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なぜウィーンから、これほど多様な思想が生まれたのか?──ハプスブルク帝国、教育制度、カフェ文化から考える

シリーズ「ウィーンから生まれた思想」第1回

はじめに──2014年の旅と、2026年1月に読んだ一冊

2014年、世界一周旅行をしていたとき、ぜひ訪れたいと思っていた都市の一つが、オーストリアのウィーンだった。旅ではウィーンだけでなく、プラハやブダペストにも足を運んだ。現在はそれぞれ異なる国の首都だが、いずれも、かつてハプスブルク帝国の歴史と深く結びついていた都市である。当時の旅については、「東欧3カ国の旅〜国境を越えること」に記録している。

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ウィーンと聞くと、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスが活躍した「音楽の都」を思い浮かべる。しかし、哲学や認知科学、心理学の歴史を学んでいくと、この都市が音楽だけでなく、人間や世界の見方を大きく変えた思想を数多く生み出していたことに気づく。

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フロイトの精神分析、マッハの科学哲学、ブレンターノの心理学と哲学、そこからつながる現象学やゲシュタルト心理学。さらに、経済学のハイエク、経営学のドラッカーなど、現代社会に大きな影響を与えた人物たちも、ウィーンの知的環境と深く関係している。

もちろん、これらの人物が全員ウィーンで生まれ、同じ時期に活動していたわけではない。それでも、19世紀後半から20世紀前半にかけて、ウィーンとその周辺からこれほど多様な思想が登場したことには驚かされる。

なぜ、ウィーンだったのか。

2026年1月に読んだリチャード・コケット(Richard Cockett)『Vienna: How the City of Ideas Created the Modern World』(2023年)は、この疑問を考えるうえで非常に面白い一冊だった。

コケットは、ウィーンが現代の科学、哲学、芸術、経済、政治に与えた影響を幅広く描いている。特に面白いのは、その創造性を特定の天才の存在だけで説明しようとしていないことである。ハプスブルク帝国の多民族性、移民による都市の発展、教育制度、カフェやサロンでの交流。さまざまな条件が関係していたという。

私は以前から、優れた研究成果や新しい思想がどのような環境から生まれるのかに関心を持っていた。2025年11月には、ダーウィンの進化論を支えたイギリスの社会制度や、日本の大学制度の成立についてブログにまとめている(『チャールズ・ダーウィンの「進化論」——ジェントルマン社会が生み出した成果』参照)。

今回は、コケットの『Vienna』を中心に、塚本哲也『わが青春のハプスブルク』、ピーター・ドラッカー『傍観者の時代』、エリック・カンデル『The Age of Insight』なども参考にしながら、なぜウィーンから多様な思想が生まれたのかを考えてみたい。

1.ハプスブルク帝国──異なる民族が集まる都市

ウィーンを理解するうえで、最初に知っておきたいのがハプスブルク帝国の存在である。

ハプスブルク家は、長い期間にわたって中欧の広大な地域を統治していた。1867年にはオーストリア=ハンガリー二重帝国が成立し、ウィーンはその中心地となった。

この帝国には、ドイツ語を話す人々だけでなく、ハンガリー人、チェコ人、ポーランド人、クロアチア人、スロヴェニア人、イタリア人など、異なる言語や文化を持つ人々が暮らしていた。宗教も、カトリックだけでなく、プロテスタント、ユダヤ教、東方正教会など多様だった。

2014年に訪れたウィーン、プラハ、ブダペストも、こうした帝国の歴史の中で発展してきた都市である。現在の国境を基準に考えると見えにくいが、かつては人々や物資、知識が同じ帝国の内部を行き来していた。

塚本哲也『わが青春のハプスブルク』は、皇帝フランツ・ヨーゼフや皇妃エリザベートの生涯を通して、この帝国の歴史を描いている。華やかな宮廷文化の背後には、民族問題や政治的な緊張が存在していた。多様な人々が暮らしていたことは、平等で調和した社会だったことを意味しない。

