【J#124】なぜ日本では“境界”が重要なのか──三井寺で見えた仏教と文化の構造
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はじめに
渋谷を拠点に、ロルフィング®やコーチング、タロット、脳活講座を行き来しながら、考えること・感じること・身体感覚(肚・丹田)が、自然にひとつの判断としてまとまっていく状態を取り戻すための場をつくっている大塚英文です。

2026年3月22日(日)、早朝のフライトで関西入り。大人の寺小屋・余白(滋賀県・大津市)へ伺った。
大人の寺小屋・余白とは?
「余白」は、美術家・ミヤケマイさんが主宰している。大人を対象に、日本文化を深く多角的に学ぶことをコンセプトとしており、3つのテーマで構成されている。

- 天(てん): 宗教と美術について学ぶ
- 地(ち): 環境と食について学ぶ
- 人(ひと): 私たち人間を動物から分化する文化について学ぶ
毎月5日間、開催している。前回は、2025年10月26日、27日の日程で「余白」に伺い、ビビンバのワークショップに参加し、韓国の文化の奥深さを知ることができた。参考に、日本文化を考えるのに、なぜ韓国料理か?と思うかもしれませんが、ミヤケさんは、日本文化の中に内包されている、インド、韓国、中国まで勉強することで、理解が深まるという。その視点も「余白」を参加する面白さだと思う。
👉関連ブログ
「大人の寺子屋・余白〜滋賀県・大津市の旅〜ビビンバに秘められた「混ぜて分かち合う」精神」
今回、関西に来た理由は、余白の授業の中で、天台寺門宗総本山三井寺(みいでら)・長吏の福家俊彦さんの仏教・修験道についての話を伺いたかったからだ。
以前より、松岡正剛さん、福家さんと末木文美士さんによる、『』という本を読んで以来、ぜひ福家さんから直接お話を聞きたいと思っていた。今回、このイベントのためだけに関西に来たが、非常に密度の濃い2時間であり、早朝来た甲斐があったと感じている。
修験道とは何か?
お話の中で、特に印象に残ったのが「修験道とは何か」という点だ。
福家さんが話されていた中で、いちばんしっくりきたのは、修験道とは、山に入り、一度“死に”、再び“生まれ直す”ことで、自己を変容させる実践体系である、という捉え方だった。これまで「修験道って何だろう?」とぼんやり考えていたのだが、この一言で一気に輪郭がはっきりした感覚があった。
修験道では、
・擬死再生
・みそぎ
・再出発
といったプロセスを通じて、一度それまでの自分をリセットしていく。この「擬死再生」という言葉も印象的で、私なりに受け取ると、古い自分を手放して、新しい自分として立ち上がるプロセスなのだと感じた。
そして、これは単に頭で理解するものではなく、実際に山に入り、自然の中で身体を使って体験することで起こるものだ、という点もとても重要だと思った。さらに興味深かったのは、このリセットが個人だけの話ではない、という点。
お寺では日々祈祷が行われ、たくさんの人の願いや思いが集まってくる。そうすると、場としてはどうしても“溜まっていく”構造になっていく。
だからこそ、それを一度リセットする必要がある。その役割を担っているのが、山に入る修験の実践だ。個人のリセットと、場のリセットが、同時に行われている。この視点はとても面白いと感じた。
山という存在
こうした話の流れの中で、とても印象に残ったのが「山」という存在の捉え方だった。
山は単なる自然というよりも、命があり、大地そのものの形として存在しているものとして語られてた。そこには、人間が所有したり、コントロールしたりすることのできない「無所有」の感覚がある。
私たちが普段持っている、科学的に対象を理解しようとする視点とは少し違い、山は「外から理解する対象」ではなく、「関係を結ぶ相手」として捉えられている。つまり重要なのは、自然という他者と、どのような関係をつくるか、ということだ。
その関係は、頭で考えるものではなく、身体を通して築かれていくものなのだと感じた。
この前提の上で、「垂直の関係」という話が出てくる。山は「上」にあり、大地は「下」にある。ただしこれは単なる位置関係ではなく、神や死者、異界といった存在とつながる構造を含んでいる。山にいる存在が降りてくる、死者が訪れる。そうした感覚も、この関係性の中から自然に生まれてくるものなのだと思った。
熊野を訪れたときの感覚
こうした話を聞いていると、過去に熊野を訪れたときの体験が自然と思い出された。熊野の山に入ったとき、最初に感じたのは、それが「自然」という言葉では収まりきらない場所だということだった。木々や空気、水の流れ。それらは単なる景色ではなく、どこか“存在しているもの”として立ち現れてくる。
自分がその中に「いる」というよりも、むしろ、その場に「迎え入れられている」ような感覚があった。
同時に、心地よさだけではなく、どこか緊張感のようなものもある。安心と畏れが同時にあるような、不思議な感覚がある。歩いているうちに、普段考えていることが少しずつ静まり、代わりに身体の感覚のほうが前に出てくる。
そのとき、自分が「理解する側」ではなく、ただその場と関わっている存在になっているような感覚があった。
👉関連ブログ
「熊野古道、大斎原、神倉神社を巡ることで心身がリセットされた」
「那智の滝、獅子岩、大馬神社で熊野のすごさを感じる」
「大丹倉エリア(大丹倉・丹倉神社・雨滝)を訪れて」
「熊野付近の神社散策:自然を触れる旅になった」
「まれびと」と「ちまた」
ここで出てきたのが、「まれびと」と「ちまた」という考え方だ。
まれびとは、海の向こうなど外部からやってくる存在で、たまに現れるものとして捉えられていた。そして彼らは、恵みや良いものをもたらしてくれる存在である一方で、見知らぬ存在でもあり、どこか不確かさやリスクも伴う存在という見方もできる。
つまり、
・有益な存在
・しかし同時に不確実な存在
という二つの側面を持っている。
一方で「ちまた」とは、分かれ道や交差点のような場所を指す。そこは単なる通り道ではなく、異なるものが出会う境界でもある。そして、こうした境界の場所には市(いち)が立つことも多く、人や物、情報が交換される場が自然に生まれていく。
そこには、山で生きている人たちが降りてくる。日常の側から見ると、彼らはどこか異なる存在であり、ある意味では“死者”に近いような感覚で捉えられていたのかもしれない。
つまり、山という異界からやってくる存在と、それを受け取る場としてのちまたがあり、その交差点で交換や関係が生まれる。この構造の中で、世界が動いているのだと感じた。
三井寺の位置づけと「結び」
そこは、人や情報、あるいは異なる世界が出会い、何かが生まれる場所でもある。今回、結びの専門家の方(結び創作工房「恵」)のお話を直接伺うことができたのも、とても印象的だった。
結びは単なる装飾ではなく、意味や関係性を表現するものとして扱われており、僧侶の世界では特定の結び方があり、結び目に神が宿るという発想があるという話もあった。また、文字や言語が発達する以前には、糸や結びが「言語」のような役割を果たしていたという視点も興味深いものだった。

