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細胞のOS の書き換え──遺伝子は固定されていなかった

カテゴリ:生命観の変遷シリーズ【第7回】/ 2026年

【生命観の変遷シリーズ】全10回(予定)

※本シリーズでは、議論の流れと構造の把握を優先するため、文中の敬称は適宜省略している。


三人の日本人研究者が書き換えたもの

第5-6回で、私たちは20世紀の分子生物学の革命を辿った。シュレディンガー・デルブリュックの侵入、ワトソン・クリックのDNA二重らせん、コーエン・ボイヤーの組換えDNA、アシロマ会議、Karikóの30年、ヒトゲノム計画——「分子で生命を捉える」認識のOSが、確立されていった。

そして、その認識のOSを土台にして、20世紀後半から21世紀初頭にかけて、三人の日本人研究者が、細胞をめぐる認識のOS を書き換えた。

利根川進は1987年、抗体多様性の謎を解いてノーベル賞を受賞した。本庶佑は2018年、PD-1の発見でノーベル賞を受賞し、がん治療を根本から変えた。山中伸弥は2012年、iPS細胞の発明でノーベル賞を受賞し、「細胞は時間を巻き戻せる」ことを示した。

利根川進は京都大学理学部化学科出身、本庶佑は東京大学医学部出身、山中伸弥は神戸大学医学部出身——三人のうち二人が医師であり、一人が理学部出身。だが、それ以上に重要な共通点がある。

三人とも、最初は傍流から始めた。そして「先を越されてから、別の道を開拓する」ことで、認識のOS の書き換えに到達した

このシリーズの中央前半となる第7回では、この三人の物語を辿りたい。彼らが体現したのは、単なる生命科学の進歩ではない。主流の認識のOS が傍流によって書き換えられるという、シリーズ全体を貫くパターンの現代版である。第3回で見たハーネマン・スティル・ロルフ、第4回のダーウィン・メンデル、第5回のシュレディンガー・デルブリュック・ワトソン・クリック——これらすべての系譜の延長線上に、利根川・本庶・山中はいる。

そして、ここで一つ告白しておきたい。私自身も奈良先端科学技術大学院大学(NAIST)の修士課程に在籍していた(1994年から1996年)。山中伸弥がNAIST に着任したのは1999年——私が修了した3年後だ。だが、同じNAIST という場所で、私が修士時代に体験した独特の文化が、その後に山中さんがiPS細胞を発見する土壌でもあった。Block 4 でその意味を詳しく語りたい。

Block 1:1970年代、抗体多様性の戦い

物語は1970年代に始まる。第6回で見た通り、1972年にコーエンとボイヤーが組換えDNA技術を確立し、1975年のアシロマ会議で生物学者たちが自己規律を引き受けた直後の時期である。生命を分子で編集する時代の幕開けと、本章の物語は同時代に進行している

舞台は二つの大陸——アメリカと、ヨーロッパ・日本。問いは100年来の謎だった。

抗体は、どうやって何百万種類もの異物を識別できるのか

人間の身体は、これまで出会ったことのない異物にも対応する。インフルエンザの新しい変異株、人工的に合成された化学物質、未知のウイルス——身体はそれら全てに対して、特異的な抗体を作り出す。だが、ヒトのゲノムには2万数千の遺伝子しかない。何百万種類もの抗体を作るための遺伝子をすべて持っているはずがない。

この矛盾をどう解くか

1970年代初頭、二つの仮説が対立していた。

ジャームライン説:実は、何百万種類もの抗体遺伝子が、生まれつきゲノムに書き込まれている。私たちはそれに気づいていないだけだ。

ソマティック説:いや、生まれつきは少数の遺伝子しかない。しかし、B細胞が成熟する過程で、その遺伝子が何らかの方法で組み換えられて、多様性を生み出している。

仮説は同じ実験データから導かれていた。違うのは、そのデータをどう解釈するかだった。

そして1971年、二人の日本人が、この問いに挑むためにアメリカに渡った。

利根川進は京都大学化学科出身、米国カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)でPhDを取得した後、1971年からスイス・バーゼルのバーゼル免疫学研究所に移った。免疫学の主流とは離れた、欧州の辺縁の研究所だった。

