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生命の地図の書き換え──ポストゲノム時代の認識のOS

カテゴリ:生命観の変遷シリーズ【第9回】/ 2026年

【生命観の変遷シリーズ】全10回(予定)

※本シリーズでは、議論の流れと構造の把握を優先するため、文中の敬称は適宜省略している。


ヒトゲノム解読後、私たちは生命を理解したのか

2003年4月、ヒトゲノム計画が完了した。第6回の終盤で見たように、13年の歳月、30億ドルの資金、1000人以上の研究者の協力——人類は、自分自身の設計図を手に入れた。

当時、世界中のメディアは興奮に包まれていた。「生命の青写真」「人間の本質の解明」「遺伝病の終焉」——大胆な見出しが踊った。研究者たちもまた、新しい時代の幕開けを宣言した。これからは、ゲノム情報をもとに、すべての疾病が理解され、治療できる時代が来る、と。

これは、第5-6回で見た「分子で生命を捉える」認識のOSの最終的な勝利に見えた。ロックフェラー財団のWeaverが1938年に造語した「分子生物学」、ワトソン・クリックが1953年に切り拓いた道、コーエン・ボイヤーが1972年に確立した編集技術——これらすべての到達点が、2003年のヒトゲノム解読だった。

だが、それから20年あまりが経った今、私たちは何を知ったのだろうか。

驚くべきことに、ヒトゲノム解読が示したのは、「ゲノムだけでは生命は分からない」という結論だった

ヒトの遺伝子の数は、当初の予想を大きく下回って、約2万から2万5千個しかなかった。これは、線虫(C. elegans、ヒトと比べて極めて単純な動物)の遺伝子数(約2万個)とほぼ同じだ。遺伝子の数は、生命の複雑さを決定しない

そして、ゲノム上の 「機能を持つ遺伝子コード領域」は、全体のわずか1.5%だった。残りの98.5%は、当初は「ジャンクDNA(ゴミDNA)」と呼ばれていた——機能がないと考えられていた。だが、後の研究で、この「ジャンク」のかなりの部分が、遺伝子発現の制御や、染色体構造の維持、進化的な役割を担っていることが分かってきた。

さらに、同じゲノムを持つ細胞が、神経細胞・筋肉細胞・皮膚細胞・免疫細胞へと分化する。同じ DNA から、まったく違う「身体の地図」が立ち上がる。これを決めているのは、DNA そのものではなく、その上に書き込まれた「修飾」のパターン——エピジェネティクスである。

そして、ヒトの身体の中には、ヒト細胞よりも多くの細菌細胞が存在する。マイクロバイオーム——腸内、皮膚、口内、その他の部位に住む数兆の微生物が、ヒトの代謝・免疫・気分・脳機能にまで影響を与えている。「私」は、純粋な「ヒト」ではなく、微生物との共生体だった。

ポストゲノム時代の生命科学が辿り着いたのは、「分けて、固定して、還元する」という20世紀的アプローチでは捉えきれない世界である。生命は、ゲノムと環境とマイクロバイオームと歴史が絡み合った、関係性の網として現れる。

第9回では、このポストゲノム時代の認識のOS の地殻変動を辿りたい。ゲノム決定論の終わりが何を意味し、それがどんな新しい問いを生んだのかを見ていく。

そして、ここで重要な点を予告しておきたい。この変動が指し示す方向は、東洋医学・東洋思想がずっと語ってきたものと、深く呼応する。次回・第10回(最終回)では、その合流点を扱う。本章は、その伏線である。

そして驚くべきことに、第3回で見たハーネマン・スティル・ロルフの代替医療の系譜が直観していた身体観——「身体は1つのユニットである」「自己治癒力」「全体性のネットワーク」——が、ポストゲノム時代の生命科学で科学的に再評価されつつある。19世紀末に主流が「疑似科学」として追放した直観の中に、現代生命科学が辿り着いた認識が含まれていた。これも、本章の重要な隠れた主題の一つである。

Block 1:エピジェネティクスの再評価──Waddington の谷の半世紀

ポストゲノム時代の最初の重要な発見は、エピジェネティクスである。

エピジェネティクス(epigenetics)——「遺伝子の上にある(epi-)」を意味するこの言葉は、DNA配列を変えずに遺伝子発現を制御する仕組みを指す。DNAメチル化、ヒストン修飾、ノンコーディングRNA——これらの分子的な「印」が、遺伝子のオン・オフを決めている。

