ヴァレラの仏教と科学は、誰から来て、誰に渡ったのか?──マカロック、トゥルンパ、トンプソン
シリーズ「現象学と認知科学──心をどこまで捉えられるか」第4回
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はじめに
前回、下西風澄『生成と消滅の精神史』(文藝春秋、2022年)から、フランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela)が西谷啓治の「超降下」という言葉に注目していた、という箇所を紹介した。その西谷について、若い頃に論文を書いた人物がいる。エヴァン・トンプソン(Evan Thompson)である。西谷とハイデガー(Martin Heidegger)を論じた学部の卒業論文を書き直したものが、彼にとって最初の活字になった。

ヴァレラは、その論文を読んでいた。後にトンプソンが認知科学と心の哲学を専門にすると聞き、一緒に本を書かないかと誘った。エレノア・ロッシュ(Eleanor Rosch)を加えた3人で執筆したのが、1991年の『身体化された心』(The Embodied Mind – Cognitive Science and Human Experience)である。

今回は、この2人の関係を中心に、科学と仏教がどのように結びつき、認知科学に新しい問いをもたらしたのかを考えてみたい。主に取り上げるのは、トンプソンが2020年に出版した『Why I Am Not a Buddhist』である。

ヴァレラが名乗った2つの系譜
1978年、ヴァレラはニューヨークのリンディスファーン協会に滞在し、科学と仏教について連続講演を行った。その最初の講演の記録が、彼の残した書類の中にあった。トンプソンは『Why I Am Not a Buddhist』で、その内容を紹介している。
ヴァレラは、まず「系譜」という話から始めたという。系譜があるのは仏教だけではない。科学にも、先人から受け継がれてきた考え方や研究の伝統がある。ヴァレラは、自分が属する科学の系譜を「実験的認識論(experimental epistemology)」と呼んだ。自然界の観察に根ざした視点から、認識や心、知識の問題を研究することである。そして、自分が影響を受けた人物として、ウォーレン・マカロック(Warren McCulloch)とグレゴリー・ベイトソン(Gregory Bateson)の2人を挙げた。
一方、仏教の系譜として名乗ったのは、チベット仏教のカギュ派だった。チョギャム・トゥルンパ(Chögyam Trungpa)に代表される伝統である。カギュ派は、瞑想を直接的、個人的に教えることを重視すると同時に、瞑想の実践と知的な修練の釣り合いを大切にする。科学と仏教。ヴァレラは、この2つの系譜に属していると考えていた。
では、2つの関心を同時に持つと、何が起きるのだろうか。ヴァレラの答えは、単に知識が増えるということではなかった。実際に行う研究そのものが変わってしまう、というのである。この言葉が、今回の出発点になる。
科学の系譜の先に、計算機があった
ヴァレラが科学の系譜として挙げたマカロックは、認知科学の歴史を考えるうえで重要な人物である。『身体化された心』の第3章には、1943年にマカロックとウォルター・ピッツ(Walter Pitts)が発表した論文についての説明がある。2人は、ニューロンを活動しているか、いないかという2つの状態を持つ装置としてモデル化した。そして、その装置を組み合わせることで、脳の働きを論理的な計算として表現できると考えた。
この発想は、脳を論理的な演算装置として捉える研究の重要な出発点になった。『身体化された心』では、こうした考え方がデジタル計算機の発展と深く関わっていたことも説明されている。初期には真空管が使われ、その後は半導体チップへと技術が変わっていったが、計算機を論理的な演算によって動かすという基本的な考え方は受け継がれている。
第1回では、計算機が人間の心を理解するためのモデルになっていった経緯を紹介した。その計算機の思想的な源流の1つに、マカロックがいたのである。さらに興味深いのは、マカロック自身が、自分の研究を「実験的認識論」と呼ぶことを好んでいたという記述である。これは、ヴァレラが1978年の講演で、自分の科学の系譜として名乗った言葉と同じだった。
