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なぜヴァレラは、認知科学に仏教を取り入れたのか?──身体、経験、そして反省の限界

シリーズ「現象学と認知科学──心をどこまで捉えられるか」第3回

はじめに

前回までの2回にわたって、下西風澄『生成と消滅の精神史』(文藝春秋、2022年)を読みながら、心を科学的に説明することの難しさについて考えてきた。

第1回「心をコンピュータに喩えたとき、何が棄てられたのか」では、心を情報処理の仕組みとして捉える認知科学の歴史を紹介した。第2回「メルロ=ポンティは、身体から心をどう考えたのか」では、身体を通して世界を経験するという現象学の考え方を取り上げた。

今回紹介したいのは、チリ出身の神経科学者・哲学者、フランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela)である。

ヴァレラは、神経科学を研究しながら、現象学や仏教にも関心を向けた人物である。しかも、単に異なる思想を比較したのではない。人間の心を理解するためには、科学的な研究と、自分自身の経験を観察する実践の両方が必要だと考えた。

なぜ、脳を研究する科学者が仏教の瞑想に注目したのだろうか。その理由を考えるために、まず下西さんがヴァレラをどのように紹介しているのかを見ていきたい。

認知科学の本流とは違う道を選んだヴァレラ

ヴァレラについて、下西さんは、以下のように紹介する。

チリ出身の神経科学者・哲学者であるフランシスコ・ヴァレラに注目する。彼は神経科学のみならず、人工生命や現象学、また仏教思想なども取り入れた独自の認知科学を展開し、20世紀の認知科学の本流に対するオルタナティブを提示した。認知科学という新たな学問がコンピュータと結びつき、しかもその達成は西洋的な人間の心の一つに到達点であると思われる流れの中で、あえてそこに逆行し、身体や生命というある意味では遠い過去の原初の心の姿へと遡ろうとしているようにさえ思えるヴァレラの心のモデルに込められた思想と何だったのか。

ここで興味深いのは、「逆行」「遡る」という言葉である。

20世紀の認知科学は、コンピュータの発展とともに大きく進歩した。人間の心も、外から情報を受け取り、それを処理して判断や行動を生み出す仕組みとして理解できるのではないか、と考えられるようになった。

しかし、ヴァレラは別の方向に目を向けた。

例えば、私たちが道を歩いているとき、頭の中で周囲の情報をすべて計算してから、一歩ずつ足を動かしているわけではない。地面の傾きや人の動きに応じて、身体は絶えず調整を続けている。そこには、コンピュータの計算というモデルだけでは捉えきれない、身体と環境との関係がある。

さらに、こうした関係は人間だけのものではない。単純な生物も、周囲の環境に応じて行動しながら生きている。ヴァレラは、複雑な人間の知能を理解するために、むしろ生命の基本的な働きへと遡ろうとしたのである。

メルロ=ポンティとの共通点──心と世界は切り離せない

下西さんは、ヴァレラとメルロ=ポンティの思想に共通点を見出している。

私たちは、フッサールとハイデガーが超越論的意識と世界の循環的な構造を一つの困難として捉えたことを確認した。しかしながら、ヴァレラとメルロ=ポンティは、この循環的な構造をポジティブなものと捉えている。意識は世界を捉え、世界は意識に作用する、というこの循環こそむしろ意識の本質である。

「意識は世界を捉え、世界は意識に作用する」。

少し抽象的なので、具体例を考えてみたい。

例えば、初めて訪れた街を歩くとき、私たちは建物や道路、人の流れを見ながら歩く。その一方で、自分がどこへ向かおうとしているかによって、目に入ってくるものも変わる。カフェを探していれば看板に目が向き、待ち合わせの相手を探していれば人の顔に注意が向く。

つまり、私たちは世界を一方的に受け取っているのではない。自分の関心や行動によって、世界の見え方が変わっている。そして、見えてきた世界によって、次の行動も変わっていく。

この循環が、絶えず起きている。メルロ=ポンティもヴァレラも、こうした循環を、取り除くべき問題ではなく、認知を成立させる基本的な働きとして捉えた。

さらに、下西さんはメルロ=ポンティについて次のように述べている。

メルロ=ポンティは、フッサールが認知科学(当時の心理学)を現象学の立場から批判的に捉えたのに対し、積極的に神経科学や行動心理学、ゲシュタルト心理学などの知見を取り込んで独自の意識論を展開した哲学者である。その意味で、メルロ=ポンティは、フッサールやハイデガーらと同時代にいきながら、むしろ1980年代の身体性認知科学の先駆的な思想を紡いだ哲学者であるとみなすことができる。

