが必要だと考えた。

この発想は、政治哲学にもつながっていく。

1930年代、オーストリアでナチズムや反ユダヤ主義が強まる中、ポパーは1937年にニュージーランドへ移住した。そして第二次世界大戦中に執筆し、1945年に出版したのが『開かれた社会とその敵』である。

ポパーが重視したのは、社会を特定の理想に従って完全に作り上げようとすることの危険性だった。

人間の知識には限界がある。だからこそ、政治制度にも、間違いを発見し、修正する仕組みが必要になる。民主主義の重要性は、優れた指導者を必ず選べることだけにあるのではない。誤った政策を批判し、権力者を暴力によらず交代させることができる点にもある。

ここで、第4回のウィーンの歴史を思い出したい。

1934年、オーストリアでは政治的な対立が武力衝突に発展し、議会制民主主義が失われていった。そして1938年には、ナチス・ドイツによる併合が行われた。ポパーの「開かれた社会」という考え方は、こうした経験と無関係ではない。

ただし、ポパーはウィーン学団の正式なメンバーではなかった。学団の思想家たちと交流し、その議論から刺激を受けながらも、論理実証主義の考え方には批判的だった。

この違いも重要である。ウィーンの知的な環境が創造的だったのは、すべての人が同じ考え方を共有していたからではない。むしろ、異なる立場の人々が議論し、互いを批判していたからでもある。

ポパーは1946年にイギリスへ移り、LSEで研究と教育を続けた。

4.ノイラート──知識を、専門家だけのものにしない

ここまで紹介した三人とは、少し異なる方向から現代社会に影響を与えた人物がいる。オットー・ノイラート(Otto Neurath, 1882–1945)である。

ノイラートは、経済学、哲学、社会政策、教育など、幅広い分野に関心を持っていた。第4回で紹介した「赤いウィーン」の時代には、社会改革や市民教育にも関わっている。

彼が特に重視したのは、科学的な知識や社会に関する情報を、専門家だけでなく、一般の人々にも理解できるようにすることだった。

人口の増加や失業率、住宅事情などを説明するとき、数字を並べるだけでは十分に伝わらないことがある。ノイラートは、そうした情報を、図や記号を使って視覚的に伝える方法を発展させた。

それが、後にISOTYPE(International System of Typographic Picture Education)と呼ばれる視覚言語の体系である。

人口を表すとき、一つの人型の記号を一定の人数に対応させ、それを並べることで数量の違いを表現する。現在では、駅や空港の案内表示、統計のインフォグラフィックなど、図像によって情報を伝える方法が広く使われている。

ここで興味深いのは、ノイラートが、知識をわかりやすく伝えることを、単なるデザインの問題として考えていなかったことである。

社会の仕組みを理解するために必要な情報が、一部の専門家にしかわからない形で示されていたら、市民が政治や社会について判断することは難しい。だからこそ、複雑な情報を共有できるようにすることが、民主的な社会を支える条件になる。

1934年、オーストリアで権威主義的な体制が強まると、ノイラートはオランダへ逃れた。その後、1940年にナチス・ドイツがオランダへ侵攻すると、イギリスへ渡った。亡命後も、視覚教育や科学の統一に関する活動を続けている。

5.カルナップ──ウィーン学団の思想は、アメリカでどう発展したのか

ウィーン学団の国際的な影響を考えるうえで、もう一人重要なのが、ルドルフ・カルナップ(Rudolf Carnap, 1891–1970)である。

カルナップはドイツに生まれ、1926年にウィーンへ移り、ウィーン学団の中心的な人物の一人となった。

彼が取り組んだのは、哲学的な問題を、論理学や科学の言語を使って明確にすることだった。

私たちは普段、同じ言葉を使っていても、異なる意味で理解していることがある。「知っている」「存在する」「原因である」といった言葉は、日常生活では何気なく使われる。しかし、科学や哲学の議論では、その意味を曖昧にしたまま進めると、議論が混乱する。

