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生命観の変遷シリーズ【第5回】分子の発見──物理学者が生物学に侵入したとき

カテゴリ:生命観の変遷シリーズ【第5回】/ 2026年

【生命観の変遷シリーズ】全10回(予定)

  • ① プロローグ──認識のOS から読む生命科学史
  • ② 生気論 vs 機械論──西洋が問い、東洋が問わなかったこと
  • ③ 代替医療の誕生──ホメオパシー・オステオパシー・ロルフィング
  • ④ 進化論の衝撃──傍流の博物学者が破壊した「目的」
  • ⑤ 分子の発見──物理学者が生物学に侵入したとき(この記事)
  • ⑥ 分子生物学の革命──主流が自ら規律を引き受けたとき
  • ⑦ 細胞のOS の半世紀──利根川・本庶・山中
  • ⑧ プログラマーたち──CRISPR・AI・自己規律の系譜
  • ⑨ 生命の地図の書き換え──ポストゲノム時代の認識のOS
  • ⑩ 還元主義の先にあるもの──東洋との対話、これから

※本シリーズでは、議論の流れと構造の把握を優先するため、文中の敬称は適宜省略している。


物理学者が生命の謎に向かったとき

第4回までで、私たちは19世紀の生命観の変遷を見てきた。生気論 vs 機械論の対立、代替医療の誕生、ダーウィンとメンデルによる進化論と遺伝学の誕生——19世紀末までに、生命科学は「生命は何かの法則に従っている」ことを確信するに至った。

しかし、20世紀前半に、まったく新しい認識のOS が生命科学に侵入してくる。

物理学である。

20世紀の物理学は、人類の認識を根本から書き換える革命を経験していた。アインシュタインの相対性理論(1905年・1915年)、ボーアとハイゼンベルクとシュレディンガーの量子力学(1925年-)——空間・時間・物質・エネルギーについての従来の理解が、すべて作り直された。

そして、量子力学を作った当の物理学者たちが、ある時点で生命の謎に向かっていく。「物理学が原子の構造を解明できたなら、遺伝子の構造も解明できるはずだ」——この直観が、彼らを生物学へと導いた。

第5回では、この物理学者の生物学侵入の物語を辿る。シュレディンガー、デルブリュック、ワトソン、クリック——彼らは皆、生物学の主流ではなかった。物理学の精神を持って生命の謎に挑んだ傍流たちである。

そして、その背景にはマンハッタン計画がある。同じ世代の物理学者たちが、原子爆弾と分子生物学という、20世紀を決定づける二つの革命に向かっていった。これは、第6回(アシロマ会議)への伏線となる。科学が世界を作り変える力を持ったとき、科学者は何を引き受けるべきか——この問いが、20世紀後半の生命科学を貫いていく。

Block 1:シュレディンガー『生命とは何か』──物理学者からの招待状

物語は1943年、戦時下のアイルランド・ダブリンから始まる。

エルヴィン・シュレディンガー(Erwin Schrödinger、1887-1961)——量子力学の創始者の一人、波動方程式(シュレディンガー方程式)の発見者、1933年ノーベル物理学賞受賞者——が、ダブリンのトリニティ・カレッジで、ある一連の連続講義を行った。

タイトルは、『生命とは何か?──生きた細胞の物理学的側面(What is Life? The Physical Aspect of the Living Cell)』

シュレディンガーがこの講義をしたのは、意外なほど一般向けだった。聴衆は400人を超え、戦時中にもかかわらずTime誌が記事として取り上げるほどの注目を浴びた。1944年、講義はケンブリッジ大学出版会から薄い本として刊行された。

この本が、生命科学の歴史を変えた。

シュレディンガーは、量子物理学者として、こう問うた——「遺伝子は、原子の集合体として、いかにして世代を超えて安定性を保つのか」。

当時の物理学では、熱力学第二法則——あらゆる物理系は時間とともに無秩序(エントロピー増大)に向かう——が絶対的な真理だった。だが、生命体は明らかに秩序を保ち続けている。なぜ生物は、エントロピー増大の宇宙的波に流されないのか。

