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多様性を生んだウィーンは、なぜ崩壊へ向かったのか?──ハプスブルク帝国から「赤いウィーン」、そしてナチズムへ

シリーズ「ウィーンから生まれた思想」第4回

はじめに──思想の黄金時代と、社会の崩壊はなぜ重なったのか

これまで3回にわたり、リチャード・コケットの『Vienna: How the City of Ideas Created the Modern World』(2023年)を手がかりに、ウィーンという都市について考えてきた。

第1回では、なぜ19世紀末から20世紀初頭のウィーンから、これほど多様な思想が生まれたのかを取り上げた。ハプスブルク帝国の多民族性、移民による都市の発展、ギムナジウムを中心とする教育制度、そしてカフェやサロンでの交流。

第2回では、木田元『マッハとニーチェ──世紀転換期思想史』を手がかりに、ブレンターノ、マッハ、フッサール、ゲシュタルト心理学、そしてメルロ=ポンティへとつながる思想の展開を考えた。

第3回では、そこで生まれた〈ゲシュタルト〉という概念が、都市を離れたあとどこまで行ったのかを追った。亡命先のカッシーラーが数学の群論と並べ、フランスのメルロ=ポンティが構造の哲学にしていく。概念は、それが生まれた都市にとどまらなかった。

ところが、このような知的な創造性を生み出したウィーンは、20世紀前半に深刻な政治的危機を迎える。1914年に第一次世界大戦が始まり、1918年にはハプスブルク帝国が崩壊した。1934年にはオーストリア国内で内戦が起こり、1938年にはナチス・ドイツによってオーストリアが併合された。

そして、ウィーンの知的な発展を支えていた多くの人々が、亡命を余儀なくされる。ここに、一つの大きな疑問がある。なぜ、多様な人々が集まり、優れた思想を生み出した社会が、その多様性を維持することはできなかったのか。

今回もコケットの『Vienna』を中心に、塚本哲也『わが青春のハプスブルク』などを参考にしながら、ウィーンの創造性と政治的崩壊の関係について考えてみたい。

1.ハプスブルク帝国──多様性を支えていたものは何だったのか

2014年の世界一周旅行では、ウィーン、プラハ、ブダペストを訪れた。現在は、それぞれオーストリア、チェコ、ハンガリーの首都である。しかし19世紀には、これらの都市はハプスブルク家の支配する広大な帝国の中にあった。塚本哲也『わが青春のハプスブルク』を読むと、この帝国が、皇帝フランツ・ヨーゼフの長い治世のもとで、さまざまな民族や宗教を抱えながら維持されていたことがわかる。

ハプスブルク帝国は、近代的な国民国家とは異なる仕組みを持っていた。

フランスではフランス語を中心とする国民国家の形成が進み、ドイツでも1871年にドイツ帝国が成立した。一方ハプスブルク帝国では、ドイツ語を話す人々だけでなく、ハンガリー人、チェコ人、ポーランド人、クロアチア人など、異なる言語や文化を持つ人々が同じ君主の支配下に暮らしていた。

そのため、帝国を維持するには、異なる集団の利害を調整する必要があった。

1867年にはオーストリア=ハンガリー二重帝国が成立し、オーストリアとハンガリーがそれぞれの政府や議会を持ちながら、君主や外交・軍事などを共有する仕組みが整えられた。しかし、この妥協は、すべての民族の要求を満たしたわけではなかった。

ハンガリー人には一定の政治的自治が認められた一方で、チェコ人や南スラヴ系の人々など、別の集団にも自治や言語上の権利を求める動きがあった。帝国の内部には、絶えず政治的な緊張が存在していた。それでも、帝国の枠組みが維持されている間は、広い地域の人々が比較的容易に移動し、ウィーンの大学で学び、仕事を探し、知的な活動に参加することができた。

ここに、最初の矛盾がある。

ウィーンの多様性は、ハプスブルク帝国という政治的な枠組みに支えられていた。しかし、その帝国自身が、多様な民族の要求を十分に調整できなくなっていた。

2.自由主義の発展と、反ユダヤ主義の台頭

19世紀後半のウィーンでは、教育制度の整備、大学の発展、都市の近代化が進んだ。こうした変化を支えたのが、自由主義的な市民層だった。彼らは、教育や科学、経済活動を通して社会を発展させようと考えていた。この時代、ユダヤ系の人々も、ウィーンの科学、医学、法律、文学、芸術などの分野で重要な役割を果たすようになった。

