1. HOME
  2. ブログ
  3. 視点のOS(辿る)
  4. 剣山への旅・2日目──山に登る前に「ソロモンの秘宝伝説」をたどる
BLOG

ブログ

視点のOS(辿る)

剣山への旅・2日目──山に登る前に「ソロモンの秘宝伝説」をたどる

2026年8月22日(土)、旅の2日目。1日目の模様については「香川県(高松)・徳島県(剣山)への3泊4日の旅をスタート──屋島寺で、鑑真と空海がつながった」に紹介した。

朝、ホテルの前で今回の旅仲間と合流し、いよいよ剣山方面へ向けて移動を始めた。

剣山に実際に登るのは翌日の予定である。この日はまず、剣山をめぐって語り継がれてきた、もう一つの物語──「ソロモンの秘宝伝説」の背景をたどることにした。

白人神社から始まった、剣山伝説への入口

最初に訪れたのは、徳島県美馬市穴吹町に鎮座する白人神社(しらひとじんじゃ)である。

白人神社は、応神天皇を主祭神とする古い神社である。「白人」という珍しい名前の由来については諸説あるようだが、境内には立派な社殿が建ち、深い森に包まれた静かな空気が漂っていた。

境内で目を引いたのが、兎をかたどった石灯籠である。

「白人」という社名と白い兎を結びつけ、白人神社を『古事記』に登場する因幡の白兎神話と関連づける見方もあるという。ただし、これは音やイメージの類似から導かれた伝承的な解釈であり、歴史的に確認された由緒ではない。

それでも、このあと高根資料館で触れることになる「言葉の音から、表面には見えない関係を読み解く」という発想を考えると、兎の石灯籠は、この日の旅を象徴する最初の手がかりのようにも見えた。

しかし、今回の大きな目的は、白人神社そのものだけではなかった。白人神社から歩いて行ける山中には、その奥宮とされる磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ)がある。

急な階段の先に現れた、異形の祭祀空間

磐境神明神社へ向かうには、木々に囲まれた急な階段を登っていかなければならない。階段を上っていくにつれ、周囲は次第に薄暗くなり、日常の空間から少しずつ切り離されていくような感覚があった。

そして、その先に現れたのが、一般的な神社の姿とは明らかに異なる、四角い石積みに囲まれた祭祀空間である。

磐境神明神社は、全国でも珍しい石室造り(磐境造り)の神社とされている。石で囲まれた石室の中には四つの祠が祀られており、通常の神社に見られる社殿を中心とした構造とは、かなり印象が異なっていた。

「磐境(いわさか)」とは、本来、神が降臨すると考えられた岩石を中心に区切られた神域を意味する。

現在のような社殿が広く建てられるようになる以前、人々は岩や樹木、山そのものを神の依り代として祀っていた。磐境神明神社の石積みも、まずは日本古来の祭祀の形を思わせるものとして見ることができる。

一方、その長方形に区切られた石室状の構造が、古代イスラエルの祭祀場に似ているという見方もある。

この独特な構造が日ユ同祖論と結びつき、磐境神明神社は、古代ユダヤ人が阿波へ渡来した痕跡の一つとしても語られるようになった。この地域には、古代ユダヤとのつながりを感じさせるとされる言い伝えや場所が、ほかにも数多く残されている。磐境神明神社も、美馬市と古代ユダヤとの関係を示す場所の一つとして紹介されている。

日本古来の磐境祭祀なのか、それとも古代イスラエルとの交流を伝えるものなのか。

歴史的に確認されていることと、その後に生まれた解釈や伝説は、分けて考える必要がある。

日ユ同祖論には、それを裏づける決定的な学術的証拠があるわけではない。現在では、歴史学的に実証された説というより、日本の古代史をめぐる異説や伝説の一つとして扱われている。それでも、実際に急な階段を登り、木々に囲まれた石室の前に立ってみると、単に「根拠のない話」と言って通り過ぎることのできない、不思議な感覚が残った。