シュレディンガーの答えは2つあった。

第一に、「負のエントロピー」を環境から取り入れる。生命は、外部から食物(秩序のあるエネルギー)を取り入れ、無秩序を環境に排出することで、自らの秩序を維持する。「生命は負のエントロピーを食べている」——これは後にシステム生物学散逸構造論(プリゴジン)に繋がる重要な洞察だった。

第二に、遺伝子は『非周期的結晶(aperiodic crystal)』である。普通の結晶は、同じパターンの繰り返しで構成される。だが遺伝子は、原子の配列パターンが繰り返さない——一定の構造的安定性を持ちながら、その配列に情報を担わせている。遺伝子は、原子レベルで書かれた『コード』である——これが、シュレディンガーの提示した革新的な見方だった。

そしてシュレディンガーは、本の最後でこう書いた——「生命を理解するためには、新しい物理学の法則が必要かもしれない」。

これは、物理学者たちへの招待状となった。生命の謎を解くために、物理学者よ、生物学に来るがいい——この呼びかけに、若き物理学者たちが応答していく。

そして、シュレディンガーがこの本を書く土台になっていたのは、1935年に発表された一つの論文だった。

「遺伝子変異と遺伝子構造の本質について(Über die Natur der Genmutation und der Genstruktur)」——著者は3人。ティモフェーエフ=レソフスキー、ジマー、そしてマックス・デルブリュック。シュレディンガー本の中核アイデア——遺伝子を原子的・物理的実体として捉える——は、この論文に基づいていた。

そして、デルブリュックこそが、物理学者が生物学に侵入する最初の主役だった。

Block 2:マックス・デルブリュック──ボーアの弟子から、生物学への越境

マックス・デルブリュック(Max Delbrück、1906-1981)は、ドイツのベルリンで、神学者の家系に生まれた。父はベルリン大学の歴史学教授、家族はドイツの知的エリートそのものだった。

デルブリュックは天才的な物理学者として頭角を現した。1929年にゲッティンゲン大学で物理学博士号を取得。ボーア、パウリ、ハイゼンベルク——量子力学の中心人物たちと直接交流した、最高峰の理論物理学者の一人だった。

しかし、デルブリュックは早くから生物学への関心を抱いていた。きっかけは、ニールス・ボーアの哲学だった。

ボーアは、量子力学の中心概念「相補性原理(complementarity principle)」を提唱していた。光は粒子であり、同時に波である——どちらか一方ではなく、両方の側面が必要だ。これは、量子レベルでは「観測すること自体が現象を変える」という、根源的な認識論である。

ボーアはこの相補性原理を、生命にも適用できると考えた。1932年、ボーアは「光と生命(Light and Life)」という講演を行い、こう問うた——「生命を物理化学に還元する分析と、生命を生命として捉える視点の、両方が必要なのではないか」。

デルブリュックはこの講演を聴き、生物学に転向することを決意した。彼の動機は、シュレディンガーと同じだった——「物理学では捉えられない、生命固有の法則があるかもしれない」。

1937年、デルブリュックは米国カリフォルニア工科大学(Caltech)に渡り、本格的に生物学を始めた。彼が選んだ研究対象は、バクテリオファージ——細菌に感染するウイルスの一種——だった。

なぜファージか。デルブリュックの選択には、物理学者の精神が表れていた。ファージは、生命の本質的特徴を持つ最も単純なシステムである。複製・遺伝・変異——これらの根本特徴を、ファージは数時間で見せてくれる。「生命の最小単位」として、ファージは物理学的な定量分析に最適だった。

デルブリュックは、Caltech とナッシュビルのヴァンダービルト大学を拠点に、「ファージ・グループ(Phage Group)」を組織した。サルバドール・ルリア、アルフレッド・ハーシー——優れた研究者たちが集まり、毎年夏にコールドスプリングハーバー研究所(CSHL)で研修会を開いた。これが、分子生物学誕生の場となっていく。

デルブリュック・ルリア・ハーシーは、1969年にノーベル医学生理学賞を共同受賞する。理由は、ファージの遺伝メカニズム解明に対する貢献である。

そしてデルブリュックの遺産は、ノーベル賞だけではない。「物理学の精神で生物学に取り組む」という認識のOS の確立——これこそが、彼が後の世代に渡したものだった。シュレディンガーの本を読んだ若い物理学者たちが、ファージ・グループに集まり、生物学に侵入していく。