つまり、計算機をモデルにして心を理解しようとする研究と、後にその限界を問い直したヴァレラの研究は、まったく別のところから始まったわけではなかった。計算する心の研究と、それを問い直す研究は、同じ科学の歴史から生まれていたのである。
ここで、もう1人の哲学者を紹介したい。ヒューバート・ドレイファス(Hubert Dreyfus)である。
RAND研究所で、哲学者が必要だと言われた
ヒューバート・ドレイファスは、ハイデガーやメルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)の哲学を研究していた人物である。『身体化された心』の序論にも、認知科学に対するハイデガー的な批判者として名前が登場する。ドレイファスが、なぜ人工知能研究に関わるようになったのか。その経緯は、弟のスチュアート・ドレイファス(Stuart Dreyfus)とともに書いた『純粋人工知能批判』(原題 Mind Over Machine、1986年)の序章に詳しい。

当時、スチュアートはRAND(ランド)研究所で、JOHNNIACという初期の計算機を扱っていた。ジョン・フォン・ノイマン(John von Neumann)の設計思想に基づく試作計算機である。兄のヒューバートは、人工知能研究への疑問を手紙で弟に伝えた。スチュアートが、その内容を研究所の哲学者ビル・マロン(Bill Maron)に話したところ、思いがけない答えが返ってきた。
マロンの兄弟も、ちょうどRAND研究所へ手紙を送っていたというのである。その内容は、機械知能という新しい分野に時間と資金を投じる前に、誰かがメルロ=ポンティの仕事を研究すべきだ、というものだった。計算機によって人間の知性を再現しようとしていた研究所で、メルロ=ポンティの名前が挙がっていたのである。
その2か月後、1964年の夏、ヒューバート・ドレイファスはRAND研究所の顧問として雇われた。当時、研究所ではアレン・ニューウェル(Allen Newell)、ハーバート・サイモン(Herbert Simon)、クリフ・ショー(Cliff Shaw)らが、人工知能研究の基礎となる仕事を進めていた。ここで興味深いのは、ドレイファスが外部から突然批判を持ち込んだわけではない、という点である。計算機によって知性を理解しようとしていた研究の現場から、哲学者を必要とする声が上がっていた。
判断を計算に変えることへの疑問
ドレイファスがまとめた人工知能研究への批判は、強い反発を受けた。ニューウェルとサイモンは、その論文には価値がなく、RAND研究所が支持しているように見えてはならないと主張した。公表するかどうかをめぐり、研究所内では約1年間の対立が続いたという。その論文の公表を支持したのが、弟のスチュアートと数学者のリチャード・ベルマン(Richard Bellman)だった。
2人が取り組んでいたのは、オペレーションズ・リサーチ(Operation Research、OR)という分野である。数学的なモデルを使い、軍事、経営、政策などの複雑な問題について、最適な意思決定を導こうとする研究だった。人工知能とは異なる分野であるが、判断を計算によって扱おうとする点では、共通する方向を向いていた。
この分野が、どういう時代の空気の中にあったのかは、別に書いたことがある。1961年に発足したケネディ政権は、ランド研究所のシステム分析の専門家たちを政府に迎え入れた。正しいデータと正しい分析があれば、正しい答えが出る。その考え方が、軍事や政策の意思決定の場に持ち込まれていった(なぜ賢い人ほど間違えるのか──集団浅慮とデータ至上主義の罠)。
同じ時期、ケネディは月への有人飛行を国家目標として掲げ、アポロ計画が本格的に動き出している。こちらも別のシリーズで扱った(アポロ計画シリーズを読む前に──11本の記事が描く「人類最大のプロジェクト」の全体地図)。ドレイファスがランド研究所に呼ばれたのは、その3年後である。
それにもかかわらず、2人は、人工知能研究者たちの将来予測には懐疑的だった。スチュアート自身がチェスの大会に出場する人であり、人間の意思決定には分析だけでなく、直観や経験から生まれる判断も関わっていることを知っていたからである。1958年、サイモンは10年以内に計算機がチェスの世界王者になると予測していた。スチュアートは、そのような見通しに強い反発を覚えたという。
