1. HOME
  2. ブログ
  3. ブログ/全ての記事
  4. コラム
  5. 30年ぶりの奈良、そこに戒壇があった(前編)── 東大寺・興福寺・元興寺を歩く
BLOG

ブログ

コラム

30年ぶりの奈良、そこに戒壇があった(前編)── 東大寺・興福寺・元興寺を歩く

問いを立てた六日後に、現地へ行った

先日、2026年後半の読書テーマについて書いた。中世仏教を、比叡山という組織と、仏教が日本語に残したものと、日本のサイエンス思考という三つの問いから読んでいく、という宣言のような記事である。

比叡山という組織、仏教という言語 ── 2026年後半、中世仏教を読む

その記事の最後に、こう書いた。テキストで読み、土地を歩き、身体で確かめる。この三つを重ねながら半年をかけたい、と。

書いた六日後に、歩くほうをやってきた。2026年7月25日と26日、急に思い立って早朝の新幹線に乗り、奈良を一日かけて回った。

興福寺と東大寺を訪ねるのは、1994年から96年にかけて奈良に住んでいた頃以来になる。大学院修士課程の二年間、近鉄の学園前駅の近くに部屋を借りていた。ざっと三十年ぶりということになる。

大仏殿へ向かう参道も、南大門の仁王像も、興福寺の五重塔も、記憶のなかの風景とほとんど変わっていなかった。変わっていないのは向こうであって、自分だけが30年ぶんの時間を持って戻ってきた。そういう感覚になる。若い頃には素通りしていたものの前で、今回は自然と足が止まった。同じ場所でも、見えるものはずいぶん変わる。

変わったものは一つだけ、はっきりしている。読んだかどうかである。

この前編では、1日目に歩いた興福寺・元興寺・奈良国立博物館・東大寺を、「仏教はどのようにして日本に根を下ろしたのか」という一本の線でつないでみたい。

興福寺 ── 最澄が生涯かけて戦った相手の、実物

最澄は、南都の仏教界と生涯かけて戦い続けた人である。その”南都”の実体が、この境内だった。

興福寺の起源は、669年、藤原鎌足の病気平癒を願って建てられた山階寺にさかのぼる。それを710年の平城遷都にあたって現在地へ移し、興福寺と号したのが藤原不比等である。つまりこの寺は、はじめから藤原氏の氏寺として出発している。

同時に、ここは法相宗の中枢でもあった。玄奘がインドから持ち帰った唯識の教学が、慈恩大師基を経て、道昭・義淵といった僧を通じて日本に入り、この寺に根を下ろす。

この二つの性格が重なっていることが、後の話を決めてしまう。

最澄と数年にわたって論争した徳一——三一権実論争の相手——も、この法相の学統に立つ僧である。あの論争を「二人の一騎打ち」として読むと、本質を外す。最澄が相手にしたのは徳一という個人ではなく、この寺が背負っていた数百年ぶんの学問と、藤原氏という権力の厚みだった。境内に立って、その規模を目で測ると、それが実感として入ってくる。文字の上では「南都」という二文字だったものが、面積と質量を持つ。

見どころとしては、光明皇后が母・橘三千代の一周忌に建立した西金堂の八部衆——阿修羅像はその一つである——がやはり圧倒的だった。

もう一つ、東金堂の薬師如来をめぐる話が面白い。もとの本尊は、1187年に興福寺の僧兵が山田寺から奪ってきたものだった。それが1411年の火災で焼け、頭部だけが残る。いま国宝館にある「仏頭」がそれだ。堂の本尊は三代目にあたる。ところが両脇侍の日光・月光菩薩は、山田寺から来たものがそのまま残っている。一つの厨子のなかに、盗まれてきた由来と、焼け残った時間と、作り直された時間が同居している。寺というのは、こういう地層である。

元興寺 ── 「曼荼羅」という一語が、二つの別物を指している

そこから、ならまちの元興寺へ向かって歩いた。

元興寺は、飛鳥にあった法興寺(飛鳥寺)を平城京へ移したものである。極楽坊本堂と禅室の屋根には、飛鳥時代の瓦が今も葺かれている箇所がある。日本最古級の屋根瓦が、屋外で現役のまま雨を受けている。

