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旅の最終日──空海の誕生地から、円珍、そして出釈迦寺の奥の院へ

2026年8月24日(月)、3泊4日の旅も最終日を迎えた。

初日は、高松市内の屋島寺を訪れ、鑑真から最澄、空海へとつながる仏教史に触れた(『香川県(高松)・徳島県(剣山)への3泊4日の旅をスタート──屋島寺で、鑑真と空海がつながった』参照)。

2日目は、白人神社、磐境神明神社、高根資料館を巡り、剣山に残る古代ユダヤとソロモンの秘宝伝説をたどった(『剣山への旅・2日目──山に登る前に「ソロモンの秘宝伝説」をたどる』参照)。

3日目には、見ノ越の劔神社で正式参拝を受け、実際に剣山と次郎笈へ登った。その後、祖谷のかずら橋を渡り、平家の落人と空海の伝説にも触れた(『剣山への旅・3日目──正式参拝から次郎笈へ、最後は祖谷のかずら橋へ』参照)。

最終日は再び香川県へ戻り、空海と、その後の密教を展開させた円珍にゆかりのある寺院を巡ることにした。空海が生まれた善通寺。円珍が生まれた金倉の地に建つ金倉寺。そして、幼い空海が仏道への決意を示したと伝えられる、出釈迦寺と我拝師山。

旅の最後に、空海の「誕生」と「目覚め」の土地を、自分の足でたどる一日となった。

空海の誕生地・善通寺へ

最初に訪れたのは、四国八十八ヶ所霊場第75番札所、総本山善通寺である。善通寺は、弘法大師・空海が生まれた場所として知られている。空海は774年、この地で父・佐伯善通と母・玉寄御前の子として生まれ、「真魚」と名づけられたと伝えられている。善通寺という寺名も、父・佐伯善通の名に由来するとされている。

境内へ入って、まず感じたのは、その広さだった。

善通寺の境内は、伽藍と呼ばれる東院と、誕生院と呼ばれる西院に大きく分かれている。東院には金堂や五重塔があり、西院には空海の誕生地とされる御影堂が建っている。前日に歩いた剣山のような自然の広がりとは異なるが、善通寺にもまた、視界が大きく開かれるような感覚があった。

同じ香川県でも、初日に訪れた高松市内の寺院で感じたものとは、どこか雰囲気が違う。屋島寺では、鑑真、最澄、空海という仏教史の流れを、瀬戸内海を見下ろす屋島の地形とともに感じた。それに対して善通寺では、「ここで空海が生まれ、幼少期を過ごした」という事実が、境内全体に空海の原点としての性格を与えていた。

高野山とは違う、密教の雰囲気

善通寺には、真言密教の総本山らしい荘厳さがある。境内を歩いていると、空海が唐から持ち帰り、日本に根づかせた密教の世界を感じることができた。

私は2010年7月に、高野山を訪れたことがある。高野山も、空海が開いた真言密教の聖地である。しかし、今回善通寺で感じた雰囲気は、高野山とは少し違っていた。高野山は、山深い自然のなかに寺院と墓地が広がり、奥之院を中心として、空海が現在も瞑想を続けているという信仰を感じさせる場所だった。

一方、善通寺は、空海が生まれ、育った土地である。高野山が、空海の思想と修行が最終的に結実した場所だとすれば、善通寺は、それ以前の空海、まだ「真魚」と呼ばれていた一人の子どもの原点を感じさせる場所だった。同じ空海ゆかりの寺院でありながら、片方は「密教を完成させた空海」、もう片方は「これから空海になる真魚」を感じさせる。

その違いが興味深かった。

自分で鐘を撞く

境内では、鐘を自由に撞くこともできた。寺院で鐘の音を聞くことはあっても、自分で撞く機会はそれほど多くない。撞木を引き、鐘に当てる。力加減が分からず、すごく大きな音を出してしまったが、音の波動を全身で感じることができた。前日の劔神社では、正式参拝の太鼓と祝詞を全身で感じた。善通寺では、自分で撞いた鐘の音が、身体を通り抜けて境内へ広がっていくのを感じた。

仏教や神道の儀式では、音が重要な役割を果たしている。経典の内容や教義を頭で理解するだけではなく、太鼓、祝詞、鐘、読経といった音を、身体で受け取る。この旅では、宗教が思想だけではなく、空間、身体、音を含んだ総合的な体験であることを、何度も感じることになった。

暗闇を歩く「戒壇めぐり」

善通寺では、拝観料を支払うと、御影堂の地下にある戒壇めぐりと宝物館を見学することができる。

まず体験したのが、戒壇めぐりである。地下へ下りると、そこには光のまったくない暗闇が広がっていた。目が慣れれば何かが見えるという暗さではない。どれほど目を凝らしても、何も見えない。左手を壁に触れ、壁を伝いながら、少しずつ前へ進んでいく。