普段訪れる神社で感じる神聖さとは、どこか種類が違う。外から石積みを眺めるだけでなく、その内側に入ると、周囲から閉ざされた祭祀空間に自分の身体ごと置かれたような感覚があった。石によって区切られたその場所には、何か古い記憶が封じ込められているような雰囲気があり、面白い場だった。

「剣山にソロモンの秘宝が眠る」という伝説

白人神社と磐境神明神社を訪れたあと、「農家レストラン・風和里」で昼食をとり、この日の主要な目的地である高根資料館へ向かった。

ここで、今回の旅の背景にある「剣山ソロモン伝説」について、簡単に説明しておきたい。この伝説は、旧約聖書に登場する「契約の箱(アーク)」、いわゆるソロモンの秘宝が、徳島県の剣山に隠されているというものである。

紀元前1000年頃、古代イスラエル王国は、第3代の王であるソロモンの時代に最盛期を迎えたとされている。首都エルサレムに造られた神殿の至聖所には、神とイスラエルの民との契約を象徴する「契約の箱」が安置されていたという。その中には、モーセが神から授かった十戒の石板、アロンの杖、マナの壺が収められていたと伝えられている。

しかし、ソロモン王の死後、イスラエル王国は南北に分裂した。その後、北王国はアッシリアに、南王国は新バビロニア王国に滅ぼされ、エルサレム神殿も破壊された。この過程で、契約の箱の行方は分からなくなった。以来、その所在をめぐって、エチオピアをはじめ世界各地にさまざまな説が生まれた。その候補地の一つとして、遠く離れた日本、しかも四国の剣山を挙げた人物がいた。

それが、高根正教である。

高根正教が読み解いた、四国と『ヨハネの黙示録』

高根正教は、小学校教員、のちに校長を務める一方で、聖書、言霊、日本の古代史について研究を続けた人物である。40歳で教職を退いた後は、研究に一層没頭していったという。

高根が注目したのは、『ヨハネの黙示録』第4章に登場する四つの生き物である。そこには、獅子、雄牛、人、鷲という四つの生き物が描かれている。高根はこれらを、独自の言霊学によって、四国四県を表す暗示であると解釈した。

獅子は、ライオンの「雷音」と鳴門の渦潮を結びつけ、阿波、つまり徳島を示す。雄牛は、地図上で牛のように見える讃岐、つまり香川を示す。人は、冠をかぶった人のように見える伊予、つまり愛媛。そして鷲は、翼を広げた形に見える土佐、つまり高知を示すと考えた。

さらに高根は、『古事記』の国産み神話において、四国が「面四つ有り」と記されていることと結びつけ、『ヨハネの黙示録』は四国について暗示的に語っていると考えた。

そして、黙示録に記された「天の聖所」と、そこに現れる「契約の箱」を剣山に結びつけ、ソロモンの秘宝が剣山に隠されているという独自の結論に達したのである。

高根はさらに、アレキサンダー大王が自らの死を偽装して日本に渡り、第10代崇神天皇として生きたとも考えた。そして、田道間守をエルサレムへ派遣し、契約の箱を日本へ運ばせたという壮大な仮説を展開した。

現代の歴史学や聖書学の立場から見れば、そこには大きな論理の飛躍があり、学術的に実証された説ではない。しかし、高根にとって、それは机上の空論ではなかった。

自説を確かめるため、剣山を実際に掘った

1936年、高根正教は、自らの仮説を確かめるために剣山山頂付近の発掘調査を始めた。その発掘は、3度にわたって行われたという。高根が特に注目したのは、山頂付近の鶴岩・亀岩と呼ばれる奇岩の周辺だった。高根は、「鶴」と「亀」を合わせると「剣」につながるという言霊的な解釈を行い、この場所に秘宝が隠されていると考えた。

発掘によって、巨大な玉石、大理石を磨いたような「鏡石」、レンガで造られた馬蹄形のアーチなどが見つかったと、高根側の記録には残されている。高根は、これらを自然に形成されたものではなく、人為的に造られた構造物の一部と考えた。