前回の記事でも触れたが、メルロ=ポンティは、身体を単なる刺激と反応の装置として扱うことに疑問を持っていた。彼は心理学や神経科学の研究成果を取り込みながら、身体を通して世界を経験することの意味を考えた。ヴァレラも同じ問題に取り組んだ。ただし、彼はさらに一歩進んで、その考え方を認知科学の研究モデルとして発展させようとしたのである。

エンアクティヴ認知──身体は世界を受け取るだけではない

ヴァレラの認知モデルは、エンアクティヴ認知(Enactive Cognition)と呼ばれる。

下西さんは、次のように説明している。

身体的行為を伴って意識が成立する。というこの認知観をヴァレラはその主著『身体化された心(The Embodied Mind)』の中で、エンアクティヴ認知(Enactive Cognition)と名付けた。

さらに、身体の役割について、次のように書いている。

身体は、主体的な行為によって環境を特定し、断続的に相互作用領域を形成することによって、認知を成立させるための積極的なエイジェントである

この説明も、少し難しい。

例えば、机の上にコップが置いてあるとしよう。従来の情報処理モデルでは、目がコップの形や色を捉え、その情報が脳へ送られ、脳が「コップである」と認識すると説明する。しかし、実際の私たちは、ただコップを見ているだけではない。

喉が渇いていれば、コップは水を飲むためのものとして目に入る。片づけをしていれば、移動させるべきものとして見える。手を伸ばせば、コップとの距離や重さに応じて身体の動きが変わる。同じコップでも、何をしようとしているかによって、私たちとの関係は変わってくる。

ここで重要なのは、認知が、外界の情報を脳の中に写し取るだけの働きではないということである。身体が環境に働きかけ、環境からの影響を受けながら、何が意味を持つのかが生まれてくる。これが、エンアクティヴ認知の基本的な考え方である。

第1回では、心をカメラに喩えるモデルを紹介した。そこでは身体は、外界の情報を脳に運ぶための通り道だった。ヴァレラの考え方では、身体は通り道ではない。身体が世界と関わること自体が、認知を成立させているのである。

なぜ、生命の起源にまで遡る必要があったのか

では、なぜヴァレラは、人間の認知を説明するために、生命そのものを考える必要があったのだろうか。

下西さんは、次のように書いている。

身体行為によって世界と関わる事で生成させていくものであると考えるヴァレラは、認知現象が『生命』という原初的なシステムから発生することを説明する必要があった。それゆえ、フッサールやメルロ=ポンティの現象学を参考にし、そこに生命論を架橋する必要があり、その過程において、原初的生物から人間の身体までを貫く『行為(enaction)』と呼ばれるものの作動のあり方を具体的に記述するモデルを提示する

例えば、単細胞生物を考えてみよう。

細菌の中には、栄養となる物質の濃度変化に応じて泳ぎ方を変えるものがいる。そこには、人間のような複雑な脳は存在しない。それでも、生物は環境との関係を調整しながら、自分の生命を維持している。もちろん、細菌が人間と同じ意味で意識を持っているという話ではない。

重要なのは、環境との関わりが、脳を持つ人間に突然現れたものではなく、生命の基本的な働きと深く結びついているという点である。ヴァレラは、生命が自らを維持しながら環境と関わる仕組みを研究していた。オートポイエーシス(自己産出)という生命論も、その研究の重要な背景にある。

一方、現象学は、人間が世界をどのように経験するのかを考えてきた。

ヴァレラが試みたのは、この二つを結びつけることである。人間の経験を記述する現象学と、生命の働きを研究する生物学。その間に橋を架けようとした。

下西さんは、後期フッサールの「キネステーゼ的身体」にも触れている。これは、自分の身体を動かすことと知覚が深く結びついているという考え方である。こうした現象学の問題意識を、生命科学や認知科学の研究へとつなげようとしたところに、ヴァレラの独自性がある。

ただし、ここまでの話だけなら、仏教を持ち出す必要はないようにも思える。身体と環境の関係を科学的に研究すればよいのではないか。実は、ヴァレラたちは、さらに別の問題に直面していた。それは、心を研究する科学者自身もまた、心を持ち、世界を経験している存在であるという問題である。