こうした経緯を経て、ドレイファスの論文「錬金術と人工知能(Alchemy and Artificial Intelligence)」が公表された。ただし、スチュアート自身も、当初から数学的な意思決定の限界を十分に理解していたわけではなかった。そのことに気づくきっかけになったのが、あるパーティーでの何気ない質問だった。
自分が使わない方法を、人に勧められるか
スチュアートは、パーティーの席で、自分の研究について説明する際、車の買い替えを例に使っていた。例えば、今後30年間に何台の車を買うべきかを考える。古い車を維持する費用、新車の購入費、故障の可能性、減価償却、所有する喜びなどを数値に置き換える。それぞれの要素に重みをつければ、計算機によって最適な買い替えの時期を求められる、という説明である。
ある晩、いつものように説明を終えると、聞いていた人が尋ねた。それでは、あなた自身も、その方法で車を買い替えているのですか。スチュアートは、即座に否定した。自分にとって新車の購入は、数学モデルに任せるには重要すぎる。実際には、しばらく考え、買い替えるのがよいと感じたときに決める、というのである。
翌朝、彼は自分の答えを考え直した。将軍や経営者、政策立案者に対して、数学的なモデルによる意思決定を勧めている。しかし、自分自身の生活では、その方法を使っていない。なぜ、自分は計算結果よりも、自分の経験から生まれる判断を信頼しているのだろうか。この疑問を追究したことが、『純粋人工知能批判』を書くきっかけになったと、序章には記されている。
ドレイファス兄弟は、人間の熟達を、規則を覚え、経験を積み、やがて状況全体を直観的に捉えられるようになる過程として説明した。初心者は規則を必要とする。しかし、熟達者は、状況に応じて何が重要なのかを自然に見分けられるようになる。つまり、計算によって適切な答えを求めることと、経験を通して状況を判断することは、必ずしも同じではない。
この本については、ロルフィングのサイトで全3回の連載として詳しく紹介したので、ここではこれ以上立ち入らない。ただ、今回の認知科学の歴史を考えるうえで重要なのは、計算機によって心や判断を理解しようとする研究の内部から、その限界を問う動きが生まれていたということである。そして、ヴァレラもまた、同じ科学の歴史を受け継ぎながら、別の方向へ進もうとしていた。
シリーズ「人工知能から問い直す、身体性と上達──ドレイファス『純粋人工知能批判』を読む」
- 第1回 なぜ、考えた瞬間に下手になるのか──ドレイファスが示した、上達の5つの段階
- 第2回 手順を、教わらなかった──11年の課程を、身体性から読み直す
- 第3回 分析ではなく、知覚を問う──哲学者が、人工知能の評価を引き受けた理由
仏教の系譜の先に、亡命者がいた
ここで、ヴァレラが名乗ったもう1つの系譜に戻りたい。ヴァレラが仏教に出会ったのは、チョギャム・トゥルンパを通してだった。トゥルンパは、1974年にコロラド州ボルダーでナロパ・インスティテュート(現在のナロパ大学)を創設したチベット仏教の師である。
トンプソンは、トゥルンパについて、短い補足を加えている。彼もまた難民であり、1959年にチベットを逃れることを余儀なくされた人物だった、というのである。ヴァレラ自身にも、似た経験があった。1973年、チリでピノチェト将軍による軍事クーデターが起き、アジェンデ政権が倒されたとき、ヴァレラは家族とともにチリを離れている。故郷を離れざるを得なかった2人が、ボルダーで出会った。
ヴァレラがカギュ派について重視していたのは、瞑想を直接的、個人的に教えること、そして瞑想の実践と知的な修練を両立させることだった。前回、ヴァレラがなぜ認知科学に仏教を取り入れたのかを考えた。そこで重要だったのは、仏教の教義を科学で証明することだけではない。自分自身の経験を観察するための訓練が、科学の研究に新しい問いをもたらすのではないかという考え方だった。
2つの系譜を持つと、研究そのものが変わる
では、科学と仏教という2つの系譜を持つことで、ヴァレラの研究は実際にどう変わったのだろうか。1978年の講演で、ヴァレラは、自分の実験研究が両方の系譜の表現になっていると説明したという。
例えば、瞑想の実践を通して、自分の経験を観察する。すると、意識が途切れのない連続した流れとして存在しているのではなく、離散した気づきの瞬間から成り立っているように感じられることがある。ヴァレラは、そこから問いを立てた。このような経験上の観察は、脳の働きについて、何かを教えてくれるのだろうか。そして、その問いを実験的に扱おうとした。