しかし、エピジェネティクスという概念は、実はヒトゲノム時代よりもずっと古い

1957年、英国の発生生物学者コンラッド・ウォディントン(Conrad Waddington)が提示した有名なメタファーがある。Waddingtonの谷(epigenetic landscape、エピジェネティック地形)——丘の頂上に置かれたボールが、複数の谷へと転がり落ちていく地形図である。ボールは細胞、谷は最終的な細胞分化の運命(神経細胞・筋肉細胞・皮膚細胞など)。

ウォディントンが伝えたかったのは、シンプルだった。「同じ遺伝子から、複数の異なる細胞ができる。それは、地形の形によって決まる」。地形の形——つまりエピジェネティック制御——が、ゲノムからの細胞分化を決めている。

ウォディントンの洞察は、当時の生物学から見ると早すぎた。1957年時点では、DNA二重らせんが発見されてからまだ4年。遺伝子発現の制御メカニズムは、ほとんど何も分かっていなかった。

そして、ウォディントンの「谷」は、半世紀近く忘れ去られた

20世紀後半の主流の生物学は、「DNA決定論」——ゲノム情報が生命を決めるという認識のOS——に支配されていた。1953年のワトソン・クリックの DNA二重らせん発見以後、研究の焦点は遺伝子そのものに集中した。「DNA → RNA → タンパク質」というセントラルドグマが、生命を理解する基本枠組みになった。

エピジェネティクスは、その流れの中で「派生的なテーマ」として扱われた。研究者は少数で、論文も少なかった。

だが、21世紀に入ると、状況は劇的に変わる。

第7回で語った山中伸弥のiPS細胞(2006年)は、Waddingtonの谷を逆走できることを示した。たった4つの転写因子を入れるだけで、分化した皮膚細胞は、再びES細胞と同じ多能性を獲得する。「地形」は固定されたものではなく、書き換え可能だった

そしてエピジェネティクスは、急速に研究の中心テーマへと押し上げられていく。

双子研究は、衝撃的な事実を明らかにした。一卵性双生児——同じゲノムを持つ二人——でも、年齢を重ねるほど、健康状態・性格・かかる病気が違ってくる。それは、生活環境がエピジェネティック修飾に違いを生むからである。遺伝子は運命を決めない。同じゲノムでも、環境によって異なる人生が立ち上がる。

ストレス・栄養・運動・睡眠——これらすべてが、エピジェネティック修飾を介して、遺伝子発現を変える。さらに驚くべきことに、ある種のエピジェネティック修飾は、世代を超えて引き継がれることも示されつつある。エピジェネティック遺伝——ラマルク的な「獲得形質の遺伝」が、限定的にだが、現代の生物学に再登場した。

ウォディントンの「谷」は、半世紀の沈黙を経て、生命科学の中心舞台に戻ってきた。主流から外れていた概念が、ポストゲノム時代に主流へと書き換わる——これは第7回・第8回で見たパターンと同じ構造である。

そして、エピジェネティクスは、ある重要な認識転換を示している——「先天と後天は分けられない」。遺伝子(先天)と環境(後天)は、互いに影響し合いながら、生命を共構築している

これは、東洋医学が長く語ってきた「先天の精と後天の精」の概念と、深く呼応する。第10回でその意味を扱う。

Block 2:マイクロバイオーム──「私」は微生物との共生体

ポストゲノム時代の二つ目の重要な発見は、マイクロバイオームである。

長い間、医学は微生物を「」として見てきた。19世紀のパスツール・コッホ以来、感染症との戦いは「ヒト vs 細菌」の構図で語られてきた。抗生物質の発明は、その戦いの勝利を象徴していた。

だが、21世紀の研究が明らかにしたのは、ヒトの身体は数兆の微生物との共生体だという事実である。

腸内に住む細菌は、約40兆——これはヒト細胞の総数(約30兆)を上回る。細胞数で見れば、私たちは「半分以上が微生物」である。腸内だけでなく、皮膚、口内、鼻、生殖器——身体のあらゆる表面に、特有の微生物群集(マイクロバイオーム)が住んでいる。

