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第4回:日常のマインドフルネス──「型」と「内観」が認識のOSを書き換え続ける

はじめに

坐っていない時間という問い

第1回と第3回では、認識のOSは坐の中で書き換わるという話を、観察の角度から、神経基盤の予告から、ヨガ思想の側から、それぞれ書いてきた。書きながら、自分の中に一つ問いが残った。一日のうち坐っている時間は、長く取っても1時間くらいだ。残りの23時間は、どこへ行くのだろう。

第1回で書いた観察、第3回で書いた古典の言葉──これらは坐の中ではある程度実感として立ち上がる。けれど、坐から立ち上がって、次の予定に入って、誰かと話して、メールを返して、食事をして眠る。その流れの中で、坐の中で起きていたはずの観察の角度は、たいてい途中で消えてしまう。これは、自分自身が一番よく知っていることだと思う。

「型」と「内観」という二つの入口

坐っていない時間にマインドフルネスを継続させる装置として、自分の経験の中で残ったのは、結局のところ二つだった。一つは「型」、もう一つは「内観」である。

型は、身体の側から観察を保つ装置だ。同じ姿勢、同じ呼吸、同じ手順を繰り返すことで、身体が観察の足場を覚える。内観は、記憶と人間関係の側から観察を保つ装置だ。過去の事実を一つずつ調べることで、いまの認識の枠組みが書き換わっていく。

身体の側と記憶の側、二つ揃ったときに、坐っていない時間にも観察が薄く流れ続けるようになる、というのが10年あまり実践してきての実感に近い。

第4回の役割

第4回では、その二つの装置──「型」と「内観」──を順番に書く。そのうえで、最後にシリーズ全体の結びを置く。坐の中で立ち上げた観察を、坐っていない時間にどう連れていくのか。次の入口は、そちらからになる。

「型」という装置

茶道・書道・ヨガの型

「型」という言葉について、自分はずいぶん早い段階で書いていたのを、最近思い出した。2012年4月、ロルフィングと出会うよりも前のブログに、こう書いている。茶道や書道、ヨガはそれぞれに型がある。最初、型を覚えるのは手間がかかる。なぜなら、その人の行動形式──いわば身体のもっている習慣──を変えることに直結するから。その人の行動様式というのが、心を作っているわけだし、その人が前向きか、後ろ向きか、楽観的か、悲観的かを決めるわけだから(Y#5)。

14年前の自分が書いた文章としては、いま読んでも違和感がない。心から身体を変えるのではなく、身体から心が変わる、という順序を、まだヨガを始めて4年ほどの自分が書いている。茶道の所作、書道の運筆、ヨガのアサナ──これらはすべて、心を直接動かそうとせずに、身体側の反復を通して、結果として心の角度を変える装置だ、という構造になっている。

中世日本人の身体運用──茶道・禅・能楽

茶道や書道、ヨガはそれぞれに型がある——14年前の自分のブログ(Y#5)を引き直してみると、当時の自分が見ていたのは、まだその表面だったのではないか、という気がする。日本の身体運用の系譜には、この見方がもっと深く埋め込まれている。

内田樹は、能楽師の観世清和氏との共著『能はこんなに面白い!』のなかで、中世日本人の身体運用を今に伝えるものとして茶の湯・禅・能楽の三つを挙げている。「能楽が身体運用を学ぶのに最も適しているように思われた」と書く。長い歴史のなかで磨かれてきた所作の体系のなかでも、能の身体には別格の精度が宿っている、という見立てだ。

ロルファーかつ能楽師である安田登氏は、能の動作と深層筋の関係を著書『身体能力を高める「和の所作」』のなかで詳述している。すり足を続けると、大腰筋への意識が強まる。能の身体運用は、現代でいう体幹深層筋のトレーニングとして読み解くこともできる。安田氏のように、身体の構造(ロルフィング)と日本の型(能)が一人のなかに統合されている例があるということが、本シリーズが扱ってきた認識のOSを身体側から支える系譜が、いまも生きていることを示している、と思う。

