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論理のOS(知る)

なぜウィーンから現象学とゲシュタルト心理学が生まれたのか?──ブレンターノ、マッハ、そしてメルロ=ポンティへ

シリーズ「ウィーンから生まれた思想」第2回

はじめに──世界を「どう見るか」が変わった時代

前回は、リチャード・コケットの『Vienna: How the City of Ideas Created the Modern World』を中心に、なぜ19世紀末から20世紀初頭のウィーンから、多様な思想が生まれたのかを考えた。

ハプスブルク帝国の多民族性、移民による都市の発展、ギムナジウムを中心とする教養教育、大学での専門研究、カフェやサロンでの交流。こうした条件が重なり合うことで、ウィーンは新しい思想を生み出す都市となっていた。では、実際にどのような思想が生まれたのだろうか。

私が特に関心を持っているのは、哲学と心理学の分野で起きた変化である。

目の前に一杯のコーヒーがあるとする。

科学的には、光がカップに反射し、網膜に届き、神経信号が脳へ伝わると説明できる。しかし、私たちが実際に経験しているのは、光の刺激や神経信号ではない。香りがあり、カップの形があり、温かさがあり、飲みたいという気持ちがある。

この「経験している世界」を、学問としてどう扱えばよいのか。今回は、この問いがウィーンでどう立てられ、どこへ向かったのかをたどる。中心に据えるのは、木田元『マッハとニーチェ:世紀転換期思想史』である。

1.ブレンターノの教室から、何人出たか

最初に紹介したいのが、フランツ・ブレンターノ(Franz Brentano, 1838–1917)である。

ドイツに生まれ、カトリックの司祭だった人である。ヴュルツブルク大学で教えたのち、司祭をやめ、1874年にウィーン大学の哲学教授となった。同じ年に『経験的立場からの心理学』を出している。ここで、彼の経歴に一つ特筆すべきことがある。

1880年、ブレンターノは教授職を失っている。

理由は、結婚だった。当時のオーストリア=ハンガリーの法律では、元司祭の結婚が認められていなかった。彼はザクセンで結婚し、そのためにオーストリアの市民権と教授の地位を失った。ウィーンに戻ってからは私講師(Privatdozent)として教え続けたが、給与もなく、学位論文の指導もできない立場だった。

それでも、その教室からは人が出続けた。

教授だった時期には、のちにチェコスロバキア初代大統領となるトマーシュ・マサリク、心理学者のアレクシウス・マイノング、そしてクリスティアン・フォン・エーレンフェルスが講義に出ている。職を失ったあとには、エトムント・フッサールと、ポーランドの哲学者カジミェシュ・トヴァルドフスキが学んだ。そして、ジークムント・フロイトも、ブレンターノの講義に出席していた一人である。

さらに、ヴュルツブルク時代の弟子にカール・シュトゥンプフがいる。のちにベルリン大学で、ゲシュタルト心理学を作ることになる三人を教えた人である。

並べると、こうなる。

人物そこから出たもの
フッサール現象学
フロイト精神分析
エーレンフェルスゲシュタルト質
マイノンググラーツ学派(対象論)
シュトゥンプフベルリン学派の三人を育てた
マサリクチェコスロヴァキア初代大統領

一人の教師の教室から、現象学、精神分析、ゲシュタルト心理学という、20世紀の三つの潮流が出ている。

第1回で、ウィーンの創造性を支えた条件として、カフェやサロンでの交流を挙げた。だが、この例が示しているのは、もう少し地味なことである。一つの講義に、分野の違う若者が同じ時期に座っていた。それも、制度的には不利な立場に置かれた私講師の講義にである。

2.志向性──心は、常に何かに向かっている

では、ブレンターノは何を教えていたのか。彼が注目したのは、心の働きには物理的な現象とは違う特徴がある、ということだった。

目の前にリンゴがあるとする。リンゴの重さや大きさは、物理的に測定できる。しかし、「リンゴを見る」「リンゴを思い出す」「リンゴが欲しいと思う」という心の働きは、リンゴという物体を調べるだけでは理解できない。これらに共通しているのは、心が常に何かについての心であるということである。

ブレンターノは、この性質を志向性(intentionality)と呼んだ。

ここでいう志向性は、日常語の「意図して何かをする」という意味とは異なる。意識が何かに向かっている、という基本的な性質を指している。この区別は、意外に実践的な意味を持つ。意図と志向性の違いについては、ボディワークの側から別に書いた(「意図と志向性の違い──セッションに臨む二つの「在り方」」)。

3.心理学が、科学になろうとしたとき

ここで、当時の心理学が置かれていた状況を見ておきたい。ブレンターノが何に抵抗していたのかが、そこで分かる。19世紀後半、心理学は哲学の一分科から離れて、科学として自立しようとしていた。