そして、これらの微生物は、ヒトの生命維持に不可欠な役割を果たしている。

消化と栄養:腸内細菌は、ヒトの酵素では分解できない食物繊維を発酵させ、短鎖脂肪酸を生成する。これは腸の細胞のエネルギー源になり、全身の代謝を調節する。

免疫:腸内細菌は、免疫系の発達と調節に決定的な役割を果たす。マウスの実験で、無菌環境で育てたマウス(マイクロバイオームを持たない)は、正常な免疫系を発達させられないことが示されている。

脳と気分脳腸相関(gut-brain axis)——腸内細菌は、迷走神経や血流を介して、脳の機能と気分にまで影響を与える。うつ病・自閉症・パーキンソン病などの神経系疾患が、腸内細菌の状態と関連していることが分かってきた。

代謝と肥満:腸内細菌のバランスは、肥満・糖尿病・心血管疾患のリスクに影響する。痩せたマウスから肥満マウスへの便移植実験で、肥満が「移植された」ことが示されている。

そして、これらの発見が示しているのは、「私」と「環境」の境界が曖昧になるという事実である。私の腸内に住む細菌は、私の食事・ストレス・抗生物質使用によって変化する。逆に、その細菌の状態は、私の免疫・代謝・気分に影響を与える。「私」は閉じた個体ではなく、絶えず環境と物質・情報を交換する開いたシステムである。

これは、ポストゲノム時代の生命観の中核を成している。生命は、関係性の中にしか存在しない

そして、ここでもう一つ、東洋医学との深い呼応が見える。経絡・気血という東洋医学の概念は、身体を「閉じた個体」ではなく、「環境と気が流れる通路」として捉えてきた。21世紀の生命科学が辿り着いた「身体は環境との連続体」という認識は、東洋医学が何千年も前から語ってきたことと、構造的に同じ場所にある。

Block 3:古代DNA──Pääbo の革命と「人間とは何か」

ポストゲノム時代の三つ目の重要な発見は、古代DNA研究である。これは、「私たちは何者か」という根源的な問いを、新しい角度から照らした。

主役は、スバンテ・ペーボ(Svante Pääbo)——スウェーデン出身の遺伝学者である。

ペーボのキャリアは、極めて特異だった。1955年スウェーデン生まれ。ウプサラ大学で医学・分子生物学を学ぶ。だが、彼は学生時代から「死んだ生物のDNAを読めるか」という問いに取り憑かれていた。

これは、当時の主流から見れば「馬鹿げた問い」だった。DNAは、生物が死ぬと急速に分解する。古い化石や骨から DNAを取り出すなど、不可能と考えられていた。

しかし、ペーボは諦めなかった。学生時代、彼はこっそりと——指導教官に内緒で——夜中に研究室に残って、エジプトのミイラから DNA を抽出する実験を行っていた。

1985年、彼は世界で初めて、2400年前のエジプトのミイラから DNA配列を読むことに成功した。論文は Nature 誌に掲載された。だが、後にこの結果には現代のDNA汚染が含まれていたことが分かる。古代DNA研究は、極めて困難な技術的課題に直面していた。

それでもペーボは粘り強く方法論を改良し続けた。汚染を完全に排除する手法短い断片化された DNA を扱う技術次世代シーケンシングの応用——彼は古代DNA研究という分野を、ほぼ一人で築き上げた。

1997年、彼はドイツ・ライプツィヒのマックスプランク進化人類学研究所の創設ディレクターに就任した。マックスプランクはドイツの優れた研究機関だが、進化人類学という分野は、英米の主流の生命科学からは離れたヨーロッパの辺縁にあった。

そしてペーボはここで、生命科学史を書き換える発見を成し遂げる。

2010年5月、Science誌——ペーボのチームは、ネアンデルタール人ゲノムのドラフト配列を発表した。4万年前に絶滅した別の人類の遺伝子情報が、初めて読み解かれた。

そして衝撃的な結果が含まれていた。現代人の中には、ネアンデルタール由来のDNAが残っている。アフリカ以外の集団(ヨーロッパ人、アジア人)は、ゲノムの1-4%がネアンデルタール起源である。

これは何を意味するか。

現代人の祖先(Homo sapiens)は、アフリカを出てユーラシアに広がる過程で、ネアンデルタール人と交雑した。両者は、それぞれ別種として分岐した後も、子孫を残す関係を持っていた。ネアンデルタール人は4万年前に「絶滅」したが、その遺伝子は今も私たちの中に生きている。