その中の一人が、フランシス・クリックである。そしてもう一人、まったく別のルートから来た若者がいた——ジェームズ・ワトソンである。

Block 3:マンハッタン計画と分子生物学──双子の起源

ここで、重要な歴史的背景を確認しておきたい。

デルブリュックがファージ研究を始めた1937年から、シュレディンガーが『生命とは何か』を書いた1943年——この時期は、マンハッタン計画が進行中だった。

マンハッタン計画(1942-1946年)は、米国が原子爆弾を開発した極秘プロジェクトである。ロバート・オッペンハイマー、リチャード・ファインマン、ハンス・ベーテ、エドワード・テラー、エンリコ・フェルミ——20世紀の最も優れた物理学者たちが、ニューメキシコ州ロスアラモスに集結した。

そして1945年8月、広島と長崎に原子爆弾が投下される。物理学が、人類史を変える力を初めて示した瞬間だった。

戦後、マンハッタン計画に関わった物理学者たちは、深い倫理的危機に直面した。「自分たちが作った技術が、何十万人もの人々を一瞬で殺した」——この事実は、彼らの生涯の傷となった。オッペンハイマーは戦後、原爆開発を後悔し、水爆開発に反対してFBI の監視対象になり、政治的に追放された。アインシュタインは晩年、平和運動に身を投じた。

そして、ここにシリーズ全体の重要なテーマが立ち上がる。

マンハッタン計画と分子生物学は、同じ世代の物理学者たちによって、ほぼ同時期に開始されたシュレディンガー、デルブリュック、シラード、ボーア——彼らは、原子のレベルで物質を理解し、操作する技術を持っていた。その技術を物質に向ければ核兵器になる。生命に向ければ分子生物学になる。

両者は、同じ知的革命の双子の表現だった

そして、マンハッタン計画の倫理的危機は、分子生物学の発展に直接的な影響を与える。第6回で詳しく扱うが、1975年のアシロマ会議で、生物学者たちが「自ら自己規律を引き受ける」決断をしたとき、彼らはマンハッタン計画の教訓を強く意識していた。「物理学者がしなかった自己規律を、生物学者は最初から行おう」——この精神が、戦後の生命科学を形作っていく。

ここに、シリーズ全体を貫く第二の軸——「主流が自ら倫理を引き受ける歴史」——の起源がある。マンハッタン計画 → アシロマ会議(1975年)→ ナパ会議(2015年、第8回)→ AGI 開発の倫理(2020年代)——この流れは、20世紀後半から21世紀の科学の通奏低音である。

そして、その間にあるのが、ワトソンとクリックによるDNA二重らせんの発見である。

Block 4:ワトソンとクリック──傍流たちの結合

ジェームズ・ワトソン(James Watson、1928-)は、シカゴ郊外で生まれた鳥類観察少年だった。子どもの頃から鳥類学に夢中で、ラジオ番組「Quiz Kids」に出演する天才少年として知られた。15歳でシカゴ大学に飛び級入学し、動物学を学んだ。

ワトソンの転機は、シュレディンガー『生命とは何か』との出会いだった。1946年、18歳のワトソンはこの本を読み、衝撃を受けた——「鳥類学ではなく、遺伝子の研究をすべきだ」。彼は鳥類学者になる夢を捨て、遺伝学者になることを決意した。

1947年、ワトソンはインディアナ大学のサルバドール・ルリア(デルブリュックの仲間)の下で博士課程を始める。ファージ・グループの一員として、彼は遺伝子の物理的本質を解明することに人生を賭けた。

1951年、22歳のワトソンは、英国ケンブリッジ大学のキャヴェンディッシュ研究所に研究員として移った。そこで、フランシス・クリックと出会う。

フランシス・クリック(Francis Crick、1916-2004)は、ワトソンより12歳年上の英国人物理学者だった。彼の経歴も非典型的だった。物理学を学んだ後、第二次世界大戦中は英国海軍で機雷研究に従事した。戦後、生物学に転向することを決意し、ケンブリッジで博士号取得を目指す35歳の遅咲きの大学院生だった。