それでも、異なる地域の人々が一つの政治的・経済的な枠組みの中で行き来できたことは、ウィーンの発展を考えるうえで重要である。

コケットは、ウィーンを単なるオーストリアの首都ではなく、帝国各地から人々が集まる都市として捉えている。ウィーンで活躍した思想家や芸術家の中には、本人だけでなく、親や祖父母の世代に帝国内の別の地域から移り住んだ人々も多かった。

ウィーンの文化は、もともとそこに暮らしていた人々だけで作られたものではなかった。

2.人口43万人から200万人へ──移民が作った都市

コケットの著書で印象的だったのが、ウィーンの人口の変化である。

1857年には約43万人だった人口が、1910年には200万人を超えた。半世紀ほどの間に、都市の規模が大きく変わっている。背景には、帝国内部での移動と、産業・商業の発展がある。仕事や教育の機会を求めて、多くの人々がウィーンに移り住んだ。ボヘミアやモラヴィア、ハンガリー、ガリツィアなど、さまざまな地域から人々が集まった。

ここで興味深いのは、コケットが「ウィーン人」というアイデンティティに注目していることである。

人々は、それぞれ異なる民族や宗教、出身地を持っていた。しかし、ウィーンで学び、働き、文化に参加することを通して、自分を「ウィーン人」と考えるようにもなった。もちろん、すべての人が同じように受け入れられたわけではない。差別や社会的な格差は存在していた。それでも、出身地とは別に、都市そのものへの帰属意識が形成されていた点は重要だと思う。

ただし、人が集まるだけで新しい思想が生まれるわけではない。異なる背景を持つ人々が共通の話題について議論するためには、教育や言語という基盤も必要になる。

そこで注目したいのが、ドイツ語圏で発展したギムナジウムという教育制度である。

3.ギムナジウム──専門家になる前に、教養を身につける

私は以前から、ギムナジウム(Gymnasium)に関心を持っていた。

2014年の世界一周旅行では、南米を42日間旅した。そのうち約25日間を一緒に過ごしたのが、ハンブルク出身のイラン系ドイツ人、Babakさんだった。彼との会話を通して、ドイツの教育制度について多くのことを学んだ。その内容は、「世界一周から学ぶ(1)〜ドイツの教育と移民」にまとめている。

特に印象に残っているのが、Babakさん自身の経験である。ドイツでは、伝統的に、初等教育を終えた段階で、大学進学を目指すギムナジウムなど、異なる教育課程へ進む仕組みがある。移民家庭に育ったBabakさんは、ギムナジウムに進学するため、9歳の頃からドイツ語の習得に懸命に取り組んだという。彼にとって、言語を学ぶことは、将来の教育機会を広げることと直接結びついていた。

それから12年近くが経った2026年1月、コケットの『Vienna』を読んだとき、改めてギムナジウムの重要性に気づかされた。

19世紀のオーストリアでは、ギムナジウムを中心とする中等教育が整備され、大学で専門分野を学ぶ前に、古典語、文学、歴史、数学、自然科学など、幅広い教養を身につけることが重視されていた。

その背景には、Bildung(ビルドゥング)という理念がある。知識を習得するだけでなく、古典や文学、哲学、歴史、科学を学ぶことを通して、自分自身の人格や判断力を形成していくという考え方である。

オーストリアでは1849年にギムナジウムの制度改革が行われ、8年間の課程と卒業試験であるマトゥーラ(Matura)が整備された。コケットによれば、ギムナジウムと、より科学・実業教育に重点を置いた実科学校(Realschule)などの中等教育機関は、19世紀後半に大きく増加した。

ここで考えてみたいのは、この教育がイノベーションとどう関係していたのかということである。

私たちは、イノベーションというと、特定の専門分野で卓越した能力を持つ人が新しい技術や理論を生み出すことを想像しがちである。しかし、まったく異なる分野の知識を結びつけることから、新しい発想が生まれる場合もある。

