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人間の建設 小林秀雄、岡潔 対談;6冊目 (2)

前回は、対談についての面白さを書いたが、今回は小林氏と岡氏による対談、「人間の建設」について取り上げる。
私が本を読む場合には、1ページ目からすらすらとある一定のリズムで読むのだが、この本は、どういうわけだが、次のページに行くまで時間がかかる。それだけいろいろと考えさせられる。何度も立ち止りながら読んだ気がする。
数学の世界、批評の世界のみならず、文化、芸術、文学などあらゆる分野についていろいろと語っている。切り口は非常にユニークで主に感情面の重要性を説きながら、これらの分野について話している。
その中で私が面白いと思ったか所の要旨を紹介する(詳細は一番最後の原文を参照)。
個性について
アメリカは個性を重んじるように見えて実は、重んじていない。その影響もあり、漬物や日本酒、そして都市や食べ物まで日本は個性を重んじることを忘れている。実は、昔の酒は、みな個性があった。
よい批評家とは
よい批評家になるためにはよい詩人であらねばならぬ。そして作品の批評も、直観し、情熱をもつことが本質となるので勘が内容としてあらわれる。
自然科学について
物 理学で考えられた非人間的な量に人間的な意味をつけたがる。人の知情意し行為することから、そういう本能的な生活感情を抜くというのが、科学的なアプロー チ。しかし、科学することを知らないものに科学の知識を教えると、ひどいことになる。主張のない科学に勝手な主張を入れる。
直観について
感情の満足、不満足を直観といっていい。それなしには情熱は持てないでしょう。人というのはそもそもそういった構造を持っている。
情について
人には、知情意と感覚があるが、心が納得するためには、情が納得しなければならない。その意味で、知とかいとかがどう主張したって、その主張に折れたって、情が同調しなければ、人は本当にそうだとは思えない。
なるほど、と思わずうなるところが多く学ぶところが多かった。とくに学べた点は、情緒又は感情。その重要性はこの本で終始述べられている。
考えてみれば、
人 間の脳は、言語や論理をつかさどる左脳にくらべ、イメージ、芸術、感情をつかさどる右脳の方の容量が百万倍も容量が大きい。右脳が大きいということはそれ だけ、人間の脳の中で感情などが大切なこと。しかし、現代はだんだんと右脳の部分を軽視する傾向が強くなっていて、それがこの二人による対談で、「情」が 重要であるという形に現れたのだろうと思う。
この本は、是非再読して、もっともっとたくさんエッセンスをつかみ取りたいと思う。
人間の建設 (新潮文庫)/小林 秀雄

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そのほかについては、下記に原文のまままとめた。
面白いと思った箇所:
#日本人と個性
岡 日本は個性を重んじることを忘れてしまった。
小林 いい酒が作れなくなった
岡 個性を重んじるということはどういうことか、知らないのですね、、
(略)
小林 漬物一つに全く個性がない。アメリカという国は、個性を尊重しているようで、実は個性を大事にすることを知らない国なんです。それをまねているんですから、食べ物にも個性がなくなってきていますね」
#欧米人の文化
岡  これがもっと増えたらどうするかということになりますが、欧米人がはじめた今の文化は積木でいえば、一人が積木を置くと、次の人が置く、またもう一人も 置くというように、どんどん積んでいきますね。そしてもう一つ載せたら危いというところにきても、倒れないようにどうにか載せます。そこで相手の人も、や むを得ずまた載せて、ついにばらばらと全体が崩れてしまう。今の文化はそういう積木細工の限度まで来ているという感じがいたします。
#直観と感情
感情の満足、不満足を直観と言っているのでしょう。それなしには情熱は持てないでしょう。人というのはそういう構造を持っている。
#良い批評家について
岡 よい批評家であるためには、詩人でなければならないという風なことは言えますか
小林 そうだと思います
岡 本質は直観と情熱でしょう
小林 そうだと思いますね。
岡 批評家というのは、詩人と関係がないように思われていますが、つきるところ作品の批評も、直観し情熱を持つということが本質になりますね。
#勘について
岡 勘が内容ですかね
小林 勘というから、どうでもよいと思うのです。勘は知力ですからね。それが働かないと、一切が始まらぬ。それを表現なさるために苦労されるのでしょう。勘で探り当てたものを主観の中で書いていくうちに内容が流れる。
#情が原動力
岡  人には、知情意と感覚がありますけれども、感覚はしばらく省いておいて、心が納得するためには、情が承知しなければなりませんね。だから、その意味で、 知とかいとかがどう主張したって、その主張に折れたって、情が同調しなければ、人は本当にそうだとは思えませんね。そういう意味で私は情が中心だったと いったのです。(略) ところが、人間というものは感情が納得しなければ、本当に納得しないという存在らしいのです。
#自然科学の見方
小林 物理学者のいう非人間的な量に人間的な意味をつけたがる、これは全く自然なことで、仕方のないことでもあるのですね。
#創造性について
一時間なら一時間、その状態の中で話をすると、その情緒がおのずから形に現れる。情緒を形に現すという働きが大自然にはあるらしい。文化もその現れであ る。数学もその一つにつながっているのです。その同じやり方で文章を書いているのです。そうすると、情緒が自然に形に現れる。つまり形に現れるものを情緒 と呼んでいるのです。
そういうことを経験で知ったのですが、いったん形に書きますと、もうそのことへの情緒はなくなっている。形だけが残りま す。そういう情緒が全くなくなったら、こういうところで話しようという熱意も起こらないでしょう。それを情熱と呼んでおります。どうも前頭葉がそういう構 造をしているらしい。言い表しにくいことをいって、聞いてもらいたいというときには、人は熱心になる。それは情熱なのです。そしてある情緒が起こるについ て、それはこういうものだという。それを直観といいっておるのです。そして直観と情熱があればやるし、同感すれば読むし、そういうものがなければ見向きも されない。そういうひとを私は詩人といい、それ以外の人を俗世界の人とも言っておるのです。
#無明とピカソ、学問について
岡 男 女関係はたくさん書いています。それも男女関係の醜い面だけしかかいていません。あれが無明というものです。人には無明という、醜悪にしておそるべき一面 がある。昔、世界の四賢人といって、ソクラテスとキリストと釈迦、孔子をあげておりますが、そのうち三人、釈迦とキリストと孔子は、小我は困ると言ってい るじゃないかと思います。キリストは、人の子は、罪の子だと言っております。孔子は、七十にして矩(のり)を踰(こ)えず、つまり自分をしつけて一人前に 知情意し、行為するようになるまで自分は七十年かかった。それでは後は何もできないわけです。釈迦は無明があるからだということをよく説いて聞かせている のです。人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。ところで、人には個性というものが ある。芸術はとくにそれをやかましくいっている。漱石も芥川もいっております。そういう固有の色というものがある。その個性は自己中心的に考えられたもの だと思っている。本当はもっと深いころから来るものであるということを知らない。つまり自己中心に考えた自己というもの、西洋ではそれを自我といっており ます。仏教では小我といいますが、小我からくるものは醜悪さだけなんです。ピカソのああいう絵は、、無明から来るものである、そういうことを感じて書いた のです。
(略)
人は無明を押さえさえすれば、やっていることが面白くなってくるということができるのです。たとえば、良寛なんか、冬の夜 の雨を聞くのが好きですが、雨の音を聞いても、はじめはさほど感じない。それを何度もじっくり聞いておりますと、雨を聞くことのよさがわかってくる。そう いう働きが人にあるのですね。雨りのよさというものは、無明を押さえなければわからないものだと思います。数学の興味も、それと同一なんです」

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