そして「結界」という考え方も、この延長線上にある。
結界は外と内を分けるだけでなく、内側を守る構造であり、その内側にこそ生活や信仰の場が存在する。「背守り」のように、見えない場所を守るという発想も、この文脈で理解することができる。
こうして見ていくと、
結び
結界
辻
はいずれも、
👉 異なるものを分けながら、同時につなぐ構造
として存在しているのだと感じた。そして三井寺もまた、そのような構造の中にある場所なのではないかと思う。
なぜ修験道と結びついたのか
この点についても、「取り入れた」というよりは、自然な流れの中で結びついていった、という説明がとても納得感があった。
三井寺は大津という交通の要所にあり、琵琶湖や東海道を通じて、人や情報が集まる場所でもある。そのため、山に向かう人や山から戻る人、巡礼者や聖たちが自然と行き交う場所でもあったのだと思う。そうした流れの中で、修験の実践や知識が重なり、結果として三井寺と修験道が深く結びついていったのではないかと感じた。
ここで興味深かったのは、修験道が単なる個人の修行ではなく、やがて組織化されていったという点である。
中世には、修験道には大きく「本山派」と「当山派」という二つの流れが形成されていく。
本山派は、京都の聖護院を中心とし、熊野信仰と深く結びついた修験者たちのネットワークであった。後白河法皇などの熊野詣において先達を務めた修験者たちが組織化されていった流れであり、三井寺(園城寺)とも深く関係している。
一方で当山派は、真言宗系の流れの中で発展し、醍醐寺を中心とする修験の系統である。こちらはより山中での実践や修行の側面が強く、地方へと広がりながら展開していった。
このように、修験道は
・三井寺や聖護院と結びつく天台系の流れ(本山派)
・醍醐寺を中心とする真言系の流れ(当山派)
という二つの系統を持ちながら広がっていった。
そして特に本山派においては、
熊野という聖地
そこへ向かう巡礼のネットワーク
それを導く修験者(先達)
それを組織する聖護院
そしてその背景にある三井寺
という構造が形成されていた。
こうして見ていくと、三井寺と修験道の関係は、単なる地理的な接点だけではなく、熊野信仰を中心とした巡礼と組織のネットワークの中で、自然に結びついていったものだと理解できる。
三井寺はその流れの中で、人・情報・信仰が交差する結節点として機能していたのではないかと思う。
巡礼・聖・ネットワーク
修験道は、役小角に始まり、熊野信仰、そして西国三十三所巡礼へとつながっていきます。天皇家の熊野詣によってこの流れは広がりますが、当時の巡礼は今のように誰でも行けるものではなかった。
どこに行けばいいのか、どの道を通るのか。そうした情報は限られていた。それを持っていたのが「聖(ひじり)」と呼ばれる人たちだ。
彼らは各地を巡りながら活動していたが、重要なのは、彼らが境界線上にいる存在だったという点。
山と社会のあいだ、内と外、日常と異界のあいだ。そうした場所にいるからこそ、情報や知識を持つことができた。つまり、境界にいる人が情報を持つ、という構造があったのだ。
この構造は、河原に生まれた芸能にも通じる。河原は日常から少し外れた場所で、人や情報が交わる場だった。そこから新しい文化や表現が生まれていったというのも、とても納得感がある。
巡礼とは、単なる移動ではなく、境界を動きながら情報と身体知を運ぶネットワークだったのだと思う。
別所という存在
巡礼が広がる中で、「別所」と呼ばれる場所も生まれていく。これは、巡礼者や修行者が滞在するための拠点のようなもので、日常でもなく、完全な聖域でもない、その中間にある場所だ。
人が集まり、情報が交わり、実践が積み重なっていく中で、こうした別所が、やがて寺院へと発展していくこともあったそうだ。
場に意味が蓄積されていくことで、形が変わっていく。この流れもとても興味深いと感じた。
まとめ
今回のお話を通して感じたのは、世界は「関係」と「接点」でできている、ということだった。山に入り、変わり、戻ってくる。その中で人や情報が動き、さまざまな構造が生まれていく。三井寺は、その流れが交差する場所として存在していたのだと思う。
現代に生きていると、どうしても頭で理解しようとしてしまいがち。本当に大事なことは、身体を通してしか分からない領域にあるのかもしれない。
短い時間でしたが、とても多くの示唆をいただいた時間でした。情報をお知らせいただいたミヤケマイさん、惜しみもなく知識をシェアいただいた福家さん、ありがとうございました!