科学者が哲学を学び、芸術家が医学や心理学に関心を持つ。異なる分野の専門家が集まったとき、互いの話を理解するための共通の知識があれば、議論は深まる。

ギムナジウムの教育は、そうした交流の基盤を提供していた。

もっとも、ギムナジウムを理想化することはできない。当時の教育は誰にでも平等に開かれていたわけではなく、古典語を中心とする授業には暗記や規律を重視する側面もあった。コケットも、シュテファン・ツヴァイクやドラッカーが学校教育の硬直性を批判していたことを紹介している。

それでも、専門家になる前に幅広い世界を学ぶという考え方は、現代の教育や組織を考えるうえでも示唆に富んでいる。

4.大学は何を生み出す場所なのか──日本の制度との比較

2025年11月、私は中山茂『帝国大学の誕生』を読み、「日本の大学院・講座制度はどう生まれたのか?」という記事を書いた。

この本で興味深かったのは、日本の近代大学制度が、ドイツ、フランス、アメリカなどの異なる制度を参考にしながら形成されたことである。

ドイツ語圏では、19世紀に研究型大学の理念が発展した。ヴィルヘルム・フォン・フンボルトに結びつけられる「研究と教育の統一」という考え方では、大学は既存の知識を教える場所ではなく、教授と学生が新しい知識を探究する場所として位置づけられた。

また、ドイツでは複数の領邦国家が大学を設立・育成してきた歴史があり、大学間の競争や、学生・研究者の移動が、学問の発展を支える条件となった。

一方、日本では明治期に、国家の近代化に必要な人材を効率的に育成するため、大学制度が整備された。ドイツの研究志向や講座制度を取り入れながらも、国家による管理が強く、教授を中心とする研究組織が固定化しやすい構造も生まれた。

もちろん、これは制度の違いを大まかに整理したものである。それでも、制度の設計が、研究者の自由度や専門分野の交流に影響を与えることは重要な問題だと思う。

ここでウィーンに戻りたい。

ギムナジウムは、専門化する前の知的基盤を形成する場所だった。大学は、専門的な知識を深め、新しい研究を生み出す場所だった。しかし、ウィーンの特徴はそれだけではない。大学の外にも、異なる分野の人々が出会う場所があった。

5.カフェとサロン──専門分野を越えて人が出会う

コケットによれば、1900年頃のウィーンには約600軒のカフェが存在していたという。

カフェは、単にコーヒーを飲む場所ではなかった。新聞を読み、原稿を書き、議論し、人と出会う場所でもあった。作家や芸術家、建築家、経済学者が、それぞれお気に入りのカフェに集まっていた。

この点で、ウィーンの都市構造も興味深い。

中心部は、比較的コンパクトな範囲に大学、劇場、美術館、カフェが集まっていた。コケットは、こうした都市の構造が、異なる分野の人々の偶然の出会いを促していた可能性を指摘している。現代でも、異なる専門家が一つの場所に集まることで新しい発想が生まれることがある。しかしウィーンの場合、それが都市の日常生活の中に組み込まれていた。

もう一つ重要だったのがサロン文化である。

サロンとは、個人の家などに知識人や芸術家、政治家が集まり、会話や議論を交わす場所である。大学の講義や学会とは異なり、参加者が同じ専門分野に属している必要はない。科学者が芸術家と話し、文学者が医学者と出会い、政治や社会について議論する。自分の専門分野だけでは出会えなかった考え方に触れることができた。

ここで重要なのは、カフェやサロンが大学の代わりだったということではない。専門的な研究を深めることと、専門の外に出て異なる考え方に触れることは、役割が違う。ウィーンでは、その両方が近い距離に存在していた。