カルナップは、こうした問題に、論理学や言語分析を通して取り組んだ。

1931年にはプラハへ移り、1935年にはアメリカへ移住した。アメリカではシカゴ大学などで研究を続け、論理経験主義の発展に重要な役割を果たした。

ここで注目したいのは、ウィーン学団が、ウィーンという都市の中では活動を続けられなくなった一方、その思想がアメリカの大学で新しい展開を見せたことである。

学団の活動は、1930年代の政治的な混乱や迫害によって事実上終わりを迎えた。しかし、そのメンバーや関係者が移住先で研究を続けたことで、科学哲学や分析哲学の発展に大きな影響を与えた。

思想を生み出した都市の環境が失われても、思想そのものは、別の場所で発展することができた。

6.同じウィーンから、なぜ異なる思想が生まれたのか

五人の思想を並べると、興味深いことに気づく。

人物中心にある問い
ドラッカー組織の中で、人間はどのように働き、貢献するのか
ハイエク社会に分散している知識を、中央の権力はどこまで把握できるのか
ポパー人間の知識には限界がある。誤りを批判し修正できる仕組みをどう作るか
ノイラート科学や社会の知識を、市民が理解できる形でどう共有するか
カルナップ科学的な議論を明確にするために、言語をどう分析するか

彼らの思想は、決して同じ方向を向いているわけではない。

ハイエクは中央集権的な経済計画に批判的だった。一方、ノイラートは、社会を合理的に組織し、公共の福祉を改善するための計画を重視していた。この二人は、経済や社会のあり方について、対立する立場にいた。

また、ポパーはウィーン学団の議論から刺激を受けながらも、その哲学的な立場には批判的だった。

つまり、ウィーンの知的な環境は、特定の一つの思想を生み出したわけではなかった。むしろ、同じ社会の中から、互いに対立する考え方が生まれていた。

ここで、第1回のテーマに戻ってみたい。

なぜ、ウィーンから多様な思想が生まれたのか。

理由の一つは、異なる背景を持つ人々が集まり、共通の教育を受け、専門分野を越えて議論する環境が存在していたことだった。

しかし、それだけではない。ウィーンの創造性は、異なる考え方が存在することを前提としていた。人々が同じ結論に達することよりも、異なる立場から問題を考え、議論を深めていくことが重要だったのである。

7.亡命は、思想の広がりに何をもたらしたのか

ここで、もう一つ考えてみたいことがある。

ウィーンの知識人たちが国外へ移住したことは、彼らの思想の発展に、どのような影響を与えたのだろうか。

一般に、亡命というと、故郷を失い、生活や研究の基盤を奪われる経験を意味する。

実際、多くの知識人たちは、政治的な迫害や差別によって、望まない形で移住を余儀なくされた。移住先で仕事を得ることができず、研究を続けられなかった人々もいた。

したがって、亡命を単純に、思想が世界へ広がるための好機として描くことはできない。それは、多くの人々にとって深刻な喪失であり、ウィーンという都市にとっても大きな損失だった。

しかし一方で、移住先の大学や研究機関が、彼らの思想を受け入れ、新しい発展の場となったことも事実である。

特にアメリカでは、20世紀前半に大学や研究機関が発展し、ヨーロッパから移住してきた研究者たちが、新しい研究分野の形成に関わっていった。

彼らは、ウィーンで学んだことを、そのまま移住先へ持ち込んだだけではない。新しい社会の問題に触れ、異なる研究者たちと出会うことで、自分たちの思想を変化させていった。

ドラッカーはアメリカ企業の研究を通して、経営学を体系化した。ハイエクはイギリスやアメリカでの議論を通して、経済学から政治哲学へと研究を広げた。ポパーはニュージーランドで『開かれた社会とその敵』を執筆し、イギリスで研究を続けた。カルナップはアメリカの哲学者たちとの交流を通して、論理学や科学哲学の研究を発展させた。

第3回で見たカッシーラーの遺稿も、亡命先のアメリカで書かれたものだった。

思想は、場所を移すことで、単に保存されるだけではなかった。新しい環境との関係の中で、変化し、発展していった。

8.知識は、個人の中にあるのか、それとも関係の中にあるのか

この5回を通して、私が改めて考えたのは、知識や創造性がどこから生まれるのかという問題である。

私たちは、優れた思想を、個人の才能によって説明しがちである。フロイトが精神分析を生み出し、フッサールが現象学を創始し、ドラッカーが経営学を発展させた。

もちろん、個々の人物の能力や努力が重要だったことは間違いない。しかし、彼らの思想は、社会や文化から切り離された場所で生まれたわけではない。

フロイトには、医学や神経学の研究環境があった。フッサールには、ブレンターノをはじめとする哲学者たちとの知的なつながりがあった。ドラッカーには、幼少期から異なる専門家たちと接する機会があった。