心を研究する科学者も、心の外には出られない

ここから、今回の記事のもう一つの大きな問いに入る。ヴァレラは、エヴァン・トンプソン(Evan Thompson)、エレノア・ロッシュ(Eleanor Rosch)とともに、1991年に『身体化された心(The Embodied Mind – Cognitive Science and Human Experience)』を出版した。

トンプソンは哲学者である。ヴァレラと出会ったのは1977年、まだ10代のときだった。父親が主宰していた協会の会議に、ヴァレラが来ていたという。

この本の第1章には、興味深い4つの図が登場する。10ページから12ページにかけて、順に並んでいる。最初の図では、脳の構造と行動や経験が、互いに影響を与え合っている。これは認知科学で扱われる一般的な問題である。

ところが、次の図では、もう一つの要素が加わる。その脳を研究し、説明している科学者自身も、脳を使って考えているという事実である。例えば、科学者が脳の働きを研究し、「人間の認知は、このような仕組みで成立している」と説明したとする。

しかし、その説明を生み出している科学者自身の認知も、研究対象である脳の働きによって成立している。つまり、研究する側と研究される側を、完全には切り離せない。

3つ目の図では、さらに問題が広がる。科学者の考え方は、個人の脳だけで生まれるわけではない。科学者が生きている社会や文化、研究の伝統によっても形づくられている。

そして4つ目の図では、その社会や文化について考えていること自体も、身体を持った科学者自身の経験であることが示される。こうして、説明の枠組みを一つ増やすたびに、その枠組みを考えている自分自身が、再び問題の中に現れる。

図は、どこまでも増えていく

ヴァレラたちは、これをエッシャーの絵のように、どこまでも続く構造として描いている。

なお、以下に引く『身体化された心』と『Why I Am Not a Buddhist』の文章は、いずれも原書から私が訳したものである。『身体化された心』には工作舎から邦訳が出ているが、ここでは原書の表現に沿って訳した。『Why I Am Not a Buddhist』には邦訳がない。

We should go back where we started, to the concreteness and particularity of our own experience—even in the endeavor of reflection.

(拙訳)私たちは、出発した場所へ戻るべきである。自分自身の経験が持つ、具体性と個別性へと。反省という営みにおいてさえ、そうなのだ。

第1回では、近代科学が客観性を重視する過程で、主観的な経験を研究の外へ追いやってきたことを紹介した。しかし、ヴァレラたちが示したのは、主観性を完全に外へ追いやることはできない、という問題だった。どれほど客観的に研究しようとしても、その研究を行っているのは、経験を持つ人間だからである。では、どうすればよいのだろうか。

現象学にも限界があった──経験について考えることと、経験すること

ここで、ヴァレラたちは現象学そのものにも批判を向ける。フッサール以来、現象学は、人間が世界をどのように経験するのかを明らかにしようとしてきた。メルロ=ポンティは、さらに身体の重要性を強調した。しかし、ヴァレラたちから見ると、そこには一つの問題が残っていた。

経験について哲学的に考えることと、実際に自分の経験に気づくことは、同じではないという問題である。

例えば、怒りについて考えてみよう。

「人はなぜ怒るのか」「怒りはどのように生まれるのか」と考えることはできる。心理学や神経科学の知識を使って、怒りを説明することもできる。しかし、自分が今まさに怒っているとき、身体に何が起きているのかに気づくことは、別のことである。呼吸が浅くなっている。胸が緊張している。頭の中では、相手の言葉が何度も繰り返されている。

こうしたことに、怒りが起きているその瞬間に気づく。

前者は、経験について考えることである。後者は、自分自身の経験を、その場で観察することである。ヴァレラたちは、現象学が前者を深く発展させながら、後者を体系的に訓練する方法については十分に展開してこなかったと批判した。

The phenomenological tradition, from Husserl on, complained bitterly about this lack of self-included reflection but was able to offer in its place only a project of theoretical reflection on experience

(拙訳)現象学の伝統は、フッサール以来、自分自身を含めた反省が欠けていることを厳しく批判してきた。しかし、その代わりに差し出すことができたのは、経験についての理論的な反省という企てだけだった。

この批判は、ハイデガーやメルロ=ポンティにも向けられている。彼らは、身体や実践の重要性を論じた。しかし、ヴァレラたちによれば、その哲学的な探究方法は、依然として理論的な反省を中心としていた。ただし、だからといって、考えることをやめればよいわけではない。必要なのは、反省そのもののあり方を変えることだった。

反省そのものが、一つの経験である

『The Embodied Mind』の中で、私が特に重要だと感じたのは、次の考え方である。反省は、経験についてのものだけではない。反省すること自体が、一つの経験なのである。

What we are suggesting is a change in the nature of reflection from an abstract, disembodied activity to an embodied (mindful), openended reflection. By embodied, we mean reflection in which body and mind have been brought together. What this formulation intends to convey is that reflection is not just on experience, but reflection is a form of experience itself—and that reflective form of experience can be performed with mindfulness/awareness.