普段、私たちは視覚から膨大な情報を得ている。目の前に何があるのか、床がどこまで続いているのか、次にどちらへ曲がるのかを、ほとんど意識することなく判断している。完全な暗闇では、その当たり前の能力を使うことができない。頼れるのは、壁に触れている左手の感覚、足裏から伝わる床の状態、周囲の音、そして自分の身体がどちらを向いているかという感覚だけである。

私には、それが「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」に近い体験のように感じられた。視覚を使えなくなることで、普段は背景に退いている触覚や聴覚、固有感覚が前面に出てくる。次に何があるか分からないまま、それでも左手で壁を確かめながら進んでいく。

少し不安ではあるが、同時に、とても面白い。

戒壇めぐりは、空海との縁を結ぶ精神修養の場とされている。しかし、その意味を知らなくても、光を失ったときに自分の身体がどのように周囲を捉え直すのかを体験できる。前日の登山では、足元の石を見ながら身体のバランスを調整した。祖谷のかずら橋では、足元の隙間から見える谷底に身体が反応した。

そして善通寺では、そもそも何も見えない暗闇のなかを歩いた。この旅では、場所が変わるたびに、身体による世界の捉え方も変わっていった。

約2万点を収蔵する善通寺宝物館

戒壇めぐりを終えたあと、善通寺の宝物館を見学した。善通寺宝物館は、寺が所蔵する文化財を保存・公開するため、1907年に創設された施設である。国宝の「金銅錫杖頭」や「一字一仏法華経序品」をはじめ、仏像、経典、聖教、古文書など、収蔵品は約2万点に及ぶ。そのうち約30点が「寺宝名品展」として常設展示されている。

少し前の2026年7月、私は上野の東京国立博物館で開催された、弘法大師生誕1250年記念特別展「空海と真言の名宝」を鑑賞していた。この展覧会では、真言宗の十八本山と関係寺院から、国宝15件、重要文化財60件を含む88件の寺宝が集められていた。

空海ゆかりの品々をはじめ、密教絵画や図像、彫刻、秘仏などを通して、空海の教えが全国へ広がり、1200年以上にわたって受け継がれてきた歩みをたどる大規模な展覧会だった。

上野の展覧会が、各地の寺院に伝わる名宝を一堂に集め、真言密教の歴史と広がりを俯瞰するものだったとすれば、善通寺の宝物館は、空海が生まれた場所に残されてきた寺宝を通して、その原点に触れるような展示だった。

善通寺には約2万点の文化財が収蔵され、そのうち約30点が「寺宝名品展」として常設展示されている。上野の展覧会では見られなかった作品や資料もあり、空海の生誕地だからこそ守り伝えられてきたものを、その土地で見ることができた。

30点という数字以上に密度の濃い展示で、思わず図録まで購入してしまった。上野の展覧会を見ていたからこそ、二つの展示の違いも楽しむことができた。旅先で図録を購入すると、帰宅後も、その場所で何を見て、何を感じたのかを振り返ることができる。善通寺の図録も、上野で見た空海展の図録とともに、今後、空海と密教について考えていくうえで大切な資料になりそうである。

円珍の生誕地・金倉寺へ

善通寺をあとにして、次に訪れたのは、四国八十八ヶ所霊場第76番札所の金倉寺(こんぞうじ)である。金倉寺は、智証大師・円珍の生誕地として知られている。

円珍は814年、讃岐国金倉郷、現在の善通寺市金蔵寺町周辺に生まれた。なお、円珍は最澄本人の直弟子ではなく、15歳で比叡山に入り、最澄の弟子で初代天台座主となった義真に師事した僧である。12年間の籠山修行を行い、853年に唐へ渡った。唐では天台教学と密教を学び、858年に帰国。のちに第5代天台座主となり、園城寺、現在の三井寺を拠点として天台寺門宗の基礎を築いた。

日本の天台密教、いわゆる台密は、最澄によって始められ、その後、円仁と円珍によって大きく展開された。空海が真言密教、すなわち東密の体系を築いたのに対し、円珍は唐で学んだ密教を天台教学のなかへ取り込み、台密を発展させた人物の一人である。

私は今回の旅の前に、円珍の生涯を描いた漫画を読んでいた。そのため、金倉寺を訪れたときにも、単に「円珍ゆかりの寺」として見るのではなく、一人の人間としての円珍を想像することができた。

