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ウィーンで生まれた〈ゲシュタルト〉は、どこまで行ったのか?──群論、構造の哲学、そして構造主義へ

シリーズ「ウィーンから生まれた思想」第3回

はじめに──概念は、都市を出ていく

第2回では、ブレンターノからマッハ、フッサール、エーレンフェルス、ゲシュタルト心理学、そしてメルロ=ポンティへという流れをたどった。その中で、1890年にウィーンで一つの概念が生まれている。エーレンフェルスの〈ゲシュタルト質〉である。

メロディーは、全体を移調しても同じメロディーとして聞こえる。一つひとつの音の高さは変わっているのに、まとまりは保たれている。では、そのまとまりはどこにあるのか。

今回は、この概念がその後どこまで行ったのかを追いたい。行き先は、意外な方向である。数学と、フランスの哲学だった。しかも、その二つをつないだ人物は、ウィーンの人ではない。ドイツで教え、ナチスから逃れて国を出た哲学者である。

概念は、それが生まれた都市にとどまらない。この回は、その移動の記録になる。手がかりにするのは、前回と同じく木田元『マッハとニーチェ:世紀転換期思想史』である。

1.ゲシュタルト心理学は、一度消えている

最初に、意外に知られていないことを書いておきたい。ゲシュタルト心理学は、理論として整った頃に、心理学の主流から外れている。

木田元は、こう書いている。

やはりマッハに端を発し、エーレンフェルス、グラーツ学派を経て、最終的にはベルリン学派のウェルトハイマー、コフカ、ケーラーによって確立されたゲシュタルト心理学も、一九二〇年代にそれが理論的に整備されおえたころには、心理学界において行動主義のパラダイムが支配的になり、意識について語ることは禁じられてしまう。「心ぬきの心理学」の時代に入ったのである。

「心ぬきの心理学」。観察できる行動だけを扱い、意識については語らない。ゲシュタルト心理学が問題にしていた「見えているまとまり」は、その枠組みでは扱えない。

復活には、時間がかかった。

この領域でゲシュタルト理論の再評価がはじまるのは、一九六〇年代以降の認知心理学の時代、それも反認知主義の代表者J・J・ギブソンの〈生態学的知覚論〉の登場あたりまで待たなければならなかった。

40年近い空白がある。

ただし、木田元はその直後にこう続けている。

ゲシュタルト理論が一定の役割を果たしたのは、むしろ一九二〇年代以降の哲学の領域においてである。

心理学からは外れたが、哲学では働き続けた。今回たどるのは、この線である。

2.カッシーラー──亡命先で書かれた、最後の遺稿

ここで登場するのが、エルンスト・カッシーラー(Ernst Cassirer, 1874–1945)である。ドイツの哲学者で、ハンブルク大学で教えた。学長も務めている。1933年にナチスが政権を握るとドイツを離れ、イギリス、スウェーデンを経てアメリカへ渡った。そして1945年、ニューヨークで亡くなっている。

その最後の年、1945年4月に書かれた遺稿がある。

「群の概念と知覚の理論についての考察」。

タイトルだけ見ると、何の話か分かりにくい。数学の〈群〉と、心理学の〈ゲシュタルト〉。この二つの概念が、それぞれの分野で同じ役割を果たしたのではないか──カッシーラーは、その平行関係に注目した。ウィーンで生まれた概念が、亡命先のアメリカで、数学の歴史と並べられたことになる。

では、数学の〈群〉とは何だったのか。

3.数学で、同じことが起きていた

群論は、もともと代数方程式を解くための理論として始まった。有名なのが、エヴァリスト・ガロアである。フランスの数学者で、20歳のときに決闘で死んだ。その独創的な理論が、後に群論として整えられていく。群論が数学の普遍的な分野として確立されたのは、19世紀後半である。木田元によれば、そこで決定的な役割を果たしたのが、ノルウェーの数学者ソフス・リーと、ドイツの数学者フェリックス・クラインだった。

二人は、群を〈変換群〉として捉えなおした。

クラインがエルランゲン大学の就任講演で示した構想は、「エルランゲン・プログラム」と呼ばれている。

その中身を一言で言うと、こうなる。

幾何学が扱っているのは、〈空間〉と呼ばれる事物の性質ではない。変換を通して不変にとどまる性質である。図形を回しても、裏返しても、拡大しても、変わらずに残るものがある。何を変換として認めるかを決めれば、何が「同じ」で何が「違う」かが決まる。幾何学の種類は、選んだ変換群によって決まる。