6.イギリスのコーヒーハウス──交流は、どう制度になったか

この環境を理解するうえで、比較してみたいのがイギリスのコーヒーハウス文化である。

17世紀から18世紀にかけて、ロンドンのコーヒーハウスは、商人や金融業者、政治家、知識人たちが集まる場所として発展した。そこでは新聞を読み、政治について議論し、商業情報を交換していた。

有名なのが、エドワード・ロイズのコーヒーハウスである。船主や商人たちが海運に関する情報を持ち寄ったことが、後の保険市場ロイズの発展につながった。しかし、イギリスのコーヒーハウスが果たした役割は、商業や金融だけではなかった。近代科学の発展にも関わっている。

17世紀半ば、オックスフォードのコーヒーハウスには自然哲学者たちが集まり、実験や科学について議論していた。こうした交流は、1660年にロンドンで設立された王立協会(Royal Society)につながる人的ネットワークの一部となった。

王立協会そのものがコーヒーハウスで設立されたわけではない。正式な設立につながる会合は、ロンドンのグレシャム・カレッジで行われた。しかしその背景には、大学やコーヒーハウスで続けられていた、自主的な研究と議論の文化があった。

さらに興味深いのは、王立協会が、実験によって知識を検証し、その成果を共有する仕組みを整えていったことである。1665年には、現在まで続く科学雑誌『Philosophical Transactions』が創刊された。

イギリスでは、非公式な知識人の交流が、学会という組織や学術雑誌という制度へと発展していった。

一方、19世紀末から20世紀初頭のウィーンのカフェでは、作家、芸術家、科学者、哲学者、ジャーナリストが長時間滞在し、読書や執筆、議論を重ねていた。もちろん、イギリスのコーヒーハウスにも文学や哲学の議論があり、ウィーンのカフェにも商業や政治の話題はあった。比較している時代も異なるため、単純に対比することはできない。

それでも、どちらにも共通しているのは、専門家が所属する正式な組織の外に、人々が自由に交流する場所が存在していたことである。

7.ダーウィンの進化論──知のエコシステムという視点

この問題については、以前にも考えたことがある。

2025年11月、松永俊男著『チャールズ・ダーウィンの生涯』を参考に、「チャールズ・ダーウィンの「進化論」——ジェントルマン社会が生み出した成果」という記事を書いた。

この記事で紹介したのは、ダーウィンの進化論が、一人の天才のひらめきだけで生まれたわけではないということである。

ダーウィンには、ケンブリッジ大学での師弟関係があり、ビーグル号の航海を支える人脈があり、キューガーデンを中心とする国際的な植物学のネットワークがあった。さらに、王立協会やリンネ協会など、研究成果を共有し議論するための学術制度も存在していた。

ダーウィン自身の観察力や思考力が重要だったことは間違いない。しかし、その才能が発揮されるためには、長期にわたる研究を可能にする経済的条件や、知識を提供し合う人々のネットワークも必要だった。

そこで紹介したのが、「知のエコシステム」という考え方である。新しい思想は、個人の能力だけでなく、その能力を育て、支え、結びつける環境の中から生まれる。

今回、コケットの『Vienna』を読んで、ウィーンについても同じ問いを立てられるのではないかと感じた。もちろん、イギリスのジェントルマン社会と、ハプスブルク帝国の多民族都市ウィーンでは、社会的な条件が大きく異なる。しかし、優れた思想の背景に、個人の才能を超えた文化や制度が存在していたという点では、共通するものがある。

8.ドラッカーが見たウィーン──シュワルツワルト家のサロン

ウィーンのサロン文化を具体的に知るうえで、面白い本がある。ピーター・ドラッカーの『傍観者の時代』である。

ドラッカーは1909年、ウィーンに生まれた。経営学者として広く知られているが、この本を読むと、幼少期から青年期にかけて、どのような人々に囲まれて育ったのかがわかる。特に興味深いのが、第2章「シュワルツワルト家のサロンと『戦前』症候群」である。