そして同年2010年、ペーボのチームはもう一つの衝撃的な発見を発表した。シベリアのデニソワ洞窟から見つかった、ぶどうの種ほどの大きさの指の骨片——わずかなDNAを抽出して解析したところ、それはネアンデルタール人とも現代人とも違う、第三の人類だった。「デニソワ人」と名付けられた、それまで知られていなかった人類である。

そして、現代のメラネシア人やアボリジニのゲノムには、デニソワ人由来のDNAが4-6%含まれていることが分かった。アジアやオセアニアの広い地域で、Homo sapiensとデニソワ人は交雑していた。

ペーボは2022年、ノーベル医学生理学賞を受賞した。彼が築いた古生物ゲノム学(paleogenomics)は、まったく新しい学問分野になった。

そして、ペーボの発見が突きつける根源的な問いがある——「人間とは何か」

20世紀の人類学は、ホモサピエンスを「他の人類とは別種、独自に進化した」と考えていた。だが、古代DNAは別の物語を語る。私たちはネアンデルタール人やデニソワ人との交雑の産物である。私たちのゲノムには、絶滅した別の人類の痕跡が刻まれている。

そして、それは単に「過去の遺物」ではない。2020年、ペーボとフーゴ・ゼベリは衝撃的な発見を発表した——COVID-19の重症化リスクを高める遺伝子変異が、ネアンデルタール由来である。私たちの祖先がネアンデルタール人と交雑した4-5万年前の出来事が、現代の感染症の重症度を決めている。過去は、私たちの中で生きている

これは、生命観に根本的な転換を迫る発見である。「人間」というカテゴリーは、固定された境界ではない私たちは、複数の人類の交雑から生まれた、ハイブリッドの存在である。閉じた集団ではなく、開かれた連続体としての「人間」——ペーボはこれを実証した。

そして、この認識は、東洋思想の「縁起」と深く呼応する。すべての存在は、関係の中で生じる。独立して存在するものは何もない——仏教のこの根本的な洞察を、ペーボのゲノム研究は科学的に裏付けている。

Block 4:身体改変の時代──Deisseroth、Neuralink、AGI

ポストゲノム時代の生命科学は、「生命を理解する」だけでなく、「生命を制御する」段階に進んでいる。第8回で扱った CRISPR・AI に加えて、脳と身体に直接介入する技術が、急速に発展している。

第8回で簡単に紹介したKarl Deisserothは、ここで再び登場する。

オプトジェネティクス(2005年)は、彼の最初の発明だったが、その後も Deisseroth は脳研究の革新を次々と進めてきた。CLARITY——脳組織を透明化し、3次元的に観察する技術。FLASH——神経活動の高速イメージング。これらは、脳という最も複雑な器官を、前例のない精度で見ることを可能にした。

そして、これらの技術が向かう方向は、精神医学の根本的な書き換えである。鬱病、不安障害、自閉症、統合失調症——これらの精神疾患を、特定の神経回路の異常として理解し、治療する道が開かれつつある。Deisseroth は精神科医であり、彼の研究は最終的には臨床への応用を目指している。

これは、東洋医学的な「心身一如」の視点を、現代科学が再発見している過程でもある。心の問題と身体の問題は、分けられない——神経科学・免疫学・内分泌学が統合される時代に、私たちは入っている。

しかし、身体を制御する技術は、Deisseroth のような理解と治療を目指すものだけではない。

Elon Musk の Neuralinkは、別の方向を向いている。脳に電極を直接埋め込み、コンピュータと接続する——これによって、人間の認知能力を物理的に拡張することを目指す技術である。

Neuralink は2024年に、初めて人間の脳への電極埋め込みを実施した。マスクは、これによって麻痺患者がコンピュータを操作できるようになること、最終的には人間の知能と AI の融合が可能になることを目指している。

ここに、新しい倫理的問いが立ち上がる——「身体改変はどこまで許されるか」

CRISPR が問題化したのは、遺伝子レベルでの身体改変だった。Neuralink が問題化するのは、脳神経レベルでの身体改変である。第8回で見たアシロマ・ナパの自己規律の系譜は、こうした新技術にも適用されつつあるが、追いついていない