1867年の憲法体制のもとで、オーストリア側では法的な市民的平等が拡大し、ユダヤ系住民の社会参加の可能性も広がった。教育は、出身地や宗教的な背景を超えて、社会的な地位を獲得するための重要な手段となった。しかし、ここで注意したいことがある。法的な平等が実現したからといって、社会的な差別がなくなったわけではない。

19世紀末には、ウィーンで反ユダヤ主義を掲げる政治運動が勢力を強めていった。その代表的な人物が、1897年から1910年までウィーン市長を務めたカール・ルエーガーである。公共交通や都市インフラの整備などで実績を残した一方、反ユダヤ主義的な言説を政治的な支持の獲得に利用した人物でもあった。

ここで興味深いのは、都市の近代化と排外主義が、同じ時代に進んでいたことである。教育が発展し、科学や芸術が新しい成果を生み出しているからといって、政治的な寛容さが自動的に広がるわけではなかった。むしろ、急速な都市化や社会の変化に不安を感じる人々に対して、特定の集団を問題の原因として描く政治的な言説が、影響力を持つようになっていた。

3.1918年──帝国がなくなったとき、何が失われたのか

1914年、サラエヴォでオーストリア皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻が暗殺された。この事件をきっかけに、オーストリア=ハンガリー帝国とセルビアの対立が激化し、同盟関係や大国間の緊張を通して、第一次世界大戦へと発展していった。

戦争は、帝国の政治的・経済的な基盤を大きく揺るがした。1918年、敗戦とともにハプスブルク帝国は崩壊し、その領域からオーストリア、ハンガリー、チェコスロヴァキアなどの国家が生まれた。かつて帝国の中心だったウィーンは、広大な地域を統治する首都から、小さな共和国の首都へと変わった。

この変化は、政治制度が変わったというだけではない。

帝国内部で結びついていた市場や交通網、行政組織は、新たな国境によって分断された。食料や燃料の供給にも困難が生じ、戦争直後のウィーンでは生活環境が悪化した。人口200万人規模の都市を支えてきた広大な経済圏が、突然、別々の国家に分かれたのである。ここに、ハプスブルク帝国の崩壊が持つ重要な意味があると思う。

帝国は、さまざまな民族の要求を十分に満たすことができなかった。しかしその一方で、異なる地域の人々が交流するための政治的・経済的な枠組みでもあった。帝国が崩壊したことで、民族自決という新しい政治的な可能性が開かれた一方、従来のつながりも失われた。

ただし、帝国が存続していれば必ず安定した社会が続いていた、というわけではない。帝国の内部にも深刻な対立があり、その解決は容易ではなかった。重要なのは、政治的な枠組みが変わることで、人々の生活や知的な交流の条件も大きく変化したということである。

4.「赤いウィーン」──帝国崩壊後に生まれた社会実験

ここで、ウィーンの歴史は意外な展開を見せる。ハプスブルク帝国が崩壊した後、ウィーンの創造性がすぐに失われたわけではなかった。むしろ、第一次世界大戦後のウィーンでは、住宅、教育、医療、福祉などの分野で、新しい社会的な試みが始まった。

それが、1919年から1934年にかけての「赤いウィーン(Red Vienna)」と呼ばれる時代である。1919年の市議会選挙で社会民主労働党が多数派となり、ウィーンでは社会民主主義的な都市政策が進められた。当時のウィーンでは、住宅不足や貧困、衛生状態の悪化が深刻な問題となっていた。これに対して市政は、公共住宅の建設、保健衛生の改善、教育や福祉の充実などを進めていった。

代表的なものが、市営住宅の建設である。

それまでの労働者の住宅は、狭く、衛生設備も十分ではないことが多かった。赤いウィーンでは、単に住居を供給するだけでなく、共同の洗濯設備、浴場、保育施設、緑地などを備えた住宅団地が建設された。その象徴的な建物が、1930年に完成したカール・マルクス・ホーフである。