本庶佑は東京大学医学部出身、1971年に米国に留学した。ボルチモアのカーネギー研究所のドナルド・ブラウン博士のもとに入る。ブラウンはジャームライン説の代表的支持者だった。

ブラウンは本庶にこう語ったという。「この仮説によれば C遺伝子の数は多いはずなので、その数を測定すればよい」。そしてブラウンは、ジャームライン説の検証に最適な技術を持つ研究者として、NIH のフィリップ・レーダー博士を本庶に紹介した。

本庶はレーダーの研究室に移った。レーダーはジャームライン説の側から、抗体遺伝子の数を測定していた。

つまり、1971年時点で、本庶は「主流(ジャームライン説)の側」にいた

一方、利根川はバーゼルで、独立してソマティック説の検証を進めていた。彼は化学のバックグラウンドを持っていた。生化学の達人ではない。だが、抗体の多様性は遺伝子の組み換えから生まれるはずだ、という直観を持っていた。

1974年、カリフォルニア・スコーバレー

免疫学の国際学会が開かれた。フィリップ・レーダーが招待講演者として登壇した。彼はジャームライン説を支持する自分のデータを発表した。レーダーは当時のアメリカを代表する若き分子生物学者で、ノーベル賞を取ったマーシャル・ニーレンバーグの弟子だった。若くしてNIH の部長になった主流の代表であり、技術力では誰もが認める達人だった。

レーダーが30分の発表を終えた後、無名の若い日本人が手を挙げた。利根川進である。

学会のオーガナイザーだったウィリアムソン(彼自身もジャームライン説を支持していた)は、「3分間ならしゃべってもいい」と利根川に許した。

利根川は登壇した。そして、3分間でこう叫んだ

リーダー(レーダー)は間違っとる、ウィリアムソンも間違っとる、オレのところはこうやってこういう結果が出ている、こちらの結論が正しい

これは、後に利根川自身が立花隆との対談(『精神と物質』1990年)で語った言葉だ。30分のレーダーの講演を、3分間で叩き潰そうとした若き日本人。会場の反応は薄かったが、利根川の確信は揺るがなかった。

そして1976年、利根川は Cold Spring Harbor Laboratory(CSHL) で、決定的な実験結果を発表する。抗体遺伝子は、B細胞が成熟する過程で、V領域とJ領域が組み換えられる——ジャームライン説は誤っており、ソマティック説が正しかった。

レーダーは敗れた。本庶も「主流の側」にいた。

そして1987年、利根川進はノーベル医学生理学賞を受賞した

Block 2:利根川 vs レーダー──認識のOS の戦い

なぜレーダーは敗れたのか。

技術力では、レーダーの方が上だった。彼は生化学の達人で、当時最新のオリゴDTカラム法を使ってメッセンジャーRNAを精製していた。利根川自身も後にこう語っている。「リーダーは生化学の専門家ですからRNAの純度の大切さをもちろん知っていたし、実際にかなり純度の良いRNAを使っていた」。

実験結果も、初期段階ではほぼ同じだった。抗体遺伝子の数を測定する実験で、二人とも数百個という結果を出した。

違ったのは、そのデータをどう解釈するかだった。

利根川はそれを「遺伝子は少ない、だからソマティック説が正しい」と解釈した。レーダーは同じ数字を「これはミニマムの数字で、本当はこれ以上もっとあるはず、だからジャームライン説が正しい」と解釈した。

利根川は、立花隆との対談でレーダーが敗れた理由をこう総括している

リーダーは、ジャームライン説がずっと正しいと思ってこの研究をやってきたから、アンビギュアスな実験結果を、ジャームライン説に引きつけて解釈してしまったわけです。結局ね、サイエンスにおいては、正しい仮説に従って仕事をするのがどんなに大切かということです。間違った仮説に従ってやってると、正しいデータも間違った方向に解釈される