(拙訳)私たちが提案しているのは、反省のあり方を変えることである。抽象的で、身体から切り離された活動から、身体化された(マインドフルな)、開かれた反省へと。身体化された、というのは、身体と心とが一つに結び合わされた反省のことである。この言い方で伝えたいのは、反省とは経験について行うものであるだけでなく、反省それ自体が経験の一つの形だということ、そして、その反省という形をとった経験は、マインドフルネス/気づきとともに行うことができる、ということである。

先ほどの怒りの例に戻ろう。

「なぜ私は怒っているのだろう」と考えているとき、私たちは怒りの原因を探している。しかし、そのとき同時に、「今、自分は怒りの原因を探そうとしている」と気づくこともできる。さらに、原因を考え始めると、頭の中で次々に過去の出来事が浮かび、怒りが強くなることにも気づくかもしれない。

ここで起きているのは、単に怒りを分析することではない。自分の考えがどのように生まれ、どのように続いていくのかを、実際の経験として観察しているのである。この違いは大きい。

私たちは、普段、自分の考えを通して世界を見ている。しかし、自分が考えていること自体には、あまり注意を向けていない。ヴァレラたちは、こうした習慣的な思考から少し距離を取り、経験そのものに開かれる反省のあり方を重視した。そして、そのためには、哲学的な議論だけではなく、実際の訓練が必要だと考えた。

ここで、仏教の瞑想が登場する。

なぜ仏教だったのか──心を観察する訓練

ヴァレラたちが仏教に注目したのは、仏教が心についての思想を持っていたからだけではない。自分自身の経験を観察するための、長い実践の伝統を持っていたからである。『The Embodied Mind』第2章では、まず瞑想についての誤解が取り上げられる。

瞑想というと、心を空っぽにすることや、リラックスすること、あるいは特別な意識状態に入ることを想像する人もいるだろう。しかし、ヴァレラたちが重視した仏教のマインドフルネスは、日常の経験から離れるためのものではない。むしろ、今この瞬間に、自分の心が何をしているのかに気づくための実践である。

本書では、サマタ(śamatha)とヴィパーサナ(vipaśyanā)が紹介されている。

サマタは、心を落ち着かせ、注意を安定させる実践である。ヴィパーサナは、その安定した注意をもとに、経験の性質を洞察する実践である。

例えば、呼吸に注意を向けているとしよう。最初は呼吸を感じていても、すぐに仕事のことを考え始めるかもしれない。気づくと、昨日の出来事を思い出していることもある。そのとき、「考えごとをしていた」と気づき、再び呼吸へ注意を戻す。この繰り返しによって、自分の注意がどのように動き、思考がどのように生まれるのかを観察できるようになる。

重要なのは、考えを無理に止めることではない。考えが生まれていることに気づくことである。本書には、暗い洞窟の壁画を見るためには、風に揺らされない安定した光が必要だという喩えが紹介されている。心を落ち着かせることは、その光を安定させることに似ている。そして、安定した注意によって、普段は見過ごしている心の働きが見えてくる。

ヴァレラたちにとって、仏教の実践が重要だった理由はここにある。

現象学が、経験を哲学的に理解するための方法を発展させたとすれば、仏教の瞑想は、経験そのものを観察する能力を訓練する方法を提供していた。もちろん、瞑想によって得られた気づきが、そのまま科学的な事実になるわけではない。しかし、主観的な経験を注意深く観察する能力を育てることは、心を研究するうえで重要な手がかりになる。

ヴァレラたちが目指したのは、科学を捨てて仏教へ向かうことではなかった。脳や身体を客観的に研究することと、自分自身の経験を注意深く観察すること。その両方を結びつけることだった。