カッシーラー自身の言葉で言うと、こうなる。

幾何学的な意味でなにが〈同一〉でありなにが〈相違〉していると解されなくてはならないかは、けっして最初に前もって決定されているわけではない。反対に、それを決定するのは、幾何学研究の本性、すなわち確立された変換群の選択なのである

この考え方は、物理学にも広がっていった。ヘルマン・ワイル『群論と量子力学』(1928年)によって群の概念が量子力学に持ち込まれ、エディントン『物理学の哲学』(1939年)でも扱われている。現代物理学の基本的な概念である〈構造〉という考え方は、数学の群論と結びつくことで、はるかに精確になった。

4.メロディーは、変換を通して残るもの

ここで、エーレンフェルスに戻りたい。

移調しても、同じメロディーとして聞こえる。これは、変換を通して不変にとどまるものを聞いている、ということである。一つひとつの音の高さは変換されている。だが、音と音との関係は保たれている。残っているのはその関係のほうで、私たちはそれをメロディーとして聞いている。

クラインが幾何学について言ったことと、同じ形をしている。

カッシーラーが見たのは、この平行関係だった。木田元はこうまとめている。

その上でカッシーラーは、数学において〈群〉の概念によって惹き起こされたこの革新と、ゲシュタルト心理学によって知覚理論に惹き起こされた革新とにある対応を認める。

そして、その革新が何だったのかも、はっきり書かれている。

問題は、バークリーやヒュームにはじまり十九世紀の心理学を全面的に支配してきた感覚主義、つまり知覚とはばらばらな感覚与件の集合だとする考え方が否定され、そうした感覚の論理には還元されない〈構造〉が一般に認められるようになったところにある。

知覚は、バラバラな感覚の寄せ集めではない。第2回で見たゲシュタルト心理学の主張が、ここでは数学史と並べて位置づけられている。

5.ヘーリング──知覚は、受け取ることではない

カッシーラーは、エーレンフェルスより前にも、同じ方向への萌芽があったことを指摘している。エーヴァルト・ヘーリングによる〈知覚の恒常性〉の発見である。ヘーリングはドイツの生理学者で、色覚や空間知覚の研究で知られる。

名前が紛らわしいので、断っておきたい。第2回で出てきた〈恒常仮定〉とは、別のものである。恒常仮定は、刺激と感覚のあいだに一対一の対応があるという前提だった。一方、ここでいう〈知覚の恒常性〉は、刺激が変わっても見えているものが変わらない、という現象を指す。後者があるなら、前者は成り立たない。

木田元の要約を引く。

ヘーリングは、通常の日の光のもとで白く見える紙は、薄暗い部屋のなかでも白く見えるものだし、ある距離で見られていた対象は、倍の距離に遠ざけられ、網膜像が二分の一になっても、もとの大きさを帰属させられるものだと主張した。これも、われわれが感覚与件のもたらす多様の変化のなかから一定の変換群を選択し、その変換を通して〈不変項〉をもとめることによって可能になるのである。

白い紙は、暗い部屋でも白く見える。遠ざかった人は、小さくなったとは見えない。網膜に映っている像は変わっているのに、見えているものは変わらない。

これを、変換群の選択として説明している。知覚は、変化のなかから不変なものを求めている。

そして、ここから出てくる言い方が印象的である。

知覚は、いわば幾何学がおこなう操作のもっとも初歩的な段階を遂行していることになる。

ヘーリングの発見は、感覚知覚がけっして単に受動的ないし受容的なものではなく、選択能力をもった能動的な課程であることを教えている

知覚は、受け取ることではない。選ぶことである。

この論点は、ボディワークの側から書いた「知覚という見方──ロルフィングは、身体の何を見ているのか」でも中心に置いている。施術者が身体を見るとき、何を図にして何を地にするかを選んでいる。その具体的な話は、「同じ身体を見ていて、違うものが見える──ゲシュタルト心理学が明かした、見ることの仕組み」にまとめた。

6.実体から、構造へ

カッシーラーは、この平行関係を一つの分野の話として扱わなかった。諸科学にまたがる認識論の問題として、つまり実体的思考から構造的思考への移行として、一般的に考察している。これは、彼の長年の主題でもあった。『実体概念と関数概念』(1910年)、『シンボル形式の哲学』三巻(1923年、25年、29年)と続く仕事である。

言い方を変えると、こうなる。

「それは何でできているか」から、「それはどういう関係でできているか」へ。

物を、それ自体として存在する実体として捉えるのではなく、関係の中で成り立つ構造として捉える。数学では群論が、物理学では場や対称性の考え方が、心理学ではゲシュタルトが、同じ方向を向いていた。そして、この移行をもう一つ別の道筋で進めた人がいる。