これは、シリーズ全体を貫く中核命題である。

間違った仮説に従ってやってると、正しいデータも間違った方向に解釈される」。

これは、私が哲学シリーズ④「相対論と量子論が証明したこと」で語ったことと、完全に同じ構造をしている。

哲学④の核心命題はこうだった。

観測系(身体)のあり方が、現れる現実を決める

物理学では、観測系が物理現象を決める。観測する装置やフレームによって、見える結果が変わる。生命科学では、認識のOS(仮説・理論・前提)が見える生命現象を決める。同じデータでも、どの認識のOS を持っているかで、解釈が180度変わる。

レーダーは、生化学の世界ではトップクラスだった。技術も精緻だった。だが彼は、「ジャームライン説が正しい」という認識のOS に縛られていた。その OS の中で見る限り、データは「ジャームライン説を支持する」ように見えた。

利根川は、化学のバックグラウンドを持っていた。免疫学の主流ではなかった。だからこそ、主流の OS から離れた場所で、別の解釈を立てることができた

認知科学の視点から見た利根川 vs レーダー

ここで、利根川の総括を認知科学の言葉で再解釈してみたい。これは、シリーズ全体の中核命題を理解する上で、決定的に重要な視点を提供する。

認知科学・脳科学の現代理論によれば、人間の脳は3つの方法で世界を理解している。

スキーマ(schema):過去の経験から構築された「意味の枠組み」。新しい情報を解釈するための前提である。
アブダクション(abduction):観察された事実に対して、最ももっともらしい仮説を立てる思考法。哲学者チャールズ・パースが提唱した「発見の論理」。
能動的推論(active inference):仮説に基づいて行動し、予測誤差から学習して仮説を修正していく脳の動的なプロセス。カール・フリストンの自由エネルギー原理に基づく。

この枠組みで、利根川 vs レーダーの戦いを見直すと、構造が鮮明に見える。

レーダーは、「ジャームライン説」というスキーマを強く持っていた。彼の指導教官ニーレンバーグの系譜、NIH の主流の文化、そして遺伝子の数を測定するという生化学的アプローチ——これらすべてが、レーダーのスキーマを強化していた。データを見たとき、彼のアブダクション(仮説生成)は、「ジャームライン説に合うように」自動的に方向づけられた。スキーマが、仮説を決めた

そして、彼が見たデータと予測との間に「予測誤差」が生じたとき——たとえば、抗体遺伝子の数が想定より少なかったとき——彼はその誤差を「実験の限界」「測定の不完全性」として処理してしまった。本来なら能動的推論は「自分のスキーマそのものを疑う」方向に脳を誘導するが、レーダーの場合、スキーマが強固すぎて、誤差をスキーマの内側で吸収してしまった。

利根川は違うスキーマ——「ソマティック説」——を持っていた。同じデータを見たとき、彼のアブダクションは別の方向に進んだ。データは、彼にとっては「ソマティック説の証拠」として現れた。

つまり、二人は同じ物理的世界を、異なる認知のOSを通して見ていた。世界は、観測者のスキーマを通じて、異なる現実として立ち上がる。

これは、哲学シリーズ④の「観測系のあり方が現実を決める」という命題の、認知科学版である。観測装置が物理現象を決めるのと同じように、スキーマが見える生命現象を決める

そして、この視点は、本シリーズで繰り返し見てきた「傍流が主流の認識のOS を書き換える」というパターンを、深く説明する。傍流は、別の場所から来るから、異なるスキーマを持っている。だから、主流のスキーマでは見えない仮説を、アブダクションで生成できる。

詳しくは、「仮説を立て、世界に働きかける──AI時代に『脳をどう使うか』②」を参照していただきたい。これは、認識のOS を理解するための、認知科学的なフレームワークを提供している。

ダーウィンも、メンデルも、ワトソン・クリックも、利根川も——本シリーズで登場した傍流たち全員が、主流とは異なるスキーマを持っていた。だからこそ、彼らは主流のスキーマでは生成できない仮説を立て、世界の見方を更新することができた。

