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【P#94】向精神薬とは何か?③〜幻覚剤の歴史と現在

はじめに

東京・渋谷でロルフィング・セッションと脳科学から栄養・睡眠・マインドの脳活(脳科学活用)講座を提供している大塚英文です。

「向精神薬(Psychoactive drug)」とは、脳の中枢神経系に作用し、人間の精神活動に何らかの影響を与える薬物の総称。個人的には、脳科学の理解には、「向精神薬」の知識が不可欠と考えている。

「向精神薬」には、精神刺激薬・興奮薬(stimulant、upper、アッパー)抑制薬・鎮静薬(depressant、sedatives、downer、ダウナー)幻覚剤(psychedelics、hallucinogen)の3種類がある。

今回は幻覚剤について取り上げる。

古代の儀式として使われた幻覚剤

心の病の治療や通過儀礼補助(イボガイン)、超自然界、霊界との交信を仲介するツールとして、古くから幻覚剤(ペヨーテ(サンペドロ)キノコアヤワスカ)が使われてきた。

幻覚剤の研究が本格的に開始されたのは、1950年代。今回は、LSDから始まり、サイロシビンメスカリンMDMADMTイボガインのそれぞれの歴史について簡単にご紹介させていただきたい。

LSDと幻覚作用の発見

1930年代、スイスの製薬会社サンド(Sandoz、現・ノバルティス(Novartis))の研究所では、麦角(Ergot)の研究を行っていた。麦角は、小麦、ライ麦、大麦などに寄生するカビ(fungi)の一つ。パンに麦角が寄生すると、人は正気を失ってしまうことが知られていた。

サンド社は、麦角の有効成分(アルカロイド(生物が作り出す窒素を含む天然化合物))に注目。製品化するため、若い研究者のスイス人の研究者・アルバート・ホフマン(Albert Hofmann)に有効成分の探索・分離を任せていた。

1938年の秋に、ホフマンは化学合成した成分の中で25番目のできたリセルグ酸ジエチルアミド(lysergic acid diethylamide)-25、略してLSD-25を発見。動物実験では思うような結果が得られなかった。

興味深いことに、1943年4月のある日、ホフマンは「妙な予感」がして、LSD-25を再検討する気になった。その時の模様は、自叙伝「LSD – My Problem Child」に(英語版のPDF版はこちらから)まとめているが、普段麦角のような毒性物質を丁重に扱うのに、ごく微量手につけ、幻覚作用を発見する。

サンド社は、LSD(商品名:デリシッド)という化学物質は、神経医学、精神医学に極めて重要な役割を果たすと確信し、世界中の研究者にクラウドソーシング(無料で量に制限なく提供)することを決断。研究者の対象を医師だけでなく、セラピストにも広げ、1949年からLSDの規制が入る1966年まで続く。

LSD、麦角、精神疾患への応用、啓示体験、ヒッピー文化」にも書いたが、LSDの研究は、アルコール依存症、精神疾患、精神分析に使用され、著名人にも影響が及ぶ。

メスカリン・サイケデリックとヒッピー文化への普及

1897年、ドイツの化学者によりペヨーテからメスカリン(mescaline)を単離することに成功。1919年、オーストリア人の化学者によってメスカリンの合成に成功する。現在は、実験を行う際、合成メスカリンが使われている。サンペドロの中にも、ペヨーテに比べ濃度が低いがメスカリンを含むことが明らかになっている。

著名人のオルダス・ハクスリー(Aldous Huxley)がロサンゼルスで、医師(ハンフリー・オスモンド)の下、古代の儀式として使用されたペヨーテ由来のメスカリンを体験。その成果は、美しい文章と共に1954年に「知覚の扉(Doors of Perception)」にまとめられた。

幻覚剤という薬の用語は、オズモンドとハクスリーが交わした手紙の中に登場する。1953年にハクスリーがオズモンドにメスカリンを試したいという手紙を送ったことがきっかけとなりコンタクトを取ったが、元々、ハクスリーは、神秘主義、超能力、UFOなどに興味を持っていたのも大きい。