ここで目を奪われたのが、智光曼荼羅だった。奈良時代の僧・智光が感得した浄土の姿を描いたと伝わるもので、源信の『往生要集』よりも前の、古い浄土信仰にあたる。

このとき、空海の両界曼荼羅と、なぜこんなに違うのかという素朴な疑問が出てきた。

答えを整理すると、そもそも「曼荼羅」という同じ言葉が、まったく別の二つのものを指している。

智光曼荼羅は、行きたい場所の絵である。極楽という場所が向こうにあって、そこへ生まれたいと願う人が見るための図だ。一方、空海が唐から持ち帰った両界曼荼羅は、宇宙の構造図である。仏の世界がどう構成され、自分がその体系のどこに位置するかを示す。願望の対象と、認識の地図。同じ絵画形式に見えて、機能がまるで違う。

これは、仏教が日本語に何を残したのか、という問いと同じ場所で起きていることと同じように思う。私たちは「曼荼羅」を、なんとなく一つの語として受け取っている。しかし実際には、一語のなかに二つの異なる働きが折り畳まれている。「自由」という語が、権利としての自由と囚われのない心の状態を同居させているのと、構造は同じだ。仏教語彙は、日本語に語を残しただけでなく、こういう複数の意味を残した。

その複数の意味が、一枚の板絵として目の前にあった。ならまちの一角の小さな堂で、これに気づけたのは収穫だった。

奈良国立博物館 ── 線で描かれた身体

今回、タイミングよく特別展「南都仏画 ── よみがえる奈良天平の美」に触れることができた。ボストン美術館からの里帰り品を含む大規模なもので、フェノロサや岡倉天心の名前が、この博物館の前身の設立とも重なって出てくる。

仏像ではなく仏画を大量に見たことで、思いがけない角度が開けた。奈良時代から鎌倉時代にかけて、日本人は人や身体をどのように見ていたのか?である。

ロルフィングの仕事をしている立場から言えば、これは他人事ではない。彫刻の身体は、理想化された比率として立体に固定されている。対して仏画の身体は、線として引かれる。肩の落ち方、指の反り、衣の下にある量感の示し方——線一本の判断に、描き手が身体をどう捉えていたかが出る。その繊細さが、時代とともに変わっていく。

以前、西洋絵画史をたどりながら「身体がどう描かれてきたか」を追った時期があったが、あのとき西でやったことを、三十年近く経って東側からやり直している格好になった(詳細は下記のブログを参照)。

絵画史と身体(1)〜西洋絵画史からみる身体の見方

東大寺 ── 鎮まらないものを鎮めるということ

そして東大寺である。

大仏殿の前に立つとき、以前とは違う見え方をした。あの大仏は、国家事業の記念碑であると同時に、鎮魂の形でもある。

奈良時代を追っていくと、政変で葬られた人物の霊への畏れが、そのまま仏教の受容と結びついていく様子が見えてくる。

729年、天武天皇の孫である長屋王が謀反の疑いをかけられ、自害に追い込まれた。密告は虚偽だったとされ、藤原氏が権力を握るための策謀と受け止められた。その八年後、都を天然痘が襲い、藤原四兄弟が相次いで世を去る。人々はそこに長屋王の祟りを見た。

さらに740年、四兄弟の一人の子である藤原広嗣が九州で兵を挙げて敗死すると、聖武天皇は平城京を離れ、恭仁京・紫香楽宮・難波宮と、五年にわたって都を移し続ける。この彷徨の背景にも、広嗣の霊への畏れがあったといわれる。

そして、その彷徨の果てに発せられたのが、国分寺・国分尼寺の詔であり、盧舎那仏造立の詔だった。743年に発願され、752年、インド出身の僧・菩提僊那を導師として開眼供養が行われる。造立の勧進には行基が動員され、初代別当には良弁が就いた。

疫病、飢饉、内乱。鎮護国家という言葉は教科書的だが、その内実は、制御できないものを前にして、国家が持ちうる最大の装置を作ろうとしたということである。そう読むと、大仏殿の前に立ったときの感触が変わってくる。