Block 3:本庶の選択──先を越されてから

ここで、もう一人の日本人——本庶佑の話に戻ろう。

1974年のスコーバレー、そして1976年のCSHL。利根川がレーダーを敗北させたとき、本庶はどこにいたか。

本庶は1977年、レーダー研究室に3ヶ月程、クローニングの技術を習いに行っていた。彼自身、京都大学のエッセイでこう書いている。

1977年に3ヶ月程、レーダー博士のところにクローニングの技術を習いに行きました

つまり本庶は、利根川が CSHL で勝利した翌年に、敗者の側の研究室を訪れていた。レーダーが敗れたばかりの研究室で、本庶は最先端のクローニング技術を学んだ。

これは何を意味するか。

本庶は、利根川とは異なる道を選ばなければならなかった。抗体多様性の謎は、利根川によって解かれてしまった。同じ問いで勝負しても、勝ち目はない。

本庶は別の問いに向かった。クラススイッチである。

抗体は、最初に作られるときはIgMというタイプから始まる。だが、抗原の刺激によって、IgG・IgA・IgEなどの異なるクラスに変わっていく。可変領域(抗原を認識する部分)は同じまま、定常領域(細胞に作用を伝える部分)だけが切り替わる。これがクラススイッチである。

利根川が解いたのは「抗体の多様性はどう生まれるか」という問いだった。本庶が問おうとしたのは、「抗体は機能的にどう変化するか」という、その先の問いだった。

1978年、本庶はクラススイッチ組換えの基本的な概念的枠組みを確立する。これは PNAS(米国科学アカデミー紀要)に発表され、後に Nature の News & Views でも取り上げられた。

そして本庶はこの問いを、30年以上追い続けた。1999年には、クラススイッチに必須の酵素 AID(活性化誘導シチジンデアミナーゼ) を発見する。

しかし、本庶を世界的に有名にしたのは、別の発見だった。

1992年、本庶研究室は、アポトーシス(プログラムされた細胞死)に関連する遺伝子を探索していた。その過程で、ある未知の遺伝子をクローニングした。PD-1(Programmed cell Death 1、プログラム細胞死1)と名付けられたが、その機能はわからなかった

「アポトーシスを誘導する遺伝子」と期待されたが、実験結果は思うようにならなかった。

本庶はこう振り返っている——「約10年をかけて、推論と実証を積み重ねた末、PD-1経路が腫瘍免疫の負の制御因子としての役割を担うことを証明した」。

つまり PD-1 は、免疫系をブレーキする因子だった。がん細胞は、PD-1 経路を悪用して免疫からの攻撃を逃れていた。PD-1 をブロックすれば、免疫系は再びがんを攻撃できる

これが、現代のがん免疫療法(抗 PD-1 抗体「オプジーボ」など)の基礎となった。ペニシリンの発見以来の医学革命と評価される、新しいがん治療法である。

2018年、本庶佑はノーベル医学生理学賞を受賞した。

ここで、本庶の半生を振り返ってみたい。

1971年、米国留学(ジャームライン説の側へ)。
1977年、利根川の勝利の翌年、レーダー研で技術習得。
1978年、クラススイッチモデル発表(先を越されてから別の道を開拓)。
1992年、PD-1 発見(機能不明のまま)。
2002年頃、PD-1 ががん治療に応用できることを証明。
2018年、ノーベル賞。

利根川の勝利から、41年。本庶は、利根川とは違う道で、別の山を登り続けた。

ここに、シリーズ全体を貫くもう一つのパターンがある。先を越されてから、別の道を開拓する——これは、認識のOS を書き換えるための、もう一つの方法である。

Block 4:山中伸弥──失敗から開いた道

三人目の主人公、山中伸弥は、まったく違うルートで「細胞のOS」を書き換える。

山中の物語は、挫折から始まる。

1962年、大阪府東大阪市生まれ。中学・高校時代は柔道とラグビーに熱中し、骨折を10回以上経験した。その経験から、整形外科医を志した。自分のように怪我に苦しむ患者を助けたい——彼は1987年、神戸大学医学部を卒業し、国立大阪病院で整形外科の研修医となった。