2017年、AI 研究者たちは「アシロマAI原則」を策定した。23の原則を通じて、AI 開発の倫理的指針を提示している。Demis Hassabis もこの会議に参加していた。これは、生命科学のアシロマ会議(1975)の精神を、AI に拡張する試みである。

だが、ここでも規模と速度の問題が現れる。AI 開発は、規模が大きく、速度が速い。自主規制が機能する条件を超えている——これは第8回で見た賀建奎事件と同じ構造である。

ポストゲノム時代の認識のOS は、「生命を制御できる時代」を生んだ。だが、その制御をどこまで、誰が、何のために行うか——この問いに対する答えを、私たちはまだ持っていない。

Block 5:システム生物学と統合的視点

ポストゲノム時代の最後の特徴は、システム生物学の台頭である。

20世紀の生物学は、「還元主義」——生命を構成要素に分解し、各要素の働きを理解する——を基本的な方法論としてきた。タンパク質、遺伝子、シグナル経路——これらを個別に研究することで、生命を理解しようとした。

だが、ポストゲノム時代は、この限界を露呈させた。全体は部分の合計ではない。10万種類のタンパク質、2万個の遺伝子——これらがどう相互作用し、どうネットワークを作り、どう創発的な性質を生むかを理解しなければ、生命は分からない。

これは、第1回プロローグで紹介したドラッカーの言葉と完全に呼応する。

物理的な現象では、全体は部分から成り、かつ部分の合計に等しい。したがって、分析によって理解することが可能である。しかし、生物的な現象には、部分はなく、すべて『全体』である。部分を合計したところで全体とはならない

ドラッカーが1989年に書いたこの洞察を、ポストゲノム時代の生物学は実証している。システム生物学——生命をネットワークとして捉え、創発的な性質を理解する——は、21世紀の生命科学の中核的な方法論となりつつある。

そして、ここで重要な認識転換がある。20世紀の還元主義生物学が依拠したのは、主に演繹(既知の法則から必然的結論を導く)と帰納(多数の観察から一般法則を導く)だった。だが、ポストゲノム時代の生命科学が要求するのは、アブダクション(観察事実から最ももっともらしい仮説を立てる)と能動的推論(仮説に基づいて行動し、予測誤差から学習する)である。なぜなら、関係性のネットワークとして現れる生命は、演繹だけでは予測できず、帰納だけでは網羅できないからだ。未知の現象に対して仮説を立て、行動と検証で修正していく——これが、ポストゲノム時代の科学的方法論の中核である(認知科学の3つの脳の使い方を参照)。これは、第7回で見た利根川 vs レーダーの戦いが示した認識構造と、まったく同じものである。

神経免疫学は、その典型例である。神経系・免疫系・内分泌系——これらは20世紀の医学では別々の学問領域だった。しかし、これらが密接に相互作用していることが明らかになった。ストレスは免疫を低下させ、感染症は脳機能を変え、ホルモンは神経活動を制御する。心身一如——東洋医学が古くから語ってきたこの統合的視点を、現代科学が再発見している。

ポリヴェーガル理論(Stephen Porges、1994年)は、自律神経系の新しい理解を提示した。従来の「交感神経 vs 副交感神経」の二元論ではなく、腹側迷走神経・背側迷走神経・交感神経という三層構造で自律神経を捉える。この理論は、呼吸・姿勢・対人関係が、神経系の状態にどう影響するかを統合的に説明している。これは、ヨガ・瞑想・ロルフィングといった身体実践の科学的基盤を提供している。

慢性炎症と老化:21世紀の老化研究は、老化が「単なる時間経過」ではなく、慢性的な炎症の蓄積であることを明らかにした。これは、未病という東洋医学の概念と深く呼応する。病気と健康の間に、「病気の前の状態」がある——東洋医学の数千年の知恵が、現代の生命科学で確認されつつある。

これらの発見すべてが指し示すのは、生命を「分けて分析する」だけでは捉えきれないという事実である。関係性、ネットワーク、創発、統合——21世紀の生命科学のキーワードは、ことごとく「分けられない」を指している。