オイゲニア・シュワルツワルト(Eugenie Schwarzwald)は、女性の教育に力を注いだ教育者であり、自宅でサロンを開いていた。ドラッカーは彼女を「ゲーニア」という愛称で呼び、その夫ヘルマンとともに、忘れがたい人物として描いている。

ゲーニアは、女性が高度な教育を受ける機会の限られていた時代に、学校を設立し、女性の学びを支援した人物だった。その活動は学校教育だけにとどまらず、困難な状況にある人々を助け、人と人を結びつけることにも及んでいた。サロンは、単なる社交の場ではなかった。異なる背景を持つ人々が集まり、互いの考え方に触れ、新しい関係を作っていく。ゲーニアは、そうした交流を生み出す役割を果たしていた。

さらに『傍観者の時代』には、フロイトも登場する。

ドラッカーの両親はフロイトを知っており、ドラッカー自身も子どもの頃にフロイトと握手した経験を記している。現在では心理学や思想史の教科書に登場するフロイトが、当時のウィーンでは、実際に出会うことのできる人物だった。私たちはフロイトやドラッカーを、別々の学問分野に属する人物として学ぶ。しかし、彼らが生きていたウィーンでは、家族や知人、サロンを通して、人々の生活がつながっていた。

こうした人間関係が、そのまま新しい理論を生み出したと断定することはできない。それでも、異なる人々が日常的に交流していた環境は、思想の誕生を考えるうえで重要な手がかりになる。

9.科学と芸術が交わる都市──カンデル『The Age of Insight』

ウィーンの知的な交流を別の角度から描いているのが、神経科学者エリック・カンデルの『The Age of Insight』である。

カンデルは、1900年前後のウィーンにおいて、医学、心理学、文学、絵画がどのように関係していたのかを紹介している。

この時代、フロイトは、人間の心を理解するために、意識されていない欲望や葛藤に注目していた。一方、グスタフ・クリムト、エゴン・シーレ、オスカー・ココシュカらの画家たちも、人間の表情や身体の姿勢を通して、内面の感情や心理を表現しようとしていた。

もちろん、精神分析と絵画は異なる分野であり、同じ方法を使っていたわけではない。しかし、人間の表面に見えているものだけでは、その人を十分に理解できないのではないか、という問いを共有していた。

この時代のウィーンでは、科学者と芸術家が互いに無関係な世界に閉じこもっていたわけではなかった。たとえば、ベルタ・ツッカーカンドルのサロンでは、芸術家、文学者、科学者などが交流していた。この本については、「ウィーン精神と横断的知の交差点──エリック・カンデル『The Age of Insight』を読む」で紹介した。

今回、改めて興味を持っているのは、個々の研究成果や芸術作品だけではない。それらを生み出した、人々の交流のあり方である。なぜ、異なる分野の人々が出会うことが、新しい考え方につながるのか。自分の専門分野の中だけで議論していると、何が当然とされているのかに気づきにくい。しかし、別の分野の人と話すことで、これまで疑問に思わなかったことが、突然、重要な問いとして浮かび上がる場合がある。

10.創造性の裏側──同じウィーンで、排外主義も生まれた

ここまで見てくると、ウィーンは、多様な人々が出会い、新しい思想を生み出す理想的な都市だったように感じられるかもしれない。実際には、そう単純ではない。コケットの『Vienna』が興味深いのは、ウィーンの創造性だけでなく、その社会が抱えていた深刻な矛盾にも注目していることである。

19世紀末のウィーンでは、自由主義や教育の発展が進む一方で、反ユダヤ主義や民族主義も強まっていた。

その象徴的な人物の一人が、1897年から1910年までウィーン市長を務めたカール・ルエーガーである。都市の公共事業やインフラ整備を進めた一方で、反ユダヤ主義的な政治運動を展開した人物でもあった。科学や芸術の分野で新しい考え方が生まれる一方、政治の世界では、人々を民族や宗教によって分断する動きも強まっていた。