ところが、彼は手術が下手だった

うまい人なら20分で終わる手術に、山中は2時間かかった。指導医は彼を「ジャマナカ(邪魔仲)」と呼んだ。「お前はほんまに邪魔や」。

犬やマウスの手術は問題なくできた。だが人間の手術となると緊張して、思い通りにできない。整形外科医として致命的な弱点だった。

山中は別の道を探した。1989年、大阪市立大学大学院に入学し、薬理学の研究を始めた。1993年に博士号を取得。米国・グラッドストーン研究所に博士研究員として渡り、ここで遺伝子改変マウスの作製技術を学んだ。

米国の環境は素晴らしかった。マウスの管理を専門にする技術者がおり、研究者は研究に集中できた。山中は3年間で、自分の研究テーマを確立し、論文を書き、再生医学の基礎を築き始めた。

1996年、日本に帰国。大阪市立大学医学部薬理学教室の助手に就任した。

そこから、山中の人生で最も暗い時期が始まる。

研究環境が、米国とは根本的に違った。マウスの管理を担当する技術者がいない。山中は500匹のマウスを一人で世話することになった。実験どころではなかった。

加えて、当時の日本の医学界では、iPS細胞のような基礎研究は重視されていなかった。「すぐに役立つ薬の研究をしないのか」と周囲から批判された。

山中は半分うつ病状態になった。本人はこの時期を PAD(Post America Depression、米国後うつ状態) と呼んだ。

整形外科医に戻ろうかと、半ば決意した。研究医より給料が良い。手術は苦手だが、生活はできる。

そんなとき、彼は科学雑誌で奈良先端科学技術大学院大学(NAIST)の助教授公募を見つけた。

どうせだめだろうから、研究職を辞めるきっかけのために」と、山中は応募した。

採用された。1999年12月、山中はNAIST 遺伝子教育研究センター動物分子工学部門の助教授に就任した。

ここで、私自身の話を少しさせていただきたい。

私(大塚英文)は、山中より数年前に、NAIST の修士課程に在籍していた。1994年から1996年——東北大学農学部・農芸化学科を卒業して、修士課程の進学先として NAIST を選んだ。NAIST は1991年に開設された、日本で最も新しい大学院大学の一つだ。教養部や学部を持たず、修士課程と博士課程だけで構成されている。「研究のための大学院」として、若手研究者や独立志向の強い研究者を多く集めていた。

NAIST の文化は、旧帝大や伝統的な大学医学部とは大きく違っていた。

第一に、分野間の垣根がほとんどなかった。バイオサイエンス研究科の中に、私のような農学・生命科学系の学生もいれば、植物バイオサイエンスの学生もいる。情報科学研究科には、コンピューターサイエンスの研究者がいる。これらが日常的に同じキャンパスで交流していた。隣の研究室がまったく違う分野ということが普通で、廊下で出会った教員と分野を超えた議論をする機会が頻繁にあった。

第二に、学閥がほとんどなかった。新設の大学院大学であるため、教授陣は様々な大学・研究機関から集まっていた。京大、東大、東工大、阪大、海外の研究所——出身もバックグラウンドも多様で、特定の学閥が支配する文化がなかった。これは伝統的な医学部や旧帝大とは決定的に違う点だった。

第三に、若い教員が多かった。新設大学であるため、教授・助教授の多くが30代後半から40代前半。彼らは独立した研究室を持って、自由なテーマで研究できた。学生から見ても、教員との距離が近く、議論がしやすかった。

第四に、修士課程に充実した授業があった。修士課程というと、伝統的にはほぼ研究中心だが、NAIST では幅広い授業が用意されていた。中でも記憶に残っているのは、星野一正先生の生命倫理の授業だ。生命科学を学ぶ修士課程で、技術倫理だけでなく生命倫理を体系的に学べる場は、当時としては画期的だった。後にゲノム編集や iPS 細胞などの倫理問題に直面する世代の研究者にとって、これは決定的な経験だった。

第五に、社会人出身の修士課程学生がいた。企業を辞めて修士に入り直す人、別分野から転換してくる人——年齢も経歴も多様な学生たちが、純粋培養の20代の学生と同じ研究室にいた。これは刺激的だった。「研究はこういうものだ」という前提が、絶えず揺さぶられた。