7.メルロ=ポンティの『行動の構造』

メルロ=ポンティの処女作は、1942年の『行動の構造』である。『知覚の現象学』(1945年)より3年早い。

表題からして、構造という語が入っている。

彼が直接の拠りどころにしたのは、クルト・ゴルトシュタイン『生体の機能』(1934年)だった。ゴルトシュタインはドイツの神経学者で、脳損傷の患者を診るなかで、症状を部分の故障として説明するのではなく、生体が全体として環境に適応しようとする働きから捉えようとした人である。

木田元は、『行動の構造』で何が企てられていたかを、こうまとめている。

メルロ=ポンティは、『行動の構造』において、物質・生命・精神を三つの異なる実体として見る「実体の哲学」に代えて、この三つを構造の統合度の異なる三つの階層としてとらえる「構造の哲学」を提唱している

物質があり、生命があり、精神がある。この三つは、別々の素材でできているのではない。構造としてのまとまり方が違う、三つの段階である。ウィーンで生まれたゲシュタルトという概念が、ここでは存在そのものを捉える枠組みになっている。

8.ただし、彼はゲシュタルト理論を批判した

ここは、丁寧に書いておきたい。

メルロ=ポンティは、ゲシュタルト心理学をそのまま受け継いだわけではない。高く評価したうえで、批判している。

評価のほうから書く。『知覚の現象学』で彼は、ゲシュタルト心理学が実行しているのはフッサールの現象学が理論化したものと同じ様式の反省であり、恒常仮説に対するその批判は、本質的には現象学的還元と同じ価値をもつと述べている。かなり強い評価である。だが、そのあとに批判が続く。

ゲシュタルト理論は、心理学上の原子論を徹底的に批判しながらも、それが「決定された存在あるいは[客観的]世界についての偏見という、より一般的な偏見の一特殊例である」ということに気づかないため、「いざ自分に理論的骨組をあたえようと試みる段になると、自分のもっとも有効な記述を忘れてしまい」、素朴な実在論に帰ってしまうのだと述べている

何を言っているのか、整理したい。

ゲシュタルト心理学は、知覚を要素に分解する考え方を批判した。だが、その批判は、もっと大きな前提への批判の一部でしかなかった。客観的な世界が向こうに決まった形で存在している、という前提である。

そこに気づかないまま理論を組み立てようとすると、どうなるか。心的なゲシュタルトを、それと対応する生理的なゲシュタルトで裏づける。さらに、その生理的なゲシュタルトと同じ特性をもつ物理的なゲシュタルトを考える。〈同型説〉と呼ばれる考え方である。

結果として、すべてが物理的世界に引き戻される。要素還元主義を批判したはずなのに、実在論に戻ってしまう。

木田元は、メルロ=ポンティの立場をこうまとめている。

だが、ゲシュタルトという概念には、本来そうした実在論的要請を破砕するだけの含蓄がある。そこで、ゲシュタルトそのものに問いかけ、その含蓄を展開することによって、物質・生命・精神をそれぞれに自律的な構造の統合度の異なる三秩序としてとらえようとするのが、メルロ=ポンティの提唱する〈構造の哲学〉なのである。

受け継いだが、そのままではなかった。概念を引き取り、その含みを最後まで展開しようとした、ということになる。この分かれ目については、ボディワークの側からも一本書いている(「部分を足しても、身体にならない──現象学とゲシュタルト心理学が分かれた場所」)。

9.そして、構造主義へ

話は、もう一歩進む。

1959年、メルロ=ポンティは「モースからクロード・レヴィ=ストロースへ」という文章を書いている。レヴィ=ストロースは、親族関係や神話を構造として分析したフランスの人類学者である。

ここでメルロ=ポンティは、レヴィ=ストロースの〈構造〉概念を、自分の〈構造〉概念に近づけようとしている。

構造はヤヌスのように二つの顔をもっている。一方でそれは、そこに入りこんでくる諸要素をある内的原理によって組織するものであり、それは意味なのだ。だが、構造が担っているこの意味は、[物]によって媒介された」いわば鈍重な意味なのである