Block 6:ポストゲノム時代の認識のOS──分けられない世界へ

第9回をまとめよう。

20世紀の生命科学が辿り着いた頂点は、ヒトゲノム解読(2003年)だった。それは、生命を究極まで分解して理解するという還元主義的アプローチの完成形だった。

だが、その完成と同時に、還元主義の限界が見えてきた。

遺伝子だけでは生命は分からない——エピジェネティクスが示した。
個体だけでは生命は分からない——マイクロバイオームが示した。
現在だけでは人間は分からない——古代DNAが示した。
部分だけでは全体は分からない——システム生物学が示した。

ポストゲノム時代の生命観の中核は、「分けられない」である。

20世紀の認識のOSポストゲノム時代の認識のOS
遺伝子は運命を決める遺伝子と環境は不可分に絡む(エピジェネティクス)
「私」は閉じた個体「私」は微生物との共生体(マイクロバイオーム)
ヒトは独自の種ヒトは複数の人類の交雑の産物(古代DNA)
還元主義(分けて分析)システム的視点(関係性・ネットワーク)
心と身体は別心身一如(神経免疫学・ポリヴェーガル理論)
病気と健康は二分法連続体・未病(慢性炎症と老化)

そして、これらの新しい認識のOS は、東洋医学・東洋思想がずっと語ってきたことと、構造的に深く呼応している。

ポストゲノム時代の生命科学東洋医学・東洋思想
環境が遺伝子発現を変える先天と後天が共に身体を作る
身体は微生物との共生体経絡・気血、環境との連続性
神経・免疫・内分泌は統合心身一如
呼吸が自律神経を変える調息・調心の伝統
慢性炎症と老化未病
関係性として現れる生命縁起

西洋還元主義は、自分の限界を超えていく過程で、東洋的視点に近づいている

これは、第1回プロローグで提示した命題の証明である——物理学が辿った道を、生命科学は再演している。哲学シリーズ④「相対論と量子論が証明したこと」で見たように、20世紀物理学は、デカルト以来の主観・客観の枠組みを実験で崩した。観測系のあり方が現実を決める——という認識へ到達した。

そして21世紀の生命科学も、同じ場所に到達しつつある。分けられない関係性の中にしか存在しない——これが、ポストゲノム時代の生命観である。

エピローグ──次回、合流点へ

第9回を閉じるにあたって、シリーズ全体の弧を最後に確認したい。

第1-2回:17-19世紀までの生命観の哲学的地基。生気論 vs 機械論。
第3回:19世紀後半から20世紀の代替医療(ホメオパシー・オステオパシー・ロルフィング)。
第4回:19世紀の進化論。ダーウィン・メンデル、博物学と帝国主義。
第5-6回:20世紀の革命。物理学者の侵入、DNA二重らせん、組換えDNA、アシロマ会議、ロックフェラー財団。
第7-8回(中央の山場):20-21世紀の傍流たちが、細胞・遺伝子・知能のOS を書き換えた物語。利根川・本庶・山中、Doudna・Charpentier、Hassabis。
第9回(本章):ポストゲノム時代の認識のOS の地殻変動。「分けられない」への到達。

そして、シリーズの最終章である第10回で、私たちは合流点に至る。

還元主義の先にあるもの——西洋還元主義が辿り着いた地点が、東洋医学・東洋思想がずっと語ってきたものと、いかに深く呼応するか。これを、姉妹章である哲学シリーズ④の論理を引き継ぎながら、生命科学の言語で語り直す。

そして、私自身——製薬研究20年からロルファー10年へと越境した者——の経験を、最終的にシリーズ全体の中でどう位置づけるかも、第10回で語りたい。

生命は、関係性の中にしか現れない身体は、環境との連続体である「私」は、固定された個体ではなく、絶えず生成される流れである——これは、私が製薬研究の中では学ばず、ロルファーの実践の中で身体で知ったことだった。

そして、それは現代の生命科学が、ようやく到達しつつある場所でもあった。

第10回でお会いしましょう。

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関連する既存記事:

主要参考文献:

  • Svante Pääbo『Neanderthal Man: In Search of Lost Genomes』(Basic Books, 2014年)
  • Stephen Porges『The Polyvagal Theory』(Norton, 2011年)
  • Carlo Rovelli『世界は「関係」でできている──美しくも過激な量子論』(NHK出版、2021年)

前回:⑧ プログラマーたち──CRISPR・AI・自己規律の系譜
次回:⑩ 還元主義の先にあるもの──東洋との対話、これから

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