科学になるには、条件が要る。そこで心理学は、先に科学になっていた物理学から、二つの想定を借りた。木田元の整理によれば、こうなる。

  • われわれが認識しうると否とにかかわらず、それ自体の規定性をそなえた客観的世界が実在するという仮定
  • その世界の空間の一点と時間の一点に定位されうるものだけを事実とみなすという仮定。複雑な現象を単純な要素に分解し、そこから復元できたときに説明されたと考える〈要素還元主義〉

この二つを受け入れると、心も要素に分解しなければならなくなる。しかも、その要素は空間と時間の一点に置けるものでなければならない。

その条件を満たす便利な概念が、すでにあった。〈感覚〉である。刺激が感覚器官に興奮を起こし、それが中枢に伝えられて感覚になる。その間に一対一の対応があると仮定すれば、感覚は客観的世界の中にうまく位置づけられる。〈恒常仮定〉と呼ばれる前提である。

この土台の上で、実験心理学が始まった。ヴィルヘルム・ヴントが1879年にライプツィヒで研究室を開いている。感覚のレベルでは、成果が出た。光の強さと明るさの感じ方、音の高さの弁別。測れるものは、よく測れた。

だが、そこから知覚を説明しようとすると、行き詰まる。木田元は、こう書いている。

どうしても要素の算術的寄せ集めには還元できない全体的まとまり、つまりゲシュタルトの現象に突き当たってしまうのである

ブレンターノがしていたのは、この方向に対する抵抗だった。意識を要素に分解して測ると、「何かについて」という性質が落ちる。心を心たらしめているものが、方法のせいで見えなくなる。

4.マッハ──前提そのものを、物理学から外す

同じ頃、物理学の側で、もっと根本的なことが起きていた。

エルンスト・マッハ(Ernst Mach, 1838–1916)である。音速のマッハ数で知られているが、哲学の歴史でも重要な人物である。プラハ大学などで活動したのち、1895年にウィーン大学の教授となった。

ニュートン力学は、絶対空間と絶対時間を前提にしていた。世界という入れ物が先にあって、その中で物が動く。だが、その入れ物そのものは、誰も観測したことがない。マッハは、それを物理学の土台から外した。観測に現れないものは置かない。残るのは、感覚に現れるものと、その関係だけになる。アインシュタインは、そこから出発して相対性理論を作っている。

そして彼は、この立場に名前を付けていた。

現象学的物理学である。

形而上学的な仮定をいっさい排して、直接経験に与えられる現象どうしの関係の記述に徹する物理学、という意味だった。「現象学」という語が、哲学より先に、物理学の側から出ている。マッハ自身は、これを哲学だとは言わなかった。自分がやっているのは自然科学の方法論だ、と言い張っている。

この線は、物理学と哲学の接点として、別に一本書いている(「相対論と量子論が証明したこと──「客観的な世界」は存在するのか?」)。

5.フッサール──同じことを、心理学でやった

エトムント・フッサール(Edmund Husserl, 1859–1938)は、もともと数学を学んでいた。数学の基礎を考えるなかで、私たちが何かを理解し、意味を与えるとはどういうことなのか、という問題に関心を持つようになる。

ウィーンでブレンターノの講義を受け、志向性という考え方を引き継いだ。木田元は、フッサールがやったことを、マッハとの関係で説明している。心理学は、心の背後に物理的・生理的な過程を仮定していた。刺激があり、興奮があり、それが翻訳されて感覚になる。だが、その過程を本人が経験しているわけではない。経験しているのは、現れている心の働きのほうである。

マッハが物理学でやったのと、同じ形になる。経験に現れないものを、学問の土台から外す。フッサールは、この方針にも名前を付けた。記述的心理学、あるいは現象学的心理学である。マッハの現象学的物理学と、同じ名前が付いている。

そして、外しているものも同じだった。木田元は、こう書いている。

マッハがその現象学によって否定したのも、この〈客観的世界の存在の想定〉であった

心理学が物理学から借りた二つの想定のうち、根にあったほうである。要素還元主義も、恒常仮定も、そこから要請されたものだった。根のほうを外せば、枝は全部ほどける。

なぜ、心理学の改革が哲学になったのか

ここまでは、心理学を直す話である。では、なぜ哲学になったのか。

木田元の説明は、こうである。

そうした〈客観的世界の存在の想定〉と、それにもとづく〈要素還元主義的方法〉は、心理学だけではなく、社会学、歴史学、言語学などすべての人間諸科学が、やはり十九世紀後半に哲学から自立して科学になろうとしたとき、共通に近代物理科学から継承したものである。