多様な人々が一つの都市に暮らしていることは、それだけで相互理解や寛容を保証するわけではない。異なる人々が交流し、互いを尊重する関係を築くこともあれば、違いが対立や排除につながることもある。

ウィーンの歴史は、その両方を示している。

11.多様性を生み出した帝国は、やがて崩壊した

19世紀後半のウィーンでは、帝国各地から人々が集まり、教育制度が整えられ、カフェやサロンで交流が行われていた。科学者や哲学者、芸術家たちは、それぞれの立場から世界の見方を問い直していた。

その一方で、ハプスブルク帝国は民族間の対立や政治的な矛盾を抱えていた。

1914年、サラエヴォでオーストリア皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻が暗殺され、第一次世界大戦へとつながっていく。そして1918年、敗戦とともにハプスブルク帝国は崩壊した。

ここで興味深いのは、帝国の崩壊によって、ウィーンの創造性がすぐに失われたわけではないことである。

コケットは、第一次世界大戦後の「赤いウィーン」と呼ばれる時代にも注目している。この時代、住宅、教育、福祉などの分野で新しい社会的な試みが行われ、哲学や科学の世界でも重要な活動が続いていた。

一方で、政治的な対立はさらに深まり、1930年代には権威主義とナチズムの台頭によって、ウィーンの知的な環境は大きく変わっていく。

この問題については、第4回で詳しく取り上げたい。

おわりに──思想を生み出す環境とは何か

2014年の世界一周旅行で、私がぜひ訪れたいと思っていたウィーン。その旅では、イラン系ドイツ人のBabakさんとの出会いを通して、ドイツの教育制度や移民の問題についても考える機会を得た。

2025年には、ダーウィンの進化論を支えたイギリスの社会制度や、日本の大学制度の成立についてブログにまとめた。そして2026年1月、コケットの『Vienna』を読んだことで、当時の経験と、これまで学んできた哲学や認知科学の歴史が、少しずつつながってきた。

今回、改めて感じたのは、ウィーンの創造性を、個々の天才の能力だけで説明することはできないということである。

ハプスブルク帝国の多民族性、移民による都市の発展、ギムナジウムを中心とする教養教育、大学での専門研究、カフェやサロンでの交流。そして、科学や芸術、哲学を分け隔てなく議論する人々の存在。

さらに、イギリスのコーヒーハウスや王立協会、ダーウィンの進化論との比較からは、もう一つ見えてきたことがある。

人々が集まって議論するだけでなく、そこで生まれた知識を検証し、共有し、社会に広げる仕組みが必要だということである。

教育によって知的な基盤を作り、交流によって新しい発想を生み、組織や制度によって、その成果を社会に広げていく。

これは、ウィーンの歴史から考えられる、イノベーションの一つの姿だと思う。

ただし、多様性が存在することと、その多様性を維持できることは同じではない。ウィーンは、優れた思想を生み出す一方で、排外主義や政治的な対立も抱えていた。この矛盾も含めて考えることが、この都市を理解するうえで重要である。

では、実際にウィーンでは、どのような思想が生まれたのだろうか。

次回は、木田元『マッハとニーチェ──世紀転換期思想史』を中心に、ブレンターノ、マッハ、フッサール、ゲシュタルト心理学、そしてメルロ=ポンティへとつながる思想史をたどってみたい。


参考文献

  • Richard Cockett, Vienna: How the City of Ideas Created the Modern World, Yale University Press, 2023.
  • 塚本哲也『わが青春のハプスブルク──皇妃エリザベートとその時代』
  • ピーター・F・ドラッカー『傍観者の時代』
  • Eric R. Kandel, The Age of Insight, 2012.
  • 木田元『マッハとニーチェ──世紀転換期思想史』
  • 松永俊男『チャールズ・ダーウィンの生涯』
  • 中山茂『帝国大学の誕生』

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