つまり NAIST は、主流の研究文化の中の「辺縁」だった。そして、その辺縁性こそが、独特の創造性を生んでいた。

山中はこの環境で、再び輝き始める。マウスを世話してくれる技術者がいる。研究室は独立している。批判する周囲はいない。米国時代と似た環境が、奈良の地にあった

そして、後に山中自身がはっきりと書き残している——NAIST での「分野を超えた交流」が、iPS細胞の発想を生む決定的な条件だったと。

著書『夢中が未来をつくる』(2022年)で、山中はこう振り返っている。

私が赴任した奈良先端科学技術大学院大学はとてもユニークな大学で、私のように医学の研究者もいれば、植物の研究者、大腸菌の研究者、コンピュータのプログラム情報の研究者など、多様な分野の研究者がいて、そういう人たちが顔を合わせて話をしたり、ビジョンを語ったり、いっしょに研究したりする環境がととのっていました

そして、植物バイオサイエンス分野の島本功先生との対話が、iPS細胞のアイデアにつながる重要なヒントになったという。植物では、分化した細胞から再び全体の植物個体を再生できる——これは植物学では当たり前の現象だった。だが動物では、それが「不可能」とされていた。その壁を、山中は植物の専門家との対話から乗り越えていく

私が NAIST で体験した「分野間の垣根のなさ」が、数年後に山中さんが iPS細胞を発見する土壌となった——これは振り返ると、NAIST という場所が持っていた可能性の証明でもある。

山中は毎朝NAIST 構内をジョギングして、体調を整えた。そして、研究の方向をES細胞に絞り込んでいった。

ES細胞——胚性幹細胞。受精卵から作られる、あらゆる細胞に分化する能力を持つ細胞である。1981年にマウスES細胞が、1998年にヒトES細胞が樹立されていた。だが、ヒトES細胞は受精卵を破壊して作るため、倫理的な問題があった。

山中は問うた——「ES細胞と同じ性質を持つ細胞を、受精卵を使わずに作れないか」。

これは、半世紀前の宣言と呼応する。1962年、ジョン・ガードンがカエルの体細胞を未受精卵に移植して、再びオタマジャクシに発生させる実験に成功していた。「分化した細胞は、初期化できる」。これは生物学の根本的な発見だったが、その後40年間、誰も哺乳類で同じことができていなかった。

山中は、ガードンの問いを再び立てた。

Waddington の谷——という概念がある。1957年、英国の発生生物学者 Conrad Waddington が提示した有名なイメージで、細胞分化を「丘の頂上から谷へと転がり落ちるボール」に喩えた。一度谷の底に落ちたボール(分化した細胞)は、元の丘の頂上(多能性)に戻れない、と考えられていた。

ガードンは1962年、「実は谷を逆走できる」ことを示した。だが、その方法は核移植という技術的に難しいもので、応用できる範囲は限られていた。

山中は問うた——「もっと簡単な方法で、Waddington の谷を逆走できないか」。

そして彼は、巧みなアプローチを取った。ES細胞でだけ発現している遺伝子の中から、初期化に必要な因子を特定しようとした。最初に候補にしたのは24個の遺伝子だった。

論理的に考えれば、24個全部を入れる必要があるかもしれない。だが現実には、24個全部を入れるのは難しい。山中は、24個から1つずつ抜いていく方法を選んだ。

実験は、NAIST で始まった。当時の助手・高橋和利らが中心になって進めた。一つずつ抜いていって、初期化が起こらなくなったら、その遺伝子は必須——そういう判定を続けた。