この巨大な市営住宅は、住まいを個人の問題としてだけでなく、社会全体の生活環境を改善するための基盤として考えた都市政策を象徴している。興味深いのは、こうした改革が、単に貧困対策として行われたわけではないことである。健康で文化的な生活を送るためには、住宅だけでなく、教育、医療、衛生、余暇などを含めて、生活環境そのものを整える必要がある。赤いウィーンの政策には、そうした発想があった。

第1回で取り上げたギムナジウムや教養教育が、個人の知的な成長を支える制度だったとすれば、赤いウィーンは、より広い市民層の生活と教育の条件を整えようとする試みだったとも考えられる。つまり、ウィーンでは帝国崩壊後も、制度を通して社会を変えようとする動きが続いていた。

5.ウィーン学団──科学と哲学を結びつけようとした人々

赤いウィーンの時代には、哲学や科学の分野でも重要な動きが続いていた。

その一つが、ウィーン学団(Vienna Circle)である。1920年代を中心に、モーリッツ・シュリック、ルドルフ・カルナップ、オットー・ノイラートらが参加した哲学者・科学者の集まりだった。彼らが問題にしたのは、科学的な知識とは何か、そして哲学はどのような役割を果たすべきかということである。

ある主張が、経験や観察によって確かめられるのか。それとも、実際には検証できない言葉を並べているだけなのか。ウィーン学団の思想家たちは、論理学や数学、自然科学の成果を使いながら、こうした問題を検討した。彼らの立場は一般に「論理実証主義(Positivism、ポジティズム)」や「論理経験主義」と呼ばれるが、参加者の考え方がすべて一致していたわけではない。

参考に、「ポジティズム(実証主義)」の語源は、ラテン語の positum(置かれたもの、与えられた事実) にある。ポジティブ(Positive)という言葉には、現代では「前向き」という意味が強いが、哲学においては「現実にそこに存在する、確固たる事実」を意味する。

特に興味深い人物が、オットー・ノイラートである。ノイラートは、哲学や科学だけでなく、経済、教育、社会政策にも関心を持っていた。社会の複雑な情報を誰もが理解できる形で伝えるために、図像を用いた視覚的な表現方法の発展にも取り組んだ。

ここには、第1回で取り上げたウィーンの特徴が引き継がれている。哲学者が科学を考え、科学者が社会問題に関心を持ち、教育や情報伝達の仕組みを作ろうとする。専門分野を越えて問題を考える姿勢である。ただし、ウィーン学団と赤いウィーンの市政を、同じ政治運動として捉えることはできない。学団の中にも異なる政治的立場があり、研究の目的も一様ではなかった。

それでも、帝国崩壊後のウィーンにおいて、知的な創造性がなお続いていたことを示す重要な事例である。

6.社会を変えようとする力と、それに反発する力

では、なぜ赤いウィーンの社会改革は、長く続かなかったのか。背景には、オーストリア国内の深刻な政治的対立があった。第一次世界大戦後、オーストリアでは社会民主労働党と、キリスト教社会党を中心とする保守勢力が対立していた。

社会民主労働党は、労働者の生活改善や社会保障の充実を重視した。一方、保守勢力は、カトリック的な価値観や伝統的な社会秩序を重視し、社会主義の拡大を警戒していた。

特に問題だったのは、この対立が議会での議論だけにとどまらなかったことである。

両陣営の周辺には武装組織が存在し、政治的な緊張が高まるにつれて、暴力的な衝突が起こるようになった。

1927年には、政治的な暴力事件をめぐる裁判の判決に抗議する大規模なデモが発生し、ウィーンの司法宮殿が炎上した。警察による発砲もあり、多数の死傷者が出た。この事件は、オーストリア社会の分断を象徴する出来事となった。さらに1929年の世界恐慌以降、経済状況は悪化し、失業や生活不安が広がっていった。社会改革を進めようとする勢力と、それを脅威と感じる勢力との間で、妥協の余地は次第に狭まっていく。

ここで重要なのは、赤いウィーンの改革が成果を上げていたとしても、それだけでは政治的な安定を保証できなかったということである。住宅や教育、医療を改善する制度が存在していても、その制度を支える政治的な合意が失われれば、改革そのものが危機にさらされる。

