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【W#55】 ポーランド(3)〜アウシュヴィッツ(2)

2014年11月22日にアウシュヴィッツを訪れた。前回はアウシュヴィッツ収容所を取り上げた(【旅コラムVol.54】ポーランド(2)〜アウシュヴィッツ(1))。今回はアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所について触れる。
ナチス・ドイツがアウシュヴィッツ収容所を作った時に、すぐに収容定員を超えることになる。そこで、1941年10月にブジェジンカ村にソ連兵捕虜によって一から作られた収容所ができる。東京ドーム37個分にも及ぶ大きさがあった。
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写真や映画でお馴染みの強制収容所内まで延びる鉄道引込み線路は1944年5月に完成する。強制収容所の収容経験のある心理学者のビクトール・フランクル「夜と霧」によると、
「想像してほしい。千五百名は、もう何日も昼夜ぶっ通しの移送の途上にあるーーその列車には貨車一台に八十人ずつが乗せられ、荷物(なけなしの財産)の上にごろごろと折り重なっていた。リュックサックや鞄が積みあげられ、窓は上のほうがかろうじてのぞいているだけで、そこから明け方の空が見える。みんながみんな、この移送団はどこかの軍需工場に向かっており、そこでは強制労働が待っているのだ。
(略)
そうこうするうちに、列車はかなり大きな駅にすべりこんだ。貨車のなかでおののきながらなりゆきを待ちうけていた人びとの群れから、ふいに叫びがあがった。
「駅の看板がある。アウシュヴィッツだ!」
この瞬間、だれもかれも、心臓が止まりそうになる。アウシュヴィッツと聞けばぴんとくるものがあった。あいまいなだけいっそうおぞましい、ガス室や焼却炉や大量殺戮をひっくるめた何かが」
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収容所の中に入るとプラットフォームが当時のまま残されている。
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ガイドによると、ここで様々な情報に基づいて労働者、人体実験の検体、価値なしによる選別が行われ、価値なしと判断された場合にはガス室へ送られたそうだ。
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塚本哲也氏の「エリザベート」によると、ドイツの敗戦時に強制収容所は、400近くあったらしい。強制収容所のうち、最初にできたのがダッハウ強制収容所で以前本ブログでも触れた(【旅コラムVol.14】ミュンヘン(4)〜ダッハウ強制収容所)。ヒトラーが政権をとった1933年、時のミュンヘン警視総監、後のナチスのゲシュタポ長官となるヒムラーが、その年の3月にドイツの治安維持を目的としてダッハウに作る。ユダヤ人の大量逮捕が始まるのが、1938年11月。
パリでポーランド系のユダヤ人少年が、父親を逮捕された恨みを晴らすため、パリのドイツ大使館在住の外交官を殺害。このことがきっかけとなり、全ドイツでユダヤ人への復讐が始まる。ユダヤ人の店という店のショーウィンドーのガラスを破壊していった。1942年1月にユダヤ人絶滅の計画が決まり、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所がその主要な舞台となる。
最初のガス室は1941年頃にアウシュヴィッツ収容所につくられ、実験を含め、約800人の旧ソ連捕虜とポーランド人が送られた。アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所には4つのガス室は、1943年3月~6月にかけて作られた(下記の写真はそのうちの一つ)。最終的に7つのガス室があったと考えられている。いずれのガス室も第二次大戦終了後までに破壊されてしまう。今は残骸しか残されていない。
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ガス室に使われたカンはアウシュヴィッツ収容所に残されている。
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フランクルの著作で触れた鉄道ホームからガス室に向かうにあたって通った道も残されていて、その静けさが印象的だった(下記の写真)。
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女性専用の収容所も残っている。アウシュヴィッツ付近の夏は最高で、摂氏37度、冬は最低で、マイナス20度を下回るということ。収容所として使われた時には薪などの燃料は供給されていなかったため、環境は劣悪であった。
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食事については、朝食としてコーヒーと呼ばれる濁った飲み物(コーヒー豆から抽出されたものではない)、昼食はスープ(具がない)、そして夕食にはパンとマーガリンがそれぞれ支給されたとのこと。結局収容者は栄養失調に陥ることになる。
ポーランド軍の馬小屋や、基礎工事なしで建てられ床工事もない上、上下水道が完備されていないため地面は土泥化されていた。当然、伝染病も蔓延することになる。
遺体の安置はしっかりとされていないため収容所内に遺体が眠っている可能性がある。施設は墓地(Cemetery)として扱うべきであるというガイドの言葉が印象的だった。
駆け足で6時間にわたる収容所の見学について紹介してきたが、最後にフランクルの言葉で締めたいと思う。
「強制収容所の生活が人間の心の奥深いところにぽっかりと深淵を開いたことは疑いない。この深みにも人間らしさを見ることができたのは、驚くべきことだろうか。この人間らしさとは、あるがままの、善と悪の合金とも言うべきそれだ。あらゆる人間には、善と悪をわかっ亀裂が走っており、それはこの心の奥底にまでたっし、強制収容所があばいたこの深淵の底にもたったりしていることがはっき りと見て取れるのだ。
わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間 とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在 でもあるのだ」

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