しかし、これらの出土物が本当に人工物であったのか、また、それがソロモンの秘宝や古代イスラエルと関係していたのかは確認されていない。高根の主張と、歴史学的に確かめられた事実は、分けて考える必要がある。

発掘調査は、資金不足や当局による取り調べ、さらに第二次世界大戦の影響によって、中断を余儀なくされた。戦後に再開されたものの、最終的に、契約の箱や秘宝と直接結びつくものが確認されることはなかった。高根は1952年、それまでの研究成果を『四国剣山千古の謎』として刊行した。

息子の高根三教も父の研究を受け継ぎ、『ソロモンの秘宝──四国・剣山に眠る黙示録』や『アレキサンダー大王は日本に来た』などの著書を残した。

高根親子のあとにも、剣山の秘宝を探そうとした人々が現れた。元海軍大将の山本英輔らによる発掘隊が組織され、さらに、剣山に寝泊まりしながら長年にわたって秘宝を探し続けた人物もいたという。1964年、剣山一帯が国定公園に指定されたことによって、発掘調査は事実上困難になった。

それでも、剣山の地下には何かがあるのではないかという物語は消えず、現在まで語り継がれている。興味深いのは、一人の人物が、自らの読み解いた世界を確かめるために、実際に山へ入り、地面を掘ったという事実である。一つの仮説が、一人の人間をどこまで動かすのか。

高根正教の人生を眺めると、映画『インディ・ジョーンズ』を思い出さずにはいられない。もちろん、インディ・ジョーンズは架空の考古学者である。一方、高根正教は、自分の時間と財産を投じて、現実の山を掘り続けた人物だった。

その仮説が正しかったかどうかとは別に、高根正教の人生そのものが、剣山ソロモン伝説を構成する壮大な物語の一部になっていて、面白かった。

高根資料館で、伝説を生きた人々の資料に触れる

高根正教・三教親子の研究と活動の軌跡を伝えているのが、2022年8月に開館した高根資料館である。資料館を建てたのは、隣接する白地山地蔵寺の住職、粟飯原(あいはら)興禅氏である。

高根親子が地蔵寺で永代供養された縁から、二人が残した研究資料を粟飯原住職が預かることになった。それらを散逸させず、後世へ伝えるために、高根資料館が設立されたという。館内には、高根親子の著書や未発表原稿、手書きの解説、剣山山頂付近の図面、発掘現場の写真、当時の新聞記事などが展示されている。

なかでも目を引くのが、発掘によって見つかったとされる「鏡石」に関する資料である。高根は、この石の表面が人為的に磨かれていると考え、剣山の地下に人工的な構造物が存在する証拠の一つと捉えた。

現物や写真、図面が、それだけで高根説を証明するわけではない。それでも、こうした資料を前にすると、彼らが剣山で何を見て、なぜ発掘を続けようとしたのかを、少しだけ追体験することができる。

展示されているのは、伝説を証明する「確定した物証」ではない。むしろ、伝説を信じ、その答えを求め続けた人々が残した探究の痕跡と言えるのではないかと思う。

粟飯原住職から聞いた、高根親子の人生

今回何より貴重だったのは、展示を見るだけでなく、粟飯原興禅さんご本人から直接お話を伺えたことである。資料館に立ち寄り、展示を見て終わるつもりだったのだが、粟飯原住職のお話は予想をはるかに超えて広がっていった。

高根親子の研究、剣山での発掘、鏡石、言霊、古代ユダヤ、空海、木内鶴彦氏の臨死体験、そして剣山に立つとされる「光柱」の話まで、次々と話題がつながっていった。その内容をどこまで事実として受け取るかについては、別としても、展示資料だけでは知ることのできない、高根親子の人生と、剣山をめぐる伝説が今も生き続けている様子を、直接伺うことができたのは貴重だった。