7.1934年──カール・マルクス・ホーフが戦場になった

1933年、首相エンゲルベルト・ドルフースは、議会の機能停止を契機として議会政治を事実上停止させ、権威主義的な統治を進めた。そして1934年2月、政府側と社会民主主義勢力との間で武力衝突が起こった。一般に「オーストリア内戦」あるいは「二月蜂起」と呼ばれる事件である。

戦闘はウィーンをはじめ、オーストリア各地で発生した。

特に象徴的だったのが、カール・マルクス・ホーフでの戦闘である。わずか数年前、労働者の生活環境を改善するために建設された巨大な市営住宅が、政府軍と社会民主主義勢力との戦場になった。政府側は砲兵を投入し、住宅団地への攻撃も行った。

住まいを通して社会を変えようとした場所が、政治的な対立によって破壊される。

この出来事は、赤いウィーンの終わりを象徴している。内戦後、社会民主労働党は禁止され、ウィーンの民主的な自治も失われた。ドルフース政権は、議会制民主主義に代わる権威主義的な体制を確立していった。ここで注意したいのは、この体制が、1938年にオーストリアを併合するナチス・ドイツと同じものではなかったことである。

ドルフース政権は反民主主義的な統治を進めたが、同時にオーストリアの独立を維持しようとし、国内のナチス勢力とも対立していた。1934年7月にはオーストリアのナチスによるクーデター未遂事件が起こり、ドルフースは暗殺された。つまり、オーストリアでは、民主主義の崩壊、国内の権威主義化、ナチス勢力の台頭が、複雑に重なり合っていた。

8.1938年──ウィーンの知的な世界が破壊された

1938年3月、ナチス・ドイツはオーストリアを併合した。この出来事は「アンシュルス(Anschluss)」と呼ばれる。ヒトラーはオーストリア出身であり、オーストリアとドイツの統合を主張していた。1938年3月12日、ドイツ軍がオーストリアに進駐し、翌13日に併合が法制化された。

ウィーンでは、ヒトラーを歓迎する大規模な群衆が集まった。ただし、この出来事を、オーストリア国民全員が自由な意思で併合を支持した結果として理解することはできない。ナチスの威圧や政治的な弾圧があり、反対者やユダヤ系住民は迫害の対象となっていた。

それでも、オーストリア国内にナチスへの支持や反ユダヤ主義が広く存在していたことも、見過ごすことはできない。併合後、ユダヤ系住民に対する暴力や財産の没収、職業からの排除が急速に進められた。ウィーンの知的な発展を支えてきた大学や研究機関も、大きな打撃を受けた。ユダヤ系の研究者や学生、政治的に反対する人々が大学から排除され、多くの知識人が国外へ逃れた。

ここで、このシリーズの最初の問いに戻りたい。

第1回では、ウィーンの創造性を支えていた条件として、多様な人々が集まり、教育を受け、専門分野を越えて交流できる環境を挙げた。しかし、1938年以降、その環境は政治的な力によって破壊されていった。ウィーンが生み出した知的な豊かさは、社会の中で自然に守られるものではなかった。

9.チャーチルは、帝国の崩壊をどう見ていたのか

ここで、もう一つ紹介したいのが、ウィンストン・チャーチルの歴史解釈である。チャーチルは、第一次世界大戦後にドイツのホーエンツォレルン家やオーストリアのハプスブルク家の君主制が失われたことを、ヨーロッパの政治的不安定化と結びつけて論じていた。

長く続いた君主制が消滅したことで政治的な空白が生まれ、その空白がヒトラーのような独裁者の台頭を許したのではないか、という議論である。ハプスブルク帝国は、多民族国家として深刻な矛盾を抱えていた。しかしその一方で、異なる民族や地域を一つの政治的な枠組みの中に結びつける役割も果たしていた。

その枠組みが失われたことで、民族国家の成立という新しい可能性が開かれた一方、国境問題や少数民族の問題、経済的な分断など、新たな不安定要因も生まれた。

ただし、チャーチルの見解は、一つの歴史解釈である。君主制が維持されていればヒトラーは登場しなかった、と証明することはできない。第一次世界大戦後の経済危機、民主主義の弱さ、民族主義、反ユダヤ主義、ナチスの政治運動など、多くの要因を考える必要がある。