中世日本人が磨き上げた身体運用が、現代のロルフィング・ヨガ・瞑想と地続きで読めるとき、「型」は単なる古い儀式ではなく、認識のOSを書き換える装置として、いまも更新可能な技法として立ち現れる。

「型」の継承──私の通った道

ここで、私自身が型をどのように身体に通してきたか、書いておきたい。

実は、私の父方の祖父は能楽師だった。実家には能の舞台があった、と聞いている。私自身が能の稽古を始めたのは2016年からだが、その前から、能というものに対して、どこかで縁がある気がしていた。世阿弥の『風姿花伝』や、ロルファーかつ能楽師の安田登氏の著作には早い段階から触れていて、なんらかの宿命みたいなものを感じる、と2017年のブログに書いている。

裏千家茶道を習い始めたのは2010年。書道家の石川徳仁さんから紹介していただいた近藤俊太郎さんのもとで、月に一度の稽古を3年あまり続けた。アバンギャルド茶会という活動名で、近藤さんが基礎的な茶道を教えてくださった(J#38)。

裏千家の流派は、すべての動作が決まっている。当時練習していたアシュタンガ・ヴィンヤーサ・ヨガがすべてのポーズが決まっているのと、構造が似ている。頭よりも身体で動作を覚えることになる、と書いた覚えがある(J#38、2015年)。違う脳を使う感覚が養われ、いい気分転換になる。和菓子、茶道具(茶碗・水指・建水・茶杓・棗)、所作、礼儀、掛け軸、書、花——多様性があり季節感のある日本文化に身体ごと触れられるところもよかった。

能を始めたのは2016年8月から。京都在住の能楽師・井上貴美子先生のもとで「西王母」習得コース(全20回)を学んだ(J#40)。題材の「西王母」は、心を癒し安らぎの世界に導く曲で、各回の稽古は1時間、配布された台本に従って謡を謡い、時に「仕舞い」も学ぶ、という形式だった。

「謡い」を声に出して練習したあとの身体の感じ方は、いまでも覚えている。稽古の終わりに身体の状態を見ると、足がつま先と踵の真ん中に重心がきて、呼吸が全身に広がっていく感覚がある。これはロルフィングの施術を終えた後とよく似ている。「仕舞い」の稽古になると、深層筋(大腰筋・腸骨筋・梨状筋)を使った意識を実感する。動きが繊細でゆっくりで、足を揃えるのに意識をどこに向けたらいいのか、四苦八苦する稽古だった。

世阿弥『風姿花伝』には、稽古や演技、芸道について多くの言葉が残されている。「初心忘るべからず」「秘すれば花」「上手は下手の手本、下手は上手の手本」——含蓄のある言葉として、今も時々読み返している。「初心忘るべからず」は、最初に身体に通った稽古の感触を、続けるうちに失わずにいるための戒めとして、私のなかでは響いている。

裏千家の3年と能の1年、それぞれ短い期間ではあったが、身体に何が残ったかというと、所作を経由して認識の枠組みに直接働きかけるという感覚だった、と思う。茶道の動作の決まり、能の謡いと仕舞いの呼吸——どちらも、「考えてから動く」のではなく、「動きが先にあって、観察が後からついてくる」という順序を身体に教える装置だった。

行動様式が心を作る

2012年のY#5の同じコラムで、ジム・ローアの『The Power of Full Engagement』を引いていた。プロのテニス選手や野球選手は、失敗したときに、ある一定の儀式──型──を数秒間行うことで、心をリセットして次の行動に移る、という話だ。バットを置く位置、ラケットを握り直す手順、ベンチに戻るまでの歩数。たった数秒の型が、直前の失敗から心を切り離して、次のプレーに入っていく。

東洋の伝統的な型と、現代スポーツの型は、見た目は違っても、構造としてはたぶん同じものだと思う。坐っていない時間に観察の角度を保つ、という第4回の問いに引き寄せて読み直すと、型の意味は一段はっきりしてくる。坐の中で立ち上げた観察を、姿勢や手順という身体側の繰り返しに溶け込ませることで、生活時間の中に薄く流し続ける装置だということになる。