同じ借り物を、全員がしていた。そして、どの学問も同じ場所で行き詰まっていた。

とすれば、そうした〈世界定立〉を停止して、ものごとを根本から考え直すという企ては、単に心理学だけではなく、人間諸科学一般の根本的な改革になりうるはずである。こうしてフッサールは、単なる〈現象学的心理学〉ではなく、普遍的な知的革新の企てとしての、つまり哲学としての〈現象学〉を構想することになったのである。

一つの分野を直す話が、学問全体をやり直す話になった。その中心に置かれた手続きが、エポケー(判断中止)である。世界が向こうに実在しているという断定を、いったん止める。そのうえで、経験に現れているものから始め直す。

木田元の仮説──エポケーは、マッハから来たのか

木田元は、さらに踏み込んだことを書いている。

私は近頃、フッサールの〈現象学的還元〉の思想さえ、かなりの程度までマッハの示唆によるものではないかと思うようになった

根拠として挙げられているのは、着想の時期である。1905年夏、チロル・アルプス山中のゼーフェルトでの研究会が、現象学的還元に最初に思いいたった時期と考えられている。1906年4月のゲッチンゲンでの〈美的客観性〉をめぐる討議が、その着想に大きく寄与したことをフッサール自身が認めている。そして1906年12月、同じくマッハの影響を受けた詩人ホーフマンスタールと会い、翌1907年1月には、彼の説く〈美的直観〉と自分の〈現象学的還元〉との深い親縁性を手紙で説いている。

ただし、木田元自身が「私の主張」と書いている。定説ではない。ここでは、そういう見方があるということにとどめたい。

6.エーレンフェルス──メロディーは、音の足し算なのか

ブレンターノの教室から出たもう一人が、クリスティアン・フォン・エーレンフェルス(Christian von Ehrenfels, 1859–1932)である。1890年に「ゲシュタルト質について」という論文を発表した。

彼が注目したのは、私たちが経験する「全体」が、個々の要素の単純な足し算では説明できないということである。

あるメロディーを思い浮かべてみる。メロディーは、いくつもの音からできている。しかし、すべての音を同じだけ高くして演奏しても、私たちはそれを同じメロディーとして認識できる。

一つひとつの音の高さは変わっているのに、まとまりは保たれている。

では、そのメロディーらしさはどこにあるのか。個々の音を取り出しても、メロディーは見つからない。音と音との関係のほうに、それはある。

エーレンフェルスは、この全体としての性質をゲシュタルト質(Gestaltqualität)と呼んだ。

ここで、前の節の話とつながる。恒常仮定が正しいなら、こういうことは起きないはずである。刺激と感覚が一対一で対応しているなら、すべての音を変えれば、聞こえるものも変わるはずだからである。

エーレンフェルスは、ブレンターノとマイノングの両方から学んでいる。マイノングはグラーツ大学で〈対象論〉を立ち上げ、その周囲はのちにグラーツ学派と呼ばれるようになった。

7.ベルリン学派──まとまりを、実験で扱う

20世紀初頭、マックス・ウェルトハイマー、ヴォルフガング・ケーラー、クルト・コフカによって、ゲシュタルト心理学が確立される。

ここで、系譜を少し丁寧に書いておきたい。

この三人は、ベルリン大学のシュトゥンプフのもとに集まっていた。そのシュトゥンプフが、ヴュルツブルク時代のブレンターノの弟子である。つまり、エーレンフェルスとは別の経路で、同じ源につながっている。

歴史の順序としては、マッハに端を発し、エーレンフェルス、グラーツ学派を経て、最終的にベルリン学派によって確立された、という流れになる。ただし師弟関係としては、ベルリン学派はグラーツを経由していない。

彼らが扱ったのは、知覚の組織化そのものだった。いくつかの点が円を描くように並んでいると、個々の点を見ながらも、全体として円を感じる。途切れた線が並んでいても、一つのまとまった図形を見いだす。

私たちの知覚は、与えられた刺激を受動的に受け取っているわけではない。

エーレンフェルスのゲシュタルト質と、ベルリン学派の仕事は、同じ理論ではない。エーレンフェルスは要素の集まりに現れる全体的な性質に注目した。ウェルトハイマーたちは、知覚の全体的な組織化そのものを実験的に研究した。それでも、個々の要素だけでは全体を説明できないという問題意識は、両者をつないでいる。

この組織化の法則(図と地、群化の法則)が、実際の観察でどう働いているかは、ボディワークの側から書いた(「同じ身体を見ていて、違うものが見える──ゲシュタルト心理学が明かした、見ることの仕組み」)。

8.メルロ=ポンティ──知覚するのは、身体である

モーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908–1961)は、フランスの哲学者である。1945年の『知覚の現象学』で、現象学を身体の問題へと深めた。ここは、はっきりさせておきたい点がある。フッサールが扱っていたのは、意識だった。身体は、意識が向かう対象の一つとして出てくることはあっても、向かっている当人として扱われてはいない。