西谷啓治の「超降下」──上から説明するのではなく、経験へ戻る

ここで、もう一度、下西さんの『生成と消滅の精神史』に戻りたい。

下西さんは、ヴァレラが仏教思想、とりわけナーガールジュナと西谷啓治に関心を寄せていたことを紹介している。

ヴァレラは、あらかじめ与えられた自己を前提しなくとも、自己が立ち上がり、形成され続けるという直観を持っていた。本書では扱いきれなかったが、ヴァレラはこのような形而上学を仏教哲学にもどめた。とりわけ関心を抱いたのは、ナーガールジュナと西谷啓治であったが、彼は西谷の「超降下」という概念に注目した。

西谷啓治は、京都学派の哲学者である。ここで登場する「超降下」という言葉は、少しわかりにくい。

一般に「超越」という言葉には、目の前の個別的な出来事を超えて、より普遍的な原理や立場から物事を理解するという意味がある。

例えば、自分が怒っているときに、その怒りを心理学の理論から説明することも、一つの見方である。しかし、どれほど優れた理論を持っていても、その理論だけで、今この瞬間の怒りの経験そのものを捉えきれるとは限らない。「超降下」という言葉は、そうした理論や概念をさらに積み重ねるのではなく、経験が起きているところへ降りていく方向を示している、と理解できる。

下西さんは、ヴァレラが京都の学会で語った言葉を引用している。

仏教の瞑想においては、基礎を捨てることが、「あるがままの存在の正気」に対する根源的な信頼を、真に見出すことと捉えられているからである。西谷啓治が言ったように、超越(transcendence)ではなく、「超降下(trans-descent)」による発見・・・。ただここに在るという次元にまで降下すること。それこそ外にであれ内にであれ、参照元への執着を捨て去る唯一の方法だろう。それは、ありのままに在ることを信頼することである。

ここでいう「基礎を捨てる」とは、何も考えず、判断を放棄することではないだろう。自分の経験を説明するために、必ず何らかの固定した理論や立場を持たなければならない、という前提を問い直すことだと読める。第1回では、西洋哲学がイデア、神、理性などを通して、世界を理解するための基礎を探してきた歴史を紹介した。

ヴァレラが仏教から学ぼうとしたのは、そうした基礎を新たに立てることではなく、固定した基礎への執着から離れる可能性だったのではないだろうか。『The Embodied Mind』の第1章で示された、どこまでも説明の枠組みが増えていく図を思い出す。

説明の枠組みを一つ増やしても、問題は終わらない。だからこそ、抽象的な説明を積み重ねるだけでなく、今ここで経験している自分自身へと戻る。この点で、ヴァレラの認知科学と西谷の「超降下」という思想が重なって見えてくる。

29年後、トンプソンは何を考え直したのか

ここまで読むと、ヴァレラたちは、認知科学と仏教をうまく結びつけたように思える。しかし、話はここで終わらない。2020年、エヴァン・トンプソンは『Why I Am Not a Buddhist』という本を出版した。

トンプソンは、1991年の『The Embodied Mind』をヴァレラ、ロッシュとともに執筆した哲学者である。そのトンプソンが、29年後に、科学と仏教の関係を改めて問い直したのである。この本の題名は強い。しかし、仏教そのものを否定する内容ではない。彼が批判しているのは、仏教モダニズムと呼ばれる、近代以降に形成された仏教理解の一部である。

例えば、「仏教は科学によって証明された」「瞑想の効果が科学的に示されたのだから、仏教の教えは正しい」といった主張がある。しかし、瞑想が注意や感情にどのような影響を与えるかを科学的に調べることと、仏教の哲学的・宗教的な主張が正しいかどうかは、別の問題である。

科学と仏教には、それぞれ異なる歴史、目的、方法がある。両者を簡単に同一視すると、かえってどちらについても理解を誤る可能性がある。トンプソンは第3章で、自分自身もかつて、そのような見方を部分的に支持していたと振り返っている。

In The Embodied Mind, I and my coauthors Francisco Varela and Eleanor Rosch argued that cognitive science supports the Buddhist no-self view. Now I think this assessment is simplistic. The full story is more complicated—and more interesting.