そして驚くべき結論が出た。24個ではない。4個で十分だった

Oct3/4、Sox2、Klf4、c-Myc——この4つの遺伝子を体細胞に導入すれば、ES細胞とほぼ同じ性質を持つ多能性幹細胞が誘導できる。

山中はこの細胞を iPS細胞(induced Pluripotent Stem cell、人工多能性幹細胞) と名付けた。

2006年、山中はこの結果をCell誌に発表した。マウスでの成功だった。翌2007年、ヒトでも成功する。世界が震撼した。

そして2012年、山中伸弥はジョン・ガードンと共同でノーベル生理学・医学賞を受賞した。ガードンの1962年の発見から、半世紀が経っていた。

ガードンは「分化した細胞は初期化できる」と示した。山中は「それを誰でもできる方法に変えた」。

Block 5:三つの道──利根川・本庶・山中の構造的対比

三人の物語を並べてみよう。

利根川進:京都大学化学科 → UCSD(PhD)→ バーゼル免疫学研究所(米国の主流の外) → 1976年 CSHL で勝利 → 1987年ノーベル賞 → MIT で記憶研究へ転向

本庶佑:東京大学医学部 → カーネギー研究所(ジャームライン説の側) → NIH レーダー研(敗者の側で技術習得) → 京都大学(クラススイッチへ転向) → 1992年 PD-1 発見 → 2002年がん免疫療法へ → 2018年ノーベル賞

山中伸弥:神戸大学医学部 → 整形外科研修医(手術が下手で挫折)→ 大阪市立大学薬理学(PAD)→ NAIST(救われる)→ 2006年 iPS細胞 → 2012年ノーベル賞

三人とも、最初の道で挫折・敗北・先を越されている
三人のうち二人は医師(本庶・山中)、一人は理学部出身(利根川)
三人とも、別の道に転換することで、認識のOS の書き換えに到達した

利根川進本庶佑山中伸弥
出身京都大学理学部化学科東京大学医学部神戸大学医学部
最初の道化学・京大医学・東大・主流の側整形外科医(挫折)
転換点バーゼルへ・ソマティック説の側へレーダー研で敗者を見て、別の問いへNAIST で再起
中核業績抗体多様性(V-J組換え)クラススイッチ・PD-1iPS細胞
ノーベル賞1987年2018年2012年
共通する戦略主流の OS を疑った先を越されてから別の山を登った失敗から別の道を見つけた

ここから、もう一つのパターンが見える。

「先を越されてから、別の道を開拓する」——これは研究者だけの話ではない。これは、認識のOS を更新する一つの方法論である。

主流の道で先を越されたとき、人は二つの選択肢を持つ:

  1. 同じ道で追いつこうとする(多くは失敗する)
  2. 別の道に転換する(傍流に降りる)

本庶も山中も、後者を選んだ。敗北は、別の認識のOS を持つ機会だった

これは、私自身の越境とも呼応する。製薬研究20年で、私は分子生物学の主流にいた。だが、ある時点で「分子だけでは生命は捉えられない」という違和感が立ち上がってきた。私は「同じ道で追いつく」のではなく、「別の道に転換する」ことを選んだ。ロルファーへの越境である。

利根川・本庶・山中の物語が示すのは、主流の OS から外れることが、新しい認識のOS への入口になるということだ。

Block 6:細胞のOS は時間を逆走できる

最後に、山中の発見が示した、もっと深い意味について触れたい。

iPS細胞の発見は、単なる技術的成果ではない。それは生命観の根本的な書き換えを含んでいる。

20世紀の発生生物学は、Waddingtonの谷のメタファーに支配されていた。細胞は、受精卵という頂点から、神経細胞・筋肉細胞・皮膚細胞などへと谷を転がり落ちる。一度落ちたら、戻れない——これが「分化」という概念の中核イメージだった。

つまり、細胞には時間の矢があった。一方向にしか進まない。ES細胞は谷の頂点にあり、分化した細胞は谷の底にある。

iPS細胞が示したのは、これが間違いだったということである。細胞は時間を巻き戻せる。たった4つの転写因子を入れるだけで、神経細胞や皮膚細胞は、再びES細胞と同じ多能性に戻れる。

これは、細胞という存在の根本的な再定義だった。

細胞は、固定された運命を持つ存在ではない。細胞は、書き換え可能な状態である。細胞のOS は、リプログラミングできる

これは、私がロルファーとして10年身体に触れてきた経験と、深く共鳴する。身体もまた、固定されたパターンではない。身体はリプログラミングできる。古い癖、古い緊張、古いトラウマ——それらは身体の深い層に刻まれているが、「時間を巻き戻す」ように再編成できる