円珍は、この土地でどのような幼少期を過ごしたのだろうか。どのような思いで故郷を離れ、比叡山へ向かったのだろうか。そして、最澄が築いた天台宗のなかで学び、さらに唐へ渡って密教を修め、帰国後に台密を展開していったのだろうか。円珍の生涯には、空海と重なるところがある。二人とも讃岐に生まれ、海を渡って唐へ向かい、現地で密教を学び、その成果を日本へ持ち帰った。

一方で、空海が独立した真言宗の密教体系を築いたのに対し、円珍は最澄が開いた天台宗のなかで密教を発展させた。しかも、円珍の母は空海の姪にあたり、円珍は空海の姪の子だったとされる。

善通寺と金倉寺は、地理的にもそれほど離れていない。この比較的近い地域から、空海と円珍という二人の入唐僧が生まれ、日本の密教史に大きな影響を与えた。実際に二つの寺を続けて巡ることで、歴史書のなかでは別々に登場する空海と円珍が、同じ讃岐の土地から旅立った人物として、立体的に感じられるようになった。

地元の人が通う店で、讃岐うどんを食べる

金倉寺を訪れたあと、地元の人たちが利用するうどん店で昼食をとった。香川県へ来たからには、やはり讃岐うどんを食べておきたい。観光客向けに整えられた店ではなく、地元の人たちが日常的に立ち寄る店で食べるうどんには、その土地の暮らしが感じられる。

善通寺と金倉寺を巡り、空海と円珍について話したあと、地元のうどんを食べながら一休みする。

寺院や歴史的な場所を訪れることだけでなく、その土地で普段食べられているものを味わうことも、旅の大切な一部である。そして昼食後、今回の旅の最後の目的地である出釈迦寺へ向かった。

最後の目的地・出釈迦寺へ

出釈迦寺は、四国八十八ヶ所霊場第73番札所である。正式名称を、我拝師山 求聞持院 出釈迦寺(がばいしざん・ぐもんじいん・しゅっしゃかじ)という。この寺には、幼い空海、当時の真魚にまつわる、非常に印象的な伝説が残されている。

真魚は7歳のとき、我拝師山に登り、

「自分が将来、仏道に入って人々を救うことができるのであれば、釈迦如来よ、姿を現してください。もし叶わないのであれば、この身を諸仏に捧げます」

と願い、断崖から身を投じたという。

すると釈迦如来と天女が現れ、真魚を受け止めた。その出来事によって真魚は仏道への確信を得たと伝えられ、この伝説から寺は「出釈迦寺」と呼ばれるようになったという。もちろん、これは寺に伝わる伝説であり、歴史的事実として確認できるものではない。しかし、空海が仏教へ向かう原点を象徴する物語として、非常に重要である。

善通寺が空海の「誕生の場所」だとすれば、出釈迦寺と我拝師山は、空海の「宗教的な目覚めの場所」として位置づけることができる。

予定外に、出釈迦寺の奥の院を目指す

当初は、出釈迦寺の境内を参拝して、この旅を終えるつもりだった。ところが現地まで来ると、我拝師山の中腹にある出釈迦寺の奥の院にも行ってみたくなった。空海が身を投じたと伝えられる場所は、麓にある出釈迦寺の境内ではなく、奥の院からさらに上の岩場にある。

ここまで来たのなら、その舞台となった自然環境を、少しでも自分の身体で感じてみたい。そう思い、予定を変更して奥の院を目指すことにした。まさか旅の最終日にも、再び山を登ることになるとは思っていなかった。前日は剣山と次郎笈を歩いたばかりである。それでも、急な坂道を約30分かけて登り、奥の院の堂宇までたどり着くことができた。

道を進むにつれて、出釈迦寺の境内は遠ざかり、周囲は深い山の空気に包まれていく。善通寺の広い境内や、金倉寺の落ち着いた伽藍とは、まったく異なる環境である。空海の物語を理解するためには、寺院や仏像を見るだけでなく、彼が登ったと伝えられる山へ入り、その地形を身体で感じることも大切なのかもしれない。

奥の院から、その先の「捨身の行場」を仰ぎ見る

約30分登り、出釈迦寺の奥の院に到着した。そこは、我拝師山の中腹に開かれた、静かで力強い場所だった。しかし、今回訪れたのは、あくまで奥の院の堂宇までである。

その先には、幼い空海が身を投じたと伝えられる「捨身の行場」がある。そこへ向かうには、通常の登山道ではなく、急峻な岩場を、鎖や岩の突起につかまりながら登らなければならない。事前に映像で確認すると、ほぼ垂直に見える岩壁をよじ登り、足を踏み外せば滑落しかねない場所だった。