もう一つ、この寺には別の凄みがある。東大寺は、三度、建て直されている。

創建したのは良弁。1180年、平重衡の南都焼討で焼け落ちたものを鎌倉に再建したのが重源。江戸期にもう一度再建したのが公慶である。いま見る大仏殿は公慶のもので、南大門は重源のもの、寺そのものは良弁のもの。南大門の金剛力士像は、重源の再建事業のなかで運慶・快慶らが1203年に造った。

同じ境内に、三つの時代の再建が積み重なっている。一つの寺を歩きながら、奈良・鎌倉・江戸を横切っていることになる。

戒壇院 ── 六日前に立てた問いの、答えがあった場所

今回はじめて見ることができたのが、戒壇院の戒壇堂である。

正直に言えば、30年前は存在すら意識していなかった。大仏殿の西側の、目立たない一角にある。しかし読書を経た今回、ここがこの旅でいちばん重要な場所になった。

師茂樹『最澄と徳一』を読み終えたとき、私の関心は思想の中身よりも、彼らが立っていた土俵の成り立ちのほうへ向かっていた。なぜ戒壇がそれほど重かったのか。この制度は、そもそも誰が作ったのか。その問いが永井路子『氷輪』を呼び、計画になかった一冊が読書のほうから来た。そう書いた6日後に、当の戒壇の前に立っていたことになる。

答えは、はっきりしている。ここは、日本に正式な僧侶が誕生した地点だからである。

仏教が伝わってから200年、日本には決定的に欠けているものがあった。正式な授戒ができる師がいなかった。戒律の規定では、僧になるには三師七証——授戒の師三人と、立会いの僧七人——が必要になる。それができる集団が日本にいない。だから、日本の僧は正式な受戒を経ていない、いわば自己申告の僧だった。得度せずに私に僧を名乗る私度僧も膨大にいた。

これは信仰の問題であると同時に、行政の問題でもある。僧は税を免除される。誰が僧かを国家が確定できなければ、制度が成り立たない。

だから鑑真を招いた。招くために二人の若い留学僧が唐へ渡り、鑑真は五度の渡航失敗と失明を経て、十年余りをかけて753年に到着する。

翌754年、鑑真は東大寺大仏殿の前に壇を築き、聖武上皇・光明皇太后らに戒を授けた。翌年、(東大寺に)常設の戒壇院が建てられる。

ここが、日本において「僧である」ということが制度化された。

そして、この事実がある。

785年、19歳の最澄が、この同じ戒壇で具足戒を受けている。

彼はその三か月後に比叡山へ籠もり、およそ40年後、この戒壇の権威から独立することに生涯を賭けることになる。私は最澄を、思想家としてではなく「場の設計者」として読みたいと思っている。その設計が何から離れるための設計だったのかは、この石段の上に立ってはじめて具体的な大きさを持った。

30年前、私はこの前を見逃していた。仏教についての知識がなかったからである。

鹿と、暑さと、体力のこと

驚きは、春日大社のある奈良公園の鹿だった。びっくりするほど多く、暑さのなかで木陰にのんびりしている。人間のほうが消耗していた。

興福寺、元興寺、奈良国立博物館、東大寺。一日でよく歩いた。回り方はClaudeに相談しながら決めたので、動線の無駄がほとんどなかった。

8月22日から25日にかけて、四国へ行く予定でいる。徳島の剣山を越えて、香川の善通寺——空海の生まれた土地——へ向かう。今回はその予行演習としても、ちょうどよかった。体力をつけなければならない。

後編では、二日目に訪ねた唐招提寺と薬師寺を扱う。主題は、この前編の最後に置いた戒壇から始まる。鑑真が何を渡し、最澄が何から離れたのか。そして、継承と独立という同じ動きが四度繰り返されたあと、最後に戻る人が出てくる、という話をしたい。

→ 三十年ぶりの奈良、そこに戒壇があった(後編)── 唐招提寺と薬師寺


参考

  • 特別展「南都仏画 ── よみがえる奈良天平の美」奈良国立博物館
  • 永井路子『美貌の女帝』
  • 永井路子『氷輪』(上・下)
  • 井上靖『天平の甍』
  • 司馬遼太郎『空海の風景』
  • 師茂樹『最澄と徳一 ── 仏教史上最大の対決』

関連記事