それでも、この問題提起は、制度が失われたときに何が起こるのかという問いを考えるうえで参考になる。政治制度には、法律や行政を運営するだけでなく、異なる集団の利害を調整し、社会の対立を抑える役割もある。その機能が失われたとき、社会の多様性は創造性ではなく、分断や暴力につながる可能性がある。

10.多様性があることと、多様性を維持できることは違う

ここまでウィーンの歴史を見てきて、特に重要だと感じるのは、多様性と創造性の関係である。第1回では、多様な人々が集まることが、新しい思想を生み出す条件になっていたと考えた。異なる言語や文化を持つ人々が集まり、教育を受け、カフェやサロンで議論する。そうした交流の中から、従来の枠組みにとらわれない発想が生まれる。

しかし、今回の歴史を振り返ると、もう一つの条件が必要だったことがわかる。

異なる人々が対立しながらも、同じ社会の中で暮らし続けられる仕組みである。

多様な人々が存在するだけでは、創造性は保証されない。互いの違いを認め、対話し、意見が対立したときにも暴力ではなく制度を通して調整できることが重要になる。ハプスブルク帝国は、そのような調整を十分に実現できなかった。帝国崩壊後のオーストリアでも、政治的な対立は深まり、1934年には内戦に至った。そして1938年、ナチスによる併合と迫害によって、ウィーンの知的な多様性そのものが破壊されていった。

ここには、イノベーションを考えるうえでも重要な教訓がある。

私たちは、優秀な人材を集め、異なる専門家を交流させれば、新しいアイデアが生まれると考えがちである。しかし、それだけでは十分ではない。異なる意見を持つ人々が、安心して議論できること。意見が対立したときに、相手を排除するのではなく、対話を続けられること。そして、そうした関係を支える制度が存在すること。

ウィーンの歴史は、創造性を生み出す条件と、それを維持する条件が、必ずしも同じではないことを示している。

おわりに──ウィーンの思想は、都市の外へ広がっていった

2014年にウィーン、プラハ、ブダペストを旅したとき、私はそれぞれの都市に残るハプスブルク帝国の歴史を見ていた。2026年1月にコケットの『Vienna』を読んで改めて感じたのは、ウィーンの歴史が、一つの都市の繁栄と衰退の物語ではないということである。

異なる人々が集まることで、新しい思想が生まれる。しかし、その多様性を支える制度が弱まると、社会は分断へ向かうこともある。ウィーンは、その両方を経験した都市だった。ただし、ウィーンの知的な歴史は、1938年で終わったわけではない。

ナチズムの台頭や政治的な迫害によって、多くの研究者や思想家が国外へ移住した。そして、彼らが移住先で研究や教育を続けることで、ウィーンで育まれた思想は、アメリカやイギリスをはじめとする世界各地へ広がっていった。

第3回で見たカッシーラーも、その一人である。ドイツを離れ、亡命先で書いた遺稿が、ウィーン生まれの概念を数学史の中に位置づけることになった。ドラッカー、ハイエク、ポパー、カルナップ、ノイラートなど、それぞれ異なる経緯でウィーンや中欧を離れた人々も、移住先で新たな活動を展開していく。

彼らの移住時期や理由は一様ではない。ナチスによる迫害を逃れた人もいれば、それ以前に研究や仕事のために移住した人もいる。しかし共通しているのは、ウィーンや中欧で形成された知的な背景を、新しい社会へ持ち込んだということである。

次回は、ウィーンを離れた人々が、なぜ現代世界にこれほど大きな影響を与えたのかを考えてみたい。


参考文献

  • Richard Cockett, Vienna: How the City of Ideas Created the Modern World, Yale University Press, 2023.
  • 塚本哲也『わが青春のハプスブルク──皇妃エリザベートとその時代』
  • ピーター・F・ドラッカー『傍観者の時代』
  • Carl E. Schorske, Fin-de-Siècle Vienna: Politics and Culture, 1980.
  • Stefan Zweig, The World of Yesterday, 1942.

年代や事件の経緯については、ウィーン市公式サイトの “From Socialism to Fascism” および “February 1934″、米国ホロコースト記念博物館の “Vienna” “The Anschluss”、ウィーン大学の “Antisemitismus an der Universität Wien” も参照しています。

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