クリックの転向のきっかけも、シュレディンガー『生命とは何か』だった。彼は後にこう語っている——「この本が、生物学への私の関心の中核を形成した」。

ワトソンとクリックは、奇妙なペアだった。鳥類観察少年の天才(22歳)と、戦争中に機雷を研究していた物理学者(35歳)。専門も世代も違う。だが、二人とも生物学の主流ではなかった——傍流の物理学的精神を持つ越境者だった。

二人は、ケンブリッジで研究を始めた瞬間から、「DNAの構造を解明する」という大胆な目標を立てた。当時、DNAが遺伝物質であることは、1944年のオズワルド・エイブリーの肺炎双球菌実験1952年のハーシー&チェイスのファージ実験で示されていた。だが、DNAがどのような構造を持っているかは、まだ謎だった。

そして、二人には強力なライバルがいた。

Block 5:3つの研究グループ──競争と協力の構造

DNAの構造解明をめぐる競争は、3つの研究グループの間で繰り広げられていた。

第一に、ワトソンとクリック(ケンブリッジ・キャヴェンディッシュ研究所)。実験データはほとんど持たないが、モデル構築(model building)——既存のデータから3次元構造を組み立てる——という、ライナス・ポーリングが開発した方法で挑んだ。

第二に、ロザリンド・フランクリンとモーリス・ウィルキンス(ロンドン・キングス・カレッジ)X線結晶構造解析の専門家。実際にDNAを撮影して、その構造を直接観察できる立場にあった。

第三に、ライナス・ポーリング(カリフォルニア工科大学)。当時、世界最高の構造化学者。1951年にタンパク質のα-ヘリックス構造を発見していた。「ポーリングがすぐにDNAを解明する」と、誰もが思っていた。

そして、ロザリンド・フランクリン(Rosalind Franklin、1920-1958)の物語を、特に詳しく語る必要がある。

フランクリンは、ロンドンの裕福なユダヤ人家庭に生まれた。ケンブリッジ大学で化学を学び、X線結晶構造解析の専門家となる。1951年、キングス・カレッジに着任し、DNAのX線回折研究を始めた。

フランクリンの仕事は、極めて精密だった。彼女は、DNAには乾燥型(A型)と湿潤型(B型)の2つの形態があることを発見した。そして1952年5月、フランクリンと大学院生レイモンド・ゴスリングは、B型DNAの完璧なX線回折写真——後に「Photo 51」と呼ばれる——を撮影した。

この写真は、DNAが二重らせん構造を持つことを、はっきりと示していた。

しかし、フランクリンは慎重な研究者だった。彼女は、写真だけから結論を急がず、詳細な数学的解析を進めていた。

そして1953年1月、状況が一変する。ライナス・ポーリングが、DNAの構造についての論文を発表した。彼の提示した構造は——三重らせんだった。しかも、化学的に間違っていた。世界最高の構造化学者が、三重らせんの誤った構造を発表したのである。

この論文を読んだワトソンとクリックは、「ポーリングはまだ正解を得ていない」と理解した。だが、ポーリングが間違いに気づいて修正するまでに、時間はあまりない。競争の最終段階が始まっていた。

そして1953年1月30日、ワトソンはロンドンのキングス・カレッジを訪れた。彼の本来の目的は、フランクリンにポーリングの失敗論文を見せ、議論することだった。だが、フランクリンとワトソンは、激しく口論になった。

会話が決裂した後、ワトソンが廊下に出ると、ウィルキンス(フランクリンの同僚で、共同研究者でもあり競合でもあった)が彼を呼び止めた。そして、ウィルキンスはワトソンにPhoto 51を見せたフランクリンの了承を得ずに、である

ワトソンは、その瞬間こう書いている——「私が写真を見た瞬間、私の口は開きっぱなしになり、私の脈拍は跳ね上がった」。Photo 51 は、明確に二重らせん構造を示していた

ワトソンとクリックは、Photo 51 の情報を活用して、急速に正しいモデルを組み立て始めた。彼らはまた、フランクリンが内部で執筆していた詳細な研究報告書(外部委員会向けのもの)を、マックス・ペルツを通じて入手した。これも、フランクリンの了承を得ずに、である。