MUSE2という現代の型

第1回で書いたMUSE2のことを、ここでもう一度引いておきたい。第1回では「観察を外部化する装置」として書いた。脳活動計測デバイスを額に装着し、リラックスしているときに鳥のさえずりが聞こえてくる、という構造のものだ。

2021年8月、コロナ禍の時間の中で、Insight Timerというアプリで瞑想を再開した。同年12月23日にMUSE2を入手し、2022年1月からは朝夜の1日2回、30分ずつの瞑想を、鳥のさえずりを足場にしながら続けている(Y#91)。何年か続けてきて、MUSE2を使っていると、鳥のさえずりが多い朝と少ない朝の差が、自分の状態と紐づいて見えるようになった。寝る時間が遅かった日、夜遅くに食事を取った日、運動しすぎた日──これらは鳥のさえずりが減る。逆に、睡眠が7時間以上取れて、身体感覚に意識を向けられている朝は、さえずりが増える(Y#93)。デバイスが、自分の生活全体を間接的に観察し直す鏡になっていた。

外部化が型に溶け込んでいく

第1回で MUSE2を「観察の外部化」と書いたとき、自分の中ではまだ、デバイスが観察の足場として「外側」にある感覚があった。それから2年程度同じことを続けてきて、いま自分が感じているのは、外部化の働きが少しずつ身体の習慣の中に溶けてきている、ということだ。

朝の決まった時間にMUSE2を装着する所作、装着の硬さで額の状態を読む感覚、瞑想中に鳥のさえずりが減ってきたときに身体のどこに力が入っているかを探す動き。最初はデバイスが教えてくれていた観察の角度が、いまは身体の側に少しずつ移っている。外部化された観察が、反復を通して内側に戻ってきている、と言ったほうが近い気がする。デバイスは、まさにそのために設計された装置として、こちらの中で機能している。

型とは、身体に観察を覚えさせる仕組みだ。茶道の所作も、能の謡いも、ヨガのアサナも、MUSE2を装着する朝の手順も、構造は同じだと思う。

「内観」という装置

3つの質問という設計

二つ目の装置は、「内観」である。吉本伊信が昭和の時代に体系化した日本発の自己観察法で、現在も全国数か所の研修所で1週間の集中内観が行われている。私は2018年末から2019年正月にかけて、安曇野の信州内観研修所で7日間の集中内観に参加した。

集中内観は、構造としては非常にシンプルなものだ。屏風で囲まれた畳一畳ほどの空間に1日およそ15時間坐り、面接官が90分おきにやってくる。そして、内観者は3つの質問だけを、特定の人(母、父、兄弟、配偶者、上司など)に対して、年齢区切りで時系列に調べていく。

  • していただいたこと
  • して差し上げたこと
  • ご迷惑をかけたこと

この3つだけだ。「お母さんに、小学校1年生から3年生のあいだに、していただいたこと」というふうに、対象と期間を絞って、自分の記憶の中から事実を取り出していく。ポイントは、事実ベースで調べるという点にある(Y#76)。母にこう感じた、ではなく、母にお弁当を作ってもらった、母に駅まで送ってもらった、というふうに、事実だけを並べる。評価や解釈は、いったん脇に置く。

集中から日常へ

7日間の集中内観のあと、自然な流れとして「日常内観」が続く。集中内観は1週間でいったん終わるが、その後の生活の中で、毎晩寝る前に短い時間だけ、3つの質問を自分に向け直す。電車の運転手に渋谷駅から新宿駅まで運んでいただいた。サロンの掃除をした。遅刻して相手の時間を奪ってしまった──そういう小さな事実を、その日のなかから拾い直していく。

集中内観から半年経った2019年7月、安曇野の研修所に久しぶりに伺ったとき、自分の中で起きていた変化を文章にしている。事実をありのままの事実として認めていくので、過去の囚われから解放されていく感覚がある。恨みや劣等感といったものは、自分の評価が事実の中に紛れ込むことで囚われとして現れるが、事実として認めることで、いったん終了させる習慣を身につけることができる、と書いた(Y#76)。装置の効果として、自分の中ではこの感覚が一番大きかったと思う。