Psychedelic(幻覚剤、サイケデリック)の由来は、ギリシャ語の精神や魂を表す「psychē」 、目に見える・現れる dēlos の組み合わせでできた造語。「魂を顕現させる(mind manifesting)」 という意味になる。他にハルシノジェン(Hallucinogen)や、神聖さを込めたエンセオジェン(Entheogen)がある。

ハクスリーは、メスカリンは、LSDよりも幻覚作用が弱く、現実逃避するよりも身体感覚がより鋭敏になり、現実体験を深めることができるようになると説明している。その後、市民の間で、メスカリンの使用はなかったが、幻覚剤使用に対して大きな影響を与えた(「メスカリン、サボテン、アメリカンインディアン」参照)。

例えば、音楽(ドアーズ、ビートルズ、ジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッド)、カウンターカルチャー(ベトナム反戦運動)、ヒッピー文化、ハーバード大学教授による、大学生への幻覚剤の実験的使用等への波及だ(「ヒッピー文化、シリコンバレー形成、問題解決の手法として」参照)。

もう一つの動きとして、既得権益(体制側)の支援があったことも見逃せない。

サイロシビンと既得権益(体制側)への波及効果

大衆向けの総合雑誌LIFE(1957年5月13日号)に、R・ゴードン・ワッソン(R. Gordon Wasson)の記事「奇妙な幻覚をもたらすキノコの発見(The Discovery of Mushrooms that Cause Strange Visions)」が掲載される。西欧社会で初めて、サイロジピンが紹介され、衝撃で持って迎えられた。

驚くべきことに、雑誌LIFE(当時の発行部数は570万部)は、大物ジャーナリストのヘンリー・ルース(Henry Luce)が編集長。ワッソンはJPモルガンの副頭取。いずれも既得権益(体制側)の人間だった。

参考に、ルースは、TIMEとLIFEの両方の創刊者で、妻のクレア・ブース・ルースと共に、プライベートでLSDを嗜んでいた。妻のクレアは「才能に恵まれた幸せな子供の目で」世界を見たような気分になったと、LSDを使用した体験の感想を残している。

このような背景もあり、TIMEやLIFEは双方とも幻覚剤を大いに賞賛。ワッソンがLIFEに、メキシコのオアハカ州の奥地に、幻覚をもたらす奇妙な植物を食べるインディオ古来の儀式を記事化する企画案を出した時、気前よく500ドルの契約金を与え、記事の編集を含め記事の全権限をワッソンに与えた。

ワッソンの記事が世に出ると、何百万人もの人々が読み衝撃を受ける。ワッソンは、たびたびマスコミ登場し、ワッソンが取材した場所(ワウトラ)で儀式を指揮するマリア・サビーナさんの元には、何千人も押しかけ、ミック・ジャガー、ジョン・レノン、ボブ・ディランも訪れるようになった。

ワッソンはメキシコから持ち帰ったキノコのサンプルをLSDの発見者、アルバート・ホフマンに送付。ホフマンは、サイロシビン(Psilocybin)とサイロシン(Psilocin)の2つの生理活性物質を合成するのに成功する(「サイロシビン、古代とキノコ文化、キノコと環境問題」参照)。

エリート層 vs 大衆の対立、法的規制へ

ハーバード大学のティモシー・リアリー教授は、多くの大衆に幻覚剤を与え、大衆文化に影響を与えようとした。対照的に、ハクスリーやオズモンド等のエリート層の人たちは、同じような歴史的使命感を持っていたが、達成する方法が違った(「幻覚剤を規制した理由、リアリーの登場、市民への広がり、ヒッピー文化」参照)。

ハクスリーらは、エリートたちに幻覚剤による意識改革を体験させ、最終的に、大衆に浸透させる。というのも、大衆には、これほど圧倒的な体験を、いきなり受け入れる心の準備ができてないと感じていたからだ。

実際、1960年代半ばから、何万人もの若者たちがドロップアウト。ベトナム行きを拒み、戦闘意欲や体制側の権威が地に堕ちた。ヒッピー文化や既得権益層に対して反発する「カウンターカルチャー」の形成に大きな役割を果たしており、これが米政府に規制の口実を与える可能性を危惧してのかもしれない。