そして、彼らの思想は、移住先で新しい人々と出会うことによって、さらに発展していった。

知識を、個人の頭の中にあるものとしてだけではなく、人と人との関係の中で形成されるものとして捉える。

これは、私自身がロルフィングやコーチング、認知科学について考えてきた問題ともつながっている。

コーチングでは、クライアントが一人で考えているときには気づかなかったことが、対話を通して明らかになることがある。

ロルフィングでは、身体を単独の物体として扱うのではなく、重力や空間、施術者との関係の中で、その変化を捉えることが重要になる。この見方については、「知覚という見方──ロルフィングは、身体の何を見ているのか」と「在り方は、どこから来るのか──ボディワーカーのための現象学」にまとめている。

もちろん、思想史とボディワークは異なる分野であり、同じ理論で説明できるわけではない。

それでも、個人を孤立した存在としてではなく、環境や他者との関係の中で捉えるという点では、共通する問題意識があると思う。

おわりに──ウィーンから学ぶ、創造性と社会の条件

2014年の世界一周旅行で、私はウィーン、プラハ、ブダペストを訪れた。当時は、ハプスブルク帝国の歴史や、それぞれの都市に残る文化に興味を持っていた。

それから12年が経った2026年1月、コケットの『Vienna』を読んだことで、ウィーンという都市を別の角度から見直すことになった。

なぜ、ウィーンから多様な思想が生まれたのか。なぜ、その思想は哲学や心理学だけでなく、経済学、経営学、芸術、社会政策など、さまざまな分野に広がっていったのか。そして、なぜ、その創造性を支えた社会は、政治的な分断と迫害によって崩壊してしまったのか。

5回を通して考えてきたのは、こうした問いである。

振り返ると、三つのことが見えてくる。

第一に、新しい思想は、個人の才能だけで生まれるわけではない。教育制度、研究機関、都市の文化、人々の交流など、さまざまな条件が重なり合うことで、創造性が生まれる。

第二に、多様な人々が集まることと、その多様性を維持できることは同じではない。異なる意見を持つ人々が議論を続けるためには、対立を調整し、自由を守る制度が必要になる。

第三に、思想は、特定の場所に固定されたものではない。人々が移動し、新しい環境に出会うことで、思想は変化し、発展していく。

ウィーンは、その三つを考えるうえで、非常に興味深い都市だった。

多様な人々が集まることで、優れた思想が生まれた。しかし、その多様性を支える社会は、政治的な対立によって崩壊した。そして、ウィーンを離れた人々が、世界各地で新しい思想を発展させていった。

この歴史から、現代の教育や組織、イノベーションについても、多くのことを考えることができる。

優秀な人材を集めるだけでは、新しい発想は生まれない。異なる人々が出会い、議論し、互いの考え方に触れることが必要になる。そして、その交流を支える制度や文化が存在しなければ、創造性を維持することは難しい。

思想を生み出すのは、個人だけではない。人と人との関係であり、その関係を可能にする社会や文化でもある。

これが、5回の連載を通して、私が最も考えさせられたことである。


参考文献

  • Richard Cockett, Vienna: How the City of Ideas Created the Modern World, Yale University Press, 2023.
  • ピーター・F・ドラッカー『傍観者の時代』
  • Peter F. Drucker, The Practice of Management, 1954.
  • Peter F. Drucker, The New Realities, 1989.(最終章「From Analysis to Perception — The New World View」)
  • Friedrich A. Hayek, The Road to Serfdom, 1944.
  • Friedrich A. Hayek, “The Use of Knowledge in Society”, 1945.
  • Karl Popper, Logik der Forschung, 1934(英語版 The Logic of Scientific Discovery, 1959)
  • Karl Popper, The Open Society and Its Enemies, 1945.
  • Otto Neurath, International Picture Language, 1936.
  • Rudolf Carnap, Logische Syntax der Sprache, 1934.

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