そして1953年2月28日の朝、ワトソンは紙の切り抜きで塩基対(A-T、G-C)の構造を発見した。これがDNAの二重らせんの最後の鍵だった。A、T、G、Cの4つの塩基が、特定のペアを形成して、二重らせんの内部で水素結合する——これが、DNAが正確に複製できるメカニズムを物理化学的に説明していた。

1953年4月25日、Nature 誌に3つの論文が同時に掲載された。

第一論文:ワトソンとクリック「核酸の構造」。たった1ページの歴史的論文。 第二論文:ウィルキンス、ストークス、ウィルソン「核酸の分子構造」。 第三論文:フランクリンとゴスリング「核酸の分子構造」。

そしてワトソンとクリックの論文の有名な一文——「私たちが提唱した特異的な対形成は、遺伝物質のコピー機構を直ちに示唆している」——これは、科学史上もっとも控えめな表現として知られている。

Block 6:フランクリンの不在──科学の中の「見えなかった」貢献

しかし、この物語には、深い倫理的影が残っている。

ロザリンド・フランクリンは、1958年に卵巣がんで37歳で亡くなった。彼女の死の4年後、1962年にワトソン、クリック、ウィルキンスノーベル医学生理学賞を共同受賞した。ノーベル賞は故人には授与されない規則のため、フランクリンは候補に上らなかった。

フランクリンの貢献は、長く正当に評価されなかった。1968年、ワトソンが出版した自伝『二重らせん(The Double Helix)』では、フランクリンを「ロージー(Rosy)」と呼び(彼女は実際にはこう呼ばれていなかった)、「気難しく、協調性のない、女性らしくない」と描写した。

歴史の再評価は、ゆっくりと進んだ。1970年代以降、フランクリンの伝記、彼女の研究ノートの分析、当時の同僚たちの証言を通じて、彼女の貢献の大きさが明らかになっていった。

そして近年、さらに微妙な事実も明らかになっている。フランクリンの書いた研究報告書を、ワトソンとクリックは見ていた。だが、彼女自身も実は二重らせん構造に近づいていた——彼女のノートには、二重らせん構造の手書き計算が残されている。もし彼女が亡くならず、もう少し時間があれば、彼女自身が二重らせんを発表していた可能性もある

これは、本シリーズで何度も見るパターンのもう一つの例である——主流の発見が、見えない貢献者によって支えられている。第8回で見たEric Lander の「The Heroes of CRISPR」による主流側からの歴史書き換えと、構造的に同じ問題である。

そして、現代のロザリンド・フランクリン研究は、Photo 51 の意味を相対化する方向にも進んでいる。彼女の真の貢献は、Photo 51 の一枚の写真ではなく、何年もの慎重な実験と数学的解析の蓄積だった。「Photo 51 を盗まれた悲劇のヒロイン」という単純化された物語自体も、彼女の本当の業績を隠してしまうことがある。

これは、シリーズ全体を貫く「歴史をどう書くか」という問題を、深く問いかける事例である。

Block 7:DNA二重らせんの意味──認識のOS の根本的転換

DNAの二重らせん構造発見は、生命科学の認識のOS を根本から書き換えた。

第一に、生命の物質的基盤が確定した。生命は、もはや「神秘的な力」でも「不可解な原理」でもない。特定の分子(DNA)の物理化学的構造として、説明可能だった。これは、第2回で見た生気論 vs 機械論の戦いに、機械論側が決定的な勝利を収めた瞬間だった。

第二に、遺伝の仕組みが分かった。DNA二重らせんは、塩基対の特異的なペアリング(A-T、G-C)によって、自己複製のメカニズムを物理化学的に持っている。子が親の特徴を受け継ぐ——というメンデルの観察が、分子レベルで説明された

第三に、新しい研究プログラムが立ち上がった。DNA構造が分かれば、次は「DNA配列がどのようにタンパク質を作るのか(遺伝暗号)」「タンパク質はどのように生命を作るのか」「生命はどのように進化するのか」——これらの問いに、分子レベルで答えていける。1950年代から1960年代、分子生物学は爆発的に発展する