1962年から63年にかけ、大量の密造LSDが、市販されるようになり、精神破綻、フラッシュバック、自殺など、幻覚剤のバッドトリップで緊急搬送される人たちが精神科に殺到。精神医学界の主流たちは、幻覚剤研究を中止を訴えるようになる。そして、LSDは治療薬ではなく、精神疾患の原因とみなされるようになる。

LSDの危険性に関する情報が広がり、自殺未遂1件の報告、染色体に与えるダメージ、先天異常を引き起こす等が報告。幻覚剤の長所・短所をバランスよく評価る記事が減り、新聞の見出しは、事実ベースではなく、感情を煽る「ネガティブキャンペーン」を張るようになる。

1966年10月には、FDAから米国の六十人の幻覚剤研究者へ中止するよう手紙が送られる。1970年には、Controlled Substance Act(CSA、包括的医薬品濫用防止及び管理法、規制物質法)が制定。特定の薬物の製造、輸入、所有、流通を米国政府によって規制されるようになった。

1973年、ニクソン政権の時、薬との戦争を本格的に進めるため、DEA(Drug Enforcement Agency、麻薬取締局)を設立。1970年の規制物質法の執行する連邦捜査機関として創設された。

幻覚剤の再評価〜大学が中心となり臨床試験実施へ

1990年代に入った時、一部の科学者、セラピストを含む精神世界の探究者たちが、幻覚剤の再評価を決めていく。FDAの新任検査官のカーティス・ライトが、幻覚剤の研究計画について、有用性から考えて、他の薬品と同様に検討する方針を打ち出したのだ(「再評価の動き、エサレン研究所、最高裁の判決、臨床試験」参照)

DMTの歴史で書いたように、リック・ストラスマン(Rick Strassman)は目をつけ、FDAと薬物を規制するDEAと2年間交渉をし、DMTの生理的効果に関する研究(1990年〜1995年)が承認され、実施される。

そして、ジョンズ・ホプキンズ大学のローランド・グリフィス(Roland Griffith)が「サイコファーマコロジー誌」に発表した2006年の論文も大きかった。画期的だったのは、グリフィス自身、権威のある厳正な研究者であったこと。自らサイロシビンを試し、潜在的な可能性について探りたくなったのも大きい。

グリフィスは、精神薬理学を専門とする研究者で、1972年に研究員としてジョンズ・ホプキンズ大学に雇用される。アヘン、ジアゼパムのような催眠鎮痛薬、ニコチン、アルコール、カフェインを含む物質の依存症の研究に従事。カフェイン依存症の研究で55本の論文を発表。コーヒーは食品よりも薬品に近いことを明らかにした。

一方で、意識の主観的な経験(現象学)に興味を持っており、研究人生と並行して瞑想を実践。段々と、意識と実存の謎の方が、科学よりも魅力的に感じるようになる。瞑想が科学とどう結びつくのか?の方に興味を持つようになった。

このような偏見のないグリフィスは、1994年エサレン研究所の会合がきっかけとなり(「再評価の動き、エサレン研究所、最高裁の判決、臨床試験」参照)、1998年、グリフィスを中心に幻覚剤を使った臨床研究を計画。FDAとDEAによって1999年に承認され、研究がスタートする。

ジョンズ・ホプキンズ大学のチームは、300回以上のサイロシビンのセッションを主導。瞑想家、がん患者、禁煙したい喫煙者、宗教家など。いずれも「幻覚剤未経験者」だった。その成果が2006年の論文だった。

2006年以降、幻覚剤のルネサンスの時代を迎え、現代医療では、薬ではなかなか成果が上がらない精神疾患に対して、有効な手立てになるのではないかと注目されている。

サイロシビンは、末期がん患者に襲う「不安症」「抑うつ症状」を楽にできないかどうか(「がん患者の実存的変容、うつ症状、不安症」「うつ病、臨床試験の進捗、デフォルトモードネットワーク仮説」参照)、アルコール依存症、禁煙治療(「禁煙、アルコール依存治療、AA、ラット・パーク実験」参照)等の臨床試験が進められている。

まとめ

今回は、幻覚剤の発見から、規制、そして現在迎えているルネサンスを中心にご紹介させていただいた。

少しでもこの投稿が役立つことを願っています。

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