メルロ=ポンティが言ったのは、こういうことである。身体は、世界の中にある物の一つではない。世界へ向かっている当のものである。ブレンターノが「意識はいつも何かに向かっている」と言い、フッサールがそれを志向性として引き継いだ。向かっているのは意識ではなく身体だ、というのが彼の主張になる。

身体図式という概念の、出どころ

そのとき彼が使ったのが、身体図式(body schema)である。

目を閉じても、自分の手がどこにあるか分かる。椅子から立ち上がるとき、足の位置を確認しない。ドアの枠を通るとき、肩幅と枠の幅を比べていない。自分の身体の位置、姿勢、範囲についての、意識に上がらない地図がある。

この地図は固定されていない。杖をつくと、杖の先まで自分の範囲になる。慣れた車を運転すると、車幅が自分の幅のように分かる。

ここで、一つ訂正しておきたいことがある。身体図式は、メルロ=ポンティが作った語ではない。

語出所
Body Schema(身体図式)Head & Holmes(1911年)。神経学
Body Image(身体像)Schilder(1935年)。精神医学
──メルロ=ポンティ(1945年)は、引き取った側

もとは臨床の概念である。脳の損傷で、自分の手を自分のものと認められなくなる患者がいる。手足を失ったあとも、そこにあるように感じる人がいる。そういう症例を説明するために作られた語だった。

メルロ=ポンティがしたのは、それを病理の説明から、人間一般の在り方の説明へ移したことである。身体図式は、壊れたときに見えるものではない。誰にでも、いつも働いている。

9.ロルフィングとの接点

ここまでの思想史は、私自身が取り組んできたボディワークとも関係している。セッションのあと、クライアントが「身体が大きくなった感じがする」と言うことがある。「足が床についている感じが違う」とも言う。実際に身長が伸びたわけではない。

書き換わっているのは、自分の範囲がどこまでかという地図のほうである。

もちろん、メルロ=ポンティの哲学がロルフィングの効果を証明するわけではない。身体をどう理解するのかという点で、枠組みを与えてくれる、というだけである。この線は、ボディワークの側から2回の連載にまとめた。「意識から、始まった──現象学は最初、身体の哲学ではなかった」と「身体が、中心に来た──止めているのは意識だけではない」である。

おわりに──一つの問いが、分野をまたいだ

今回たどったのは、一つの問いだった。

私たちは、世界をどのように経験しているのか。そしてその経験を、主観と客観の区別だけで説明できるのか。

マッハは、主観と客観を分ける以前の経験的な要素に注目した。ブレンターノは、心が常に対象に向かうという関係性を問題にした。フッサールは、経験がどのように成立しているのかを問うた。エーレンフェルスとゲシュタルト心理学は、知覚が要素の足し算ではないことを示した。メルロ=ポンティは、知覚する側が身体を持っていることに注目した。

これらが一つの直線的な系譜に並ぶわけではない。ブレンターノからフッサールへは、教師と学生という直接のつながりがある。一方、マッハとフッサールは同じ立場ではない。ゲシュタルト心理学は独自の実験研究として発展した。

それでも、当然とされていた「心」「身体」「世界」の区別そのものが、問い直され始めていた。

次回は、ここで生まれた〈ゲシュタルト〉という概念が、その後どこまで行ったのかを追いたい。

行き先は、意外な方向である。数学の群論と、フランスの構造主義だった。


参考文献

マッハの現象学的物理学から、フッサールの現象学的心理学、そして哲学としての現象学へ至る経緯と、この回の引用は、木田元『マッハとニーチェ──世紀転換期思想史』(新書館 2002年/講談社学術文庫 2014年)によります。エポケーの着想とマッハの関係については、木田元自身が「私の主張」と書いています。定説ではありません。

ブレンターノの経歴と弟子については、Stanford Encyclopedia of Philosophy の “Franz Brentano” の項を参照しました。

  • Richard Cockett, Vienna: How the City of Ideas Created the Modern World, Yale University Press, 2023.
  • Franz Brentano, Psychologie vom empirischen Standpunkt(『経験的立場からの心理学』1874年)
  • Ernst Mach, Die Analyse der Empfindungen(『感覚の分析』1886年)
  • Christian von Ehrenfels, “Über Gestaltqualitäten”(「ゲシュタルト質について」1890年)
  • Maurice Merleau-Ponty, Phénoménologie de la perception(『知覚の現象学』1945年)
  • Head & Holmes(1911年), Schilder(1935年)──身体図式・身体像の出所

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英語で読みたい方へ。この回でたどった思想の流れは、Rolfing ZERO の英語版に2本あります。It Began with Consciousness と A Hundred Years to Reach the Body です。


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