ここで大切なのは、瞑想によって感じ取ったことを、そのまま脳の仕組みについての科学的な事実として扱っているわけではない、という点である。瞑想による経験は、研究の問いを生み出す。しかし、その問いが正しいかどうかは、実験によって確かめる必要がある。一方、脳の活動を測定するだけでは、本人が何を経験しているのかを十分に理解できないこともある。そこで、経験の側と測定の側を、どちらも手放さずに研究する。第3回で紹介した、ヴァレラの神経現象学につながる考え方である。
科学と仏教を組み合わせるというのは、単に2つの分野の知識を並べることではなかった。自分自身の経験から科学的な問いが生まれ、その問いが実験研究へとつながっていく。 ヴァレラが「2つの系譜を持つと、実際に行うことが変わる」と語った意味は、ここにあったのだと思う。
ダライ・ラマとの対話から、研究の制度へ
ヴァレラが果たしたもう1つの重要な役割が、科学者とダライ・ラマとの対話を進めたことである。1983年9月、オーストリアのアルプバッハで、意識に関する国際シンポジウムが開かれた。トンプソンの父、ウィリアム・アーウィン・トンプソン(William Irwin Thompson)が招待講演者となり、卒業祝いとして息子を連れて行った。この会議で、ヴァレラとダライ・ラマが初めて出会った。
2人の交流は、その後、マインド・アンド・ライフ・ダイアローグへと発展していく。科学者と仏教の実践者が、心、意識、瞑想、そして科学と仏教の関係について議論する一連の会合である。1990年の第3回の対話の後には、マインド・アンド・ライフ研究所が設立され、ヴァレラは創設に関わる科学者となった。
さらに1998年には、対話を研究へと発展させる構想が具体化した。ヴァレラと神経科学者リチャード・デイヴィッドソン(Richard Davidson)が、それぞれの研究室で、長期にわたる瞑想実践者を対象とした研究を進めることになったのである。ここで、ヴァレラが1978年に語っていた構想が、個人の問題意識から共同研究へと広がっていった。
瞑想による経験を、科学的な研究の対象にする。そのために、科学者、仏教の実践者、宗教や哲学の研究者が協力する。経験と測定を同時に扱うという考え方が、研究の制度として形になり始めたのである。
15歳で出会った少年が、その仕事を引き継ぐ
ここで、冒頭に登場したトンプソンの話に戻りたい。トンプソンがヴァレラと初めて出会ったのは、1977年の夏だった。「自然のなかの心(Mind in Nature)」という会議である。
会議を企画したのは、トンプソンの父ウィリアム・アーウィン・トンプソンと、人類学者でシステム理論家のグレゴリー・ベイトソンだった。会場はニューヨーク州サウサンプトンのリンディスファーン協会で、ベイトソンが議長を務めた。トンプソンは15歳になる少し前、ヴァレラは32歳になる少し前だった。
ベイトソンは、ヴァレラが自分の科学の系譜として挙げた2人のうちの1人である。その人物が議長を務める会議で、14歳のトンプソンはヴァレラと出会った。その後、ヴァレラはトンプソンの家族と親しくなり、トンプソンにとって、叔父と兄を合わせたような存在になったという。
やがてトンプソンは、西谷啓治とハイデガーについて論文を書いた。ヴァレラは、その論文を読んでいた。そして、トンプソンが認知科学と心の哲学を専門にすると聞き、一緒に本を書くことを提案した。こうして、エレノア・ロッシュを加えた3人による『身体化された心』が生まれた。
2001年にヴァレラが亡くなると、トンプソンはマインド・アンド・ライフ研究所の活動に深く関わるようになった。MITで開催された2日間の公開会議では基調講演を務め、研究所の企画委員会や研究委員会にも参加した。インドで行われたダライ・ラマとの対話にも2度出席し、夏季研究所の設計や運営にも携わった。2004年には、フランシスコ・J・ヴァレラ研究助成も設けられた。
トンプソンは、夏季研究所の最初の10年間について、科学、瞑想、哲学が一体となった、前例のないものを作っているという感覚があったと振り返っている。15歳になる前に出会った人物と、20代の終わりに本を書き、その人物が亡くなった後は、仕事の一部を引き継いだ。ヴァレラの構想は、トンプソンにとって、自分自身の人生と深く結びついたものになっていたのである。
そして、トンプソンは距離を取る
しかし、トンプソンの回想は、そこで終わらない。マインド・アンド・ライフ研究所の活動が発展する一方で、内部と外部を分ける構造も生まれ始めていたという。懐疑的な意見や、厳しい問いを投げかける声が、次第に周辺へ追いやられていった。