木田元の見方は、こうである。

少なくとも彼の思想は、現象学を構造主義に橋渡ししようとするものだったと見ることができよう。

1890年のウィーンで、メロディーについて書かれた概念が、70年後のフランスで、人類学の構造概念と突き合わされている。

10.一つの概念が、分野をまたいで動いた

ここまでの移動を、並べておきたい。

年場所できごと
1890年ウィーンエーレンフェルス「ゲシュタルト質について」
1912年〜ベルリンウェルトハイマー、コフカ、ケーラーによるゲシュタルト心理学
1920年代アメリカ中心行動主義が主流に。「心ぬきの心理学」へ
1942年フランスメルロ=ポンティ『行動の構造』。構造の哲学
1945年アメリカ(亡命先)カッシーラーの遺稿。群論とゲシュタルトの平行関係
1959年フランスメルロ=ポンティ、レヴィ=ストロース論。構造主義への橋渡し
1960年代アメリカギブソンの生態学的知覚論。ゲシュタルト理論の再評価

一つの概念が、心理学から数学へ、哲学へ、人類学へと渡っていった。そして、その多くは、生まれた都市の外で起きている。第1回で、ウィーンの創造性を支えた条件として、異なる分野の人々が出会う環境を挙げた。ギムナジウムの教養教育、大学、カフェとサロン。

今回見てきたのは、その環境を離れたあとでも、分野をまたいだ結びつきが起き続けたということである。

カッシーラーがウィーンにいたわけではない。メルロ=ポンティはフランスの人である。それでも、ウィーンで出された問いは、彼らのところへ届いていた。

11.残された問い──ウィトゲンシュタインのアスペクト論

もう一つ、同じ系統に属する試みがある。ウィトゲンシュタイン『哲学探究』第二部の〈アスペクト論〉である。同じ図形が、あるときは兎に見え、あるときは家鴨に見える。見ているものは同じなのに、見え方が切り替わる。この現象をめぐる考察である。木田元は、これをゲシュタルト概念の批判的展開の試みとして挙げたうえで、「私の力にあまる」と書いて、村田純一『知覚と生活世界』所収の論文にゆずっている。

ウィトゲンシュタインもまた、ウィーンの人である。この線は、いずれ別に辿ってみたい。

おわりに──まとまりは、どこにあるのか

今回たどったのは、一つの問いの行方だった。

まとまりは、どこにあるのか。

メロディーは、個々の音の中にはない。幾何学の対象は、図形そのものの中にはない。知覚される白さは、網膜に届いた光の量の中にはない。いずれも、関係の中にある。そして、何を変換として認めるかによって、何が残るかが決まる。この考え方は、私自身の仕事とも遠くない。

ロルフィングでは、クライアントの身体を見るとき、部分の形だけを見ているわけではない。歩いてもらい、立ってもらい、動きの中で変わるものと変わらないものを見ている。変化を通して残っているもののほうが、その人の在り方を示していることがある。もちろん、幾何学の変換群と、身体の観察を同じ理論で説明できるわけではない。

それでも、「何を同じと見るかは、前もって決まっていない」というカッシーラーの指摘は、見ることを仕事にしている人間にとって、重い言葉だと思う。

次回は、都市の側の話に戻る。

これほどの創造性を生み出したウィーンが、なぜ崩壊へ向かったのか。第一次世界大戦、ハプスブルク帝国の崩壊、「赤いウィーン」、そしてナチズム。多様性があることと、その多様性を維持できることは、同じではなかった。


参考文献

この回の内容と引用は、木田元『マッハとニーチェ:世紀転換期思想史』(新書館 2002年/講談社学術文庫 2014年)の「ゲシュタルト概念の役割と数学における〈群〉の概念」「実体的思考から構造的思考へ」の各節によります。

  • Ernst Cassirer, “Reflections on the Concept of Group and the Theory of Perception”(1945年の遺稿。邦訳は『象徴・神話・文化』所収)
  • Ernst Cassirer, Substanzbegriff und Funktionsbegriff(『実体概念と関数概念』1910年)
  • Maurice Merleau-Ponty, La Structure du comportement(『行動の構造』1942年)
  • Maurice Merleau-Ponty, Phénoménologie de la perception(『知覚の現象学』1945年)
  • Kurt Goldstein, Der Aufbau des Organismus(『生体の機能』1934年)
  • 村田純一『知覚と生活世界』所収「形の知覚」

メルロ=ポンティとカッシーラーの文章は、木田元による訳文および要約から引いています。原文にあたったものではありません。

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英語で読みたい方へ。この回で扱った思想の流れは、Rolfing ZERO の英語版に2本あります。It Began with Consciousness と A Hundred Years to Reach the Body です。


シリーズ「ウィーンから生まれた思想」全5回

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