ロルフィングが目指すのは、まさにこれだ。身体構造のリプログラミング。身体のOS を書き換える

iPS細胞は、細胞レベルでこれを実現した。ロルフィングは、身体構造のレベルでこれを実現する。両者は同じ原理に立っている——「生命は固定された状態ではなく、書き換え可能なプロセスである」という原理に。

エピローグ──認識のOS を書き換えること

第7回を閉じるにあたって、シリーズ全体に戻りたい。

利根川は、レーダーの認識のOS(ジャームライン説)を書き換えた。本庶は、利根川に先を越された後、自分の認識のOS を書き換えて、別の山を見つけた。山中は、整形外科医としての挫折を経て、自分の認識のOS を書き換えて、再生医学に到達した。

そして彼らの発見はそれぞれ、生命科学全体の認識のOS を書き換えた

利根川 → 「抗体の多様性は、固定された遺伝子の数ではなく、組み換えという動的なプロセスから生まれる」
本庶 → 「免疫は、攻撃するだけでなく、抑制する仕組みも持っている。がんとの戦いは、免疫のブレーキを外すことから始まる」
山中 → 「細胞は、一方向に分化していくのではなく、時間を巻き戻せる。生命は固定された運命ではなく、書き換え可能な状態である」

これらの発見は、すべて「分けて、固定する」という静的な見方を、「関係性と動的プロセス」という見方に書き換えている

これは、シリーズ全体を貫くテーマだ。生命を分子に還元する西洋的アプローチが、ポストゲノム時代に「分けられない、固定されない」という地点に辿り着く——その過程が、ここでも見える。

そして、ここに東洋的視点との接点が立ち上がる。生命は流れの中にある、関係性の中にある、書き換え可能なプロセスである——これは、東洋医学・東洋思想がずっと語ってきたことと響き合う。

第8回では、この物語の続きを辿る。21世紀のプログラマーたち——ジェニファー・ダウドナ、エマニュエル・シャルパンティエ、デミス・ハサビス、そしてサム・アルトマン、イーロン・マスク。彼らが「生命と知能をプログラミングする」時代に何を起こし、その時代にどんな倫理的問いが立ち上がったかを見ていきたい。

次回予告──第8回「プログラマーたち」

CRISPR、AlphaFold、AGI——21世紀の生命と知能を「編集する」技術が登場した。

Doudna・Charpentier の傍流の発見Zhang・Lander の主流の実装と歴史書き換え賀建奎事件の倫理逸脱、そして Doudna が主催した2015年ナパ会議——アシロマ会議(1975)から40年を経て、科学者の自己規律の伝統はどう更新されたのか。

Demis Hassabis の AlphaFoldは、生命科学に AI が入ってきたことを象徴する。Sam Altman の OpenAIElon Musk の Neuralink——主流の代表たちは何を社会に展開しているのか。

第8回もお楽しみに。

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主要参考文献:

  • 立花隆・利根川進『精神と物質──分子生物学はどこまで生命の謎を解けるか』(文藝春秋、1990年)
  • 本庶佑「免疫のしくみに魅せられて」JT生命誌研究館
  • 本庶佑「免疫ゲノム医学エッセイ」京都大学
  • 山中伸弥『夢中が未来をつくる』(講談社、2022年)
  • 山中伸弥・益川敏英『「大発見」の思考法──iPS細胞 vs. 素粒子』(文春新書、2011年)
  • 山中伸弥『山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた』(講談社、2012年)
  • 黒木登志夫『iPS細胞 不可能を可能にした細胞』(中公新書、2015年)── 著者の黒木登志夫先生は、私が東京大学医科学研究所で研究生として在籍していた時期に1年間お世話になった恩師の一人

前回:⑥ 分子生物学の革命──主流が自ら規律を引き受けたとき
次回:⑧ プログラマーたち──CRISPR・AI・自己規律の系譜

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