ジャーナリングという派生形

集中内観から半年が経った2019年7月、もう一つ生活に入ってきた習慣があった。ジャーナリングである。佐宗邦威さんの『直感と論理をつなぐ思考法』を読書会で読み、毎朝15分から30分、ノートに手書きで書く時間を作るという話に触れた。本の中で佐宗さんは、現代人の多くが「他人モード」に偏ってしまい、自分が何をしたいのかを忘れてしまっている、と書いていた。それを取り戻すための、自分の中に余白を作る作業として、ノートを薦めていた(Y#77)。

私は2019年7月16日から、MOLESKINEのノートとパイロットのVコーンを買って、朝に30分、2ページ以上を埋めるという形で始めた。手書き、人に見せない、よほどのことがない限り朝に行う、という3つの条件で続けた。

ジャーナリングと内観は、見た目はかなり違う実践だが、構造としては親戚の関係にあると思う。どちらも、いま自分の内側で起きていることを、評価を保留したまま、事実に近い形で書き出していく作業である。内観が他者との関係を媒介に過去を調べるのに対して、ジャーナリングは現在の自分を直接書き出す。けれど、扱っている素材──記憶と感情──と、扱い方──評価を保留して取り出す──は、よく似ている。装置は別々だが、認識のOSの内側に手を入れる角度は重なっている、と言ってもいい。

日常への染み込み

考えを言葉にすることと、経験を言葉にすること

「言葉にする」という作業について、もう少し丁寧に書いておきたい。第1回で、「考えを言葉にすること」と「経験を言葉にすること」は別の作業だ、ということに触れた。第4回では、それを日常の側からもう一度開きたい。

2026年1月、コラムにこう書いた(E#284)。考えを言葉にするとは、なぜそうなったのか、どうすべきか、何が問題なのかを整理し、説明することである。一方、経験を言葉にするとは、いま足が床に触れている感じ、胸のあたりの詰まり、呼吸が変わった瞬間、触れられたときの違和感や安心感といった、その場で起きている出来事を、あとから静かに拾っていく作業である。ここでは、言葉が先にあるのではない。体験が先にあり、言葉は後からついてくる

頭で整理するのと、内側の反応を拾うのは、別の作業だと思う。前者だけを続けていると、状況も問題も感情もすべて言葉にできているのに、なぜか身体が動かない、という状態に入ることがある。

BEINGとDOING、観察の場所

ロルフィングのセッションをしていると、考えすぎている状態の身体には、はっきりとした傾向が見えてくる。意識が身体から離れて頭のほうに集まり、足先が冷たくなり、骨盤が前に倒れ、腰まわりが常に緊張している。本人は落ち着いているつもりでも、身体は先へ進み続けようとする姿勢を取り続けている。コーチングの場では、これが別の形で現れる。同じ考えが頭の中を回り続け、分かっているのに行動が変わらず、これまでのやり方から抜け出せない。DOING(行動)をどうするかは語れているが、BEING(在り方)の側が置き去りになっている、という状態だ。

このとき必要なのは、もっと考えることではなく、内側の反応が判断の場に戻ってくる時間だと思う。呼吸が少し深くなる。足の感覚がはっきりしてくる。言葉数が自然に減る。理由はうまく言えないが、これでいい気がする、と口にする。決断は、考えて出すものから、自然に浮かび上がるものに変わる。

第1回との円環

第1回 セクション4で、「素の感触」に居られる時間という言い方をした。第4回でいうところの「経験を言葉にする」は、その素の感触を後から言葉に拾い直していく作業だ。坐の中で立ち上げた観察と、生活の中での言語化は、繋がった一つの仕事だと思う。内観も、ジャーナリングも、日常の中での経験の言語化も、結局はこの仕事の角度違いの実装だ、と読み直すことができる。

日常で身体に戻り続ける

12分から始めたこと

第3回でも触れた話を、もう一度書きたい。2013年11月、Sarah Powersの陰ヨガ・ワークショップで瞑想に出会ったとき、わずか12分から始めた。これだけで続いた。続いたから、その後の人生のレールが少しずつ別の方向へ切り替わっていった。