トンプソンは、いくつかの問題を挙げている。例えば、瞑想を自分でも実践している科学者は、瞑想の効果を研究するとき、どこまで客観的で公平でいられるのだろうか。瞑想には有益な効果があると期待されている。しかし、実践によって不調や困難を経験する人もいる。なぜ、そのような負の影響が報告されているにもかかわらず、瞑想の有益性を示すことに研究者たちの関心が偏りやすいのだろうか。
さらに、科学的な研究結果を、仏教の教義が正しいことの証明として扱ってよいのだろうか。トンプソンは、こうした問題を考える中で、自分たちが1991年に書いた『身体化された心』についても、批判的に振り返るようになった。『Why I Am Not a Buddhist』の第3章では、認知科学が仏教の無我の見方を裏づけると論じたことについて、単純すぎたと認めている。
ここが、私には非常に興味深い。トンプソンは、ヴァレラの仕事を否定しようとしているわけではない。むしろ、その仕事に長く関わり、実際に研究を進めてきたからこそ、当初の構想に含まれていた問題が見えるようになったのではないだろうか。
科学と仏教を結びつけることには、大きな可能性がある。しかし、両者を結びつけようとするあまり、科学的な結果を仏教の正しさの証明として使ってしまえば、科学の側の批判的な姿勢が弱まってしまう。逆に、瞑想による経験を、科学的な測定だけで説明できると考えてしまえば、ヴァレラが重視した経験の側が失われてしまう。
経験を尊重することと、その経験についての説明を無条件に信じることは、同じではない。 トンプソンが距離を取ったのは、科学と仏教の対話そのものというよりも、両者を安易に一致させようとする考え方だったのだと思う。
まとめ──2つの系譜から、何が生まれたのか
全4回にわたって、現象学と認知科学が、人間の心をどのように捉えてきたのかを振り返ってきた。第1回では、計算機が心を理解するためのモデルになっていった歴史を紹介した。第2回では、メルロ=ポンティが身体と行為から心を捉え直そうとしたことを取り上げた。第3回では、ヴァレラが認知科学に仏教の瞑想実践を取り入れ、経験と科学的な測定を結びつけようとした理由を考えた。
そして今回、これらの研究が、別々のところから生まれたわけではないことが分かった。マカロックは、ニューロンの働きを論理的な計算として表現しようとした。その考え方は、計算機の発展と結びついていった。一方、ヴァレラは、同じマカロックを自分の科学の系譜として名乗りながら、計算だけでは説明できない経験の問題を研究しようとした。
ランド研究所では、計算機によって人間の判断を再現しようとする研究が進められていた。しかし、その研究所の内部から、メルロ=ポンティを研究すべきだという声が上がり、ドレイファスが招かれた。さらに、ヴァレラは科学と仏教の2つの系譜を結びつけ、瞑想による経験を科学的な研究へとつなげようとした。その構想は、トンプソンたちによって引き継がれ、研究の制度として発展していった。しかし、そのトンプソン自身が、後に科学と仏教の関係を問い直すことになった。
ここまでの歴史を振り返ると、1つのことが見えてくる。新しい考え方は、必ずしも、それまでの考え方を否定するところから生まれるわけではない。同じ研究の歴史を受け継ぎながら、その中で見落とされていた問題に気づくことによって生まれる場合もある。
計算によって心を理解しようとする研究があったからこそ、その方法では捉えきれないものが見えてきた。科学と仏教を結びつける試みがあったからこそ、両者を安易に一致させることの危うさも見えてきた。
第1回で、棄てられたものに気づいた人が、次の捉え方を作る、と書いた。今回、その言葉の意味が、少し違って見えてきた。
見落とされていたものに気づく人は、必ずしも外側にいるわけではない。同じ仕事を引き継ぎ、その中に深く関わってきた人だからこそ、見えるものもある。
シリーズ「現象学と認知科学──心をどこまで捉えられるか」
- 第1回 心をコンピュータに喩えたとき、何が棄てられたのか
- 第2回 メルロ=ポンティは、身体から心をどう考えたのか
- 第3回 なぜヴァレラは、認知科学に仏教を取り入れたのか?──身体、経験、そして反省の限界
- 第4回 ヴァレラの仏教と科学は、誰から来て、誰に渡ったのか?──マカロック、トゥルンパ、トンプソン(この記事)