(拙訳)『身体化された心』で、私と共著者のフランシスコ・ヴァレラ、エレノア・ロッシュは、認知科学が仏教の無我の見方を裏づけていると論じた。いまの私は、この見立ては単純すぎたと考えている。話の全体は、もっと込み入っていて――そして、もっと面白い。

興味深いのは、彼が『The Embodied Mind』の議論をすべて否定したわけではないことである。認知科学によって、私たちが当然のように考えている「自己」が、さまざまな過程を通して形成されていることを明らかにできる。しかし、それを知識として理解したからといって、自分自身への執着が消えるわけではない。

例えば、「怒りは脳や身体の働きによって生まれる」と知っていても、実際に怒っているときには、その怒りに巻き込まれることがある。

知識として理解することと、経験のあり方が変わることは違う。だからこそ、科学的な知識だけでなく、経験に直接向き合う実践が重要だという考え方は、トンプソンも維持している。一方で、彼は、認知科学が仏教の無我の思想を特別に裏づけているとする見方については、慎重になった。

認知科学が示しているのは、自己が単純な実体ではなく、さまざまな過程を通して形成されるということである。しかし、それだけで仏教の自己理解が、他の哲学的立場より優れていると結論づけることはできない。トンプソンは、南アジアで仏教とバラモン系の思想家たちが、長い時間をかけて自己の問題を論じ合ってきた歴史にも注目している。

仏教だけを切り離し、現代科学と一致する特別な思想として扱うことは、その歴史的な豊かさを見落とすことにもなる。私がこの本を読んで興味深く感じたのは、まさにこの点だった。

第1回では、心をコンピュータに喩えることで、何が見えるようになり、何が棄てられたのかを考えた。『The Embodied Mind』もまた、認知科学と仏教を結びつけるために、仏教のある側面を強調していた。その一方で、十分に扱われなかった側面もあった。29年後、著者の一人が、自分たちの議論を振り返り、その限界を問い直したのである。

東洋思想への関心は、ヴァレラだけのものではなかった

最後に、もう一度、下西さんの本に戻ろう。下西さんは、西洋編の終わりで次のように書いている。

19世紀から20世紀の哲学者たちは、西洋思想の自己批判をその責務としながら、同時にみな東洋という別なる思想の可能性に関心を示した。ショーペンハウアーは仏陀の「無」の思想を引き受け、ニーチェは仏教哲学を読んだ。ハイデガーは存在(Sein)が老荘思想の「道」に通じると老子の翻訳まで試みている。

ヴァレラが仏教に関心を向けたことは、突然現れた出来事ではなかった。西洋哲学が、自分たちの思想の前提を問い直す過程で、東洋思想に目を向けてきた長い歴史の中に位置づけることができる。下西さんは、メルロ=ポンティについても、西洋思想に見られる支配と制御のモデルに対し、東洋思想には交渉と共鳴という異なるモデルがあるのではないかと考えていたことを紹介している。

この対比は、今回のテーマともつながっている。

世界を外側から観察し、分析し、制御することだけが、世界を理解する方法ではない。私たちは、世界の中で身体を動かし、環境から影響を受けながら生きている。その関係の中で、何が見え、何が意味を持つのかが変わっていく。ヴァレラが取り組んだのは、こうした経験を、哲学だけでも科学だけでもなく、両者を行き来しながら理解することだったのだと思う。

まとめ

今回、ヴァレラの思想を調べていて、特に印象に残ったのは、心を研究する方法そのものが問われていたことである。認知科学は、脳の仕組みを明らかにすることで、心について多くのことを説明できるようになった。しかし、脳を研究する科学者自身もまた、身体を持ち、世界を経験している人間である。

自分自身の経験を完全に外へ追いやり、客観的な説明だけで心を捉えることはできない。一方、現象学は、経験の重要性を明らかにしてきた。しかし、経験について哲学的に考えることと、自分の経験に直接気づくことは、同じではない。そこでヴァレラたちは、仏教の瞑想に注目した。仏教には、今この瞬間の心の働きを観察し、注意や気づきのあり方を訓練する伝統があったからである。

重要なのは、科学を否定することでも、仏教を科学によって証明することでもない。身体と環境の関係を科学的に研究しながら、同時に、その世界を経験している自分自身にも目を向けること。そして、どれほど優れた理論であっても、それが経験のすべてを説明できるとは限らないことを忘れない。

29年後、トンプソンが自分たちの議論を問い直したことも、その意味では重要だと思う。一つのモデルによって見えるようになるものがある。その一方で、見えなくなるものもある。心を理解するとは、完成された説明を一つ手に入れることではなく、説明によって見えてくるものと、そこからこぼれ落ちるものの両方に目を向け続けることなのかもしれない。

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