一般の参拝者が、観光の延長で気軽に立ち入れる場所ではない。十分な登山経験と岩場を通過する技術、適切な装備が必要となる、本来の意味での「行場」である。私たちはその岩場には入らず、奥の院までとした。それでも、奥の院からその先にそびえる岩壁を仰ぎ見ることで、空海の捨身伝説が、どのような自然環境を背景に生まれたのかを想像することができた。

幼い真魚は、なぜこの山へ登ったのだろうか。なぜ、この険しい岩山で、自分の将来を仏に問おうとしたのだろうか。現在の私たちに、その内面を知ることはできない。しかし、実際に我拝師山へ入り、奥の院まで登ってみると、この物語が平地ではなく、人を寄せつけないような険しい岩山を背景に生まれたことが分かる。

伝説が文字どおりの出来事だったかどうかとは別に、この自然環境そのものが、幼い真魚から後の空海へとつながる「目覚め」の物語に、圧倒的な力を与えている。善通寺で見たのは、空海が生まれた場所だった。出釈迦寺の奥の院で感じたのは、その子どもが、やがて仏道へ向かっていく原点となった山の厳しさだった。

奥の院までの参拝路も急な坂が続くため、歩きやすい靴と体力は必要である。それでも、空海や四国仏教に関心のある方には、無理のない範囲で、奥の院まではぜひ訪れてほしいと思う。

ただし、奥の院から先の岩場へは、一般参拝者が安易に入るべきではない。奥の院から岩壁を仰ぎ見るだけでも、この場所の厳しさと、空海の伝説が生まれた自然の力は十分に感じられる。

空海の誕生から、密教の展開までをたどる

最終日の行程を振り返ると、善通寺、金倉寺、出釈迦寺という順番には、一つの流れがあった。善通寺では、空海の誕生と幼少期に触れた。金倉寺では、空海の親族でもあり、後に唐へ渡って台密を発展させた円珍の生涯を考えた。出釈迦寺では、幼い真魚が仏道へ向かう決意を示したという伝説に触れ、奥の院まで実際に足を運んだ。

空海の誕生。仏教への目覚め。唐への留学と密教の請来。そして、空海のあとに同じ讃岐から唐へ渡り、天台密教を発展させた円珍。寺院を一つずつ見るだけでなく、人物と土地の関係をたどりながら巡ることで、日本の密教史が一続きの物語として見えてきた。

旅を振り返りながら、高松空港へ

出釈迦寺をあとにして、旅仲間と今回の旅を振り返りながら、高松空港へ向かった。帰りの飛行機は、午後7時40分発の羽田空港行きである。時間には余裕があったため、慌てることなく、ゆっくりと空港へ移動した。高松空港に到着したあとは、空港内のラウンジで休みながら、飛行機の出発を待った。

初日に高松へ到着してから、屋島寺、金刀比羅宮、白人神社、磐境神明神社、高根資料館、劔神社、剣山、次郎笈、祖谷のかずら橋、善通寺、金倉寺、出釈迦寺と、本当に多くの場所を巡った。旅を終えて強く感じたのは、訪れた観光地の数ではなかった。

旅で大切なのは、人とのご縁

旅では、訪れる場所も大切である。寺院、神社、山、資料館、橋。そこへ行かなければ見られないものがあり、実際に身体を運ばなければ感じられないものがある。それ以上に大切なのは、旅を通して生まれる人とのご縁なのだと思う。

今回も、旅仲間と長い時間を過ごし、移動しながら、食事をしながら、山を歩きながら、さまざまな話をすることができた。一人で旅をしていたら、同じ場所を訪れても、まったく違う体験になっていただろう。誰かが「ここへ行ってみよう」と提案し、別の誰かが自分の知識や経験を話す。

予定していなかった次郎笈や出釈迦寺の奥の院まで足を延ばし、その体験をあとから一緒に振り返る。旅の価値は、目的地だけにあるのではない。同じ時間と場所を共有し、そこでどのような話ができたかにある。

今回も、普段の生活ではなかなかできない深い話をすることができ、本当に楽しかった。空海、最澄、円珍、密教、神道、古代ユダヤ、ソロモンの秘宝、平家の落人、そして剣山。異なる時代と物語をたどった4日間だったが、そのすべてをつないでいたのは、場所を訪れ、人と話し、自分の身体で感じるという体験だった。

飛行機を待ちながら、この旅で巡った場所と、そこで交わした会話を思い返した。観光地の記憶は、やがて少しずつ薄れていくかもしれない。しかし、人とのご縁や、深く語り合った時間は、その後も長く残っていく。それが、今回の旅で得た、最も大きなものだった。


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