第四に、生命を編集する可能性が見えた。DNAが分子として理解されたことで、いつかDNAを操作できることも見えてきた。これは1970年代の組換えDNA技術(第6回)、そして21世紀のCRISPR-Cas9(第8回)へと繋がっていく。

そして、ワトソンとクリックの発見は、シリーズの中央軸を確立した。「分子で生命を捉える」という認識のOS は、ここから始まった。ヒトゲノム計画(2003年)まで、生命科学はこの OS の延長線上で発展した

しかし——そしてここがシリーズ全体のポイントだが——この OS には限界があった。第9回(ポストゲノム時代)で見るように、ヒトゲノム解読後、生命科学は「DNA配列だけでは生命は分からない」という地点に到達する。エピジェネティクス、マイクロバイオーム、システム生物学——分子で還元するアプローチの限界が、21世紀になって明確になってきた。

つまり、ワトソンとクリックが切り拓いた認識のOS は、20世紀後半の50年間を支配し、そして自らの限界に到達した。これが、本シリーズが辿る生命科学の全体的な軌跡である。

エピローグ──物理学者たちの遺産と、次の章へ

第5回を閉じるにあたって、シリーズの大きな弧を確認したい。

シュレディンガー、デルブリュック、ワトソン、クリック——彼らは皆、生物学の主流ではなかった。物理学から越境してきた傍流の科学者たちだった。別の認識のOS を持って侵入し、生物学そのものを書き換えた——これは、本シリーズで何度も見るパターンの、20世紀前半における最も重要な現れである。

そして、フランクリンの物語は、シリーズのもう一つのテーマ——「主流が見えない貢献者を覆い隠す」——を浮かび上がらせる。これは第7回(細胞のOS)の本庶、第8回(プログラマーたち)のEric Landerによる歴史書き換え、と同じ構造を持つ問題である。

そして、マンハッタン計画と分子生物学が双子の起源を持つという事実は、シリーズ全体を貫く第二の軸——「主流が自ら倫理を引き受ける歴史」——の出発点となる。物理学者がしなかった自己規律を、生物学者は最初から行おう——この精神が、戦後の生命科学を形作っていく。

第6回では、その物語を扱う。1970年代、組換えDNA技術が登場した時、生物学者たちは何を選んだのかポール・バーグ、デイヴィッド・ボルチモアらによる1975年のアシロマ会議——科学者が自ら自己規律を引き受けた、歴史的な瞬間である。

第6回もお楽しみに。

次回予告──第6回「分子生物学の革命」

次回・第6回では、1953年のDNA二重らせん発見から1975年のアシロマ会議までの20年間を辿る。

スタンレー・コーエンとハーバート・ボイヤーの組換えDNA技術(1972年)——遺伝子を人工的に組み合わせることが可能になった瞬間。カリコ・カタリンのmRNA研究——30年無視され、最終的にCOVID-19ワクチンを生んだ研究の物語。

そして、1975年2月、カリフォルニア州アシロマ——世界中の生物学者100人以上が集まり、「自分たちで自己規律を作ろう」と決議した歴史的な会議。ポール・バーグ、デイヴィッド・ボルチモア、シドニー・ブレナー、ジョシュア・レダーバーグ——彼らが残した遺産は、CRISPR時代の今も生きている。

第6回では、主流が自ら倫理を引き受ける歴史の出発点を辿る。

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主要参考文献:

  • エルヴィン・シュレディンガー『生命とは何か──物理的にみた生細胞』(岡小天・鎮目恭夫訳、岩波文庫、2008年復刊)
  • ジェームズ・D・ワトソン『二重らせん』(江上不二夫・中村桂子訳、講談社文庫)
  • ブレンダ・マドックス『ダークレディと呼ばれて──二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実』(鹿田昌美訳、化学同人、2005年)
  • ホレース・F・ジャドソン『分子生物学の夜明け(上・下)』(野田春彦監訳、東京化学同人)── 分子生物学史の古典
  • フランソワ・ジャコブ『生命の論理』(1970年)

前回:[④ 進化論の衝撃──傍流の博物学者が破壊した「目的」] 次回:[⑥ 分子生物学の革命──主流が自ら規律を引き受けたとき](公開予定)

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