13年経って振り返ると、12分という長さの選び方が、当時の自分にとっては型として正しかったのだと思う。長すぎず、短すぎず、毎日続けられて、日常の中に挟み込める分量。型が日常に染み込むためには、長さの設計がいる。

当時、茶道の一服、ヨガの一回のクラス、MUSE2の30分、ジャーナリングの2ページ──どれも、自分の生活時間の中に持続可能な分量で組見込んでいたのが良かったと思っている。

大内さんの「Let be」

第3回でも触れた、大内雅弘さんの瞑想の順序の話を、もう一度ここに置く。Opening、技術、Let be、Closing、To liveの5段階のうち、Let beがいちばん軽視されている、と大内さんは言った。技術段階で出る雑念は集中力の問題、Let be段階で出る雑念は自分にとって役立つ情報の可能性が高い、という区別だった。

日常の中での「Let be」は、結局のところ、コントロールしないでいる時間を、生活の中にどれだけ確保できるかということに尽きる気がする。坐の中だけでなく、信号待ちのあいだ、エレベーターの中、誰かを待っている数分間に、コントロールを少し緩めて、自分の身体や呼吸の側に戻る時間を持てるかどうか。型と内観で立ち上げた観察を、こうした隙間時間で更新し続ける。Let beは、坐の中の段階ではなく、日常の側の構造でもあった、ということだと思う。

ロルファーとして触れているとき

10年あまりロルファーとしてクライアントの身体に触れてきて、最近よく感じるのは、坐の中で立ち上げた観察の角度が、触れているときの自分の手の側に薄く流れている、ということだ。クライアントの身体が硬いとき、その硬さの奥にある古い感情の手触りまで、こちらの手が拾えるかどうか。それは技術ではなく、その日の自分が、坐と日常のあいだでどれだけ観察の角度を保てているかに、たぶん依存している。型と内観は、ロルファーとしての自分の手の質に、最後のところで降りてくる装置でもある気がする。

まとめ──シリーズ全体の結び

ここまでの4回を通して

シリーズ「認識のOSを書き換える」を、4回かけて書いてきた。第1回で観察という第三の視点を立て、第3回でヨガ思想の側からチッタとヴリッティの構造を辿り、第4回で坐の外側にある「型」と「内観」を書いた。神経基盤を扱う第2回が最後に残っている。坐の中、坐の外、思想の側、神経の側──四つの方角から、認識のOSが書き換わるとはどういうことかを、それぞれ別の角度で読み直す試みだった。

書き換えはどう続いていくか

シリーズを通り抜けた読者にとって、認識のOSの書き換えは、たぶん特別な行為ではなく、生活の中に薄く流れ続ける時間の話になっていく気がする。坐っている時間と坐っていない時間、両方で観察の角度を保ち続けるということ。型を反復し、内観で記憶を調べ、日常で経験を言葉にし続けるということ。これらは、どれか一つだけで完結するものではなく、互いに支え合う装置の組み合わせだと思う。

私自身、ヨガと瞑想と内観を続けてきた一つの理由は、誰かと向き合うときの自分の基底の質を、少しずつ整えていきたいということに尽きる気がしている。いるだけで相手が少し落ち着けるような、そういう何か。装置と日常のあいだで観察の角度を保ち続けることが、たぶんその基底にじわじわ効いてくる。

第2回への予告

最後に、シリーズの第2回として、坐の中で起きていることの神経基盤について書く予定だ。ポリヴェーガル理論が示す自律神経の状態層、デフォルト・モード・ネットワークが示す枠組み層、そして近年の幻覚剤研究が示すprior(先行情報)の書き換え。型と内観で起きていることの裏側で、神経の側では何が起きていたのか。これらを、自分が以前外資系製薬会社で中枢神経領域に関わってきた経歴も含めて、別の角度から読み直す予定だ。

シリーズはここで一区切りとする。坐の中で立ち上げた観察を、坐っていない時間にも連れていく。次の入口は、神経基盤の側からになる。


本シリーズ:認識のOSを書き換える(全4回)

→ シリーズ全体の俯瞰は 瞑想Gateway──認識のOSを書き換える4つの入口 を参照

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