高根正教は、1936年から3度にわたり、剣山山頂付近の鶴亀岩周辺を発掘した。

資料館に残された図面や写真を見ると、岩の下へ向かって掘り進み、掘り出した石を脇に積み上げていた様子が分かる。高根は本来、地下へ螺旋状に掘り進めようとしていたともいう。発掘の過程では、巨大な玉石、表面を磨いたような鏡石、レンガを積んだような構造物などが見つかったと記録されている。高根は、これらを剣山の地下に人工的な構造物が存在する証拠と考えた。

粟飯原住職によれば、高根家は、もともと相当な資産を持っていたという。しかし、正教は研究と発掘に私財を投じ、協力者の滞在費や、実際に山を掘る人々の賃金まで負担した。親子二代にわたって研究を続けた結果、晩年の三教氏には、ほとんど財産が残っていなかったという。

この話を聞いたとき、高根親子に対する見方が少し変わった。単に奇抜な説を唱えて注目を集めようとしたのではなく、自分たちの信じたものを確かめるために、時間と財産、そして人生そのものを注ぎ込んだことの凄さとしてだ。

粟飯原住職が高根親子の資料を引き受け、資料館を建てた背景には、その研究内容だけでなく、二人の生き方を残したいという思いもあったのではないかと感じた。

「100体のミイラ」は、本当に発見されたのか

剣山の発掘をめぐる伝説のなかでも、特に驚かされるのが、「100体のミイラが発見された」という話である。戦後、元海軍大将の山本英輔らが高根の発掘跡をさらに掘り進めた際、地下から多数のミイラが見つかったと語られてきた。しかし、粟飯原住職のお話では、それを確定できる資料は見つかっていないという。

徳島の新聞に掲載されたとされるものの、その記事自体を確認できず、後に雑誌へ掲載されたミイラの写真も、剣山の発掘現場で撮影されたものではない可能性があるという。

一方、当時の資料には、「人骨らしきものを発見した」と読める記述も残されている。つまり、何らかの骨が見つかった可能性はあるが、それが「100体のミイラ」だったと断定することはできない。

興味深かったのは、粟飯原住職が伝説を一方的に事実として語るのではなく、確認できる資料と、後から膨らんだ可能性のある話を分けて説明していたことである。伝説は、人から人へ伝わる過程で大きくなる。高根資料館は、その伝説を楽しむ場所であると同時に、どこまでが記録に残り、どこからが推測なのかを考える場所でもあった。

木内鶴彦氏と「鏡石」の物語

粟飯原住職のお話のなかで、もう一人、頻繁に登場した人物がいた。彗星捜索家として知られる木内鶴彦氏である。

木内氏は22歳のときに重い病気で心肺停止となり、臨死体験をした人物としても知られている。木内氏自身は、その体験のなかで、過去や未来、宇宙の始まりなどを見たと語っていた。

粟飯原住職は木内氏と何度も交流し、一緒に剣山へ登ったこともあったという。木内氏は、剣山の次郎笈付近にある「鏡石」を見たとき、「これは以前に見たことがある」と語ったという。そして、その石は、古代の人々が光による通信を行うために作ったものだと説明したそうだ。

さらに、剣山には一定の周期で「光柱」が立つという伝承があり、それが古代から剣山が聖地とされてきた理由の一つだという話にもつながっていった。もちろん、これらは木内氏の臨死体験と、それに基づく見解であり、考古学的、歴史学的に確認された事実ではない。

それでも興味深いのは、「鏡石」という同じものを、高根正教は発掘の物証として捉え、木内氏は古代の通信装置として捉えたことである。一つの石が、見る人の持つ世界観によって、まったく異なる意味になる。ここにも、人間が風景に意味を与え、物語を生み出していく過程を見ることができると思う。

空海、古代ユダヤ、日本神道へ広がる話

粟飯原住職のお話は、剣山のソロモン伝説だけにとどまらなかった。古代ユダヤと日本人との関係、空海、キリスト、言霊、日本神道、四国八十八ヶ所へと、次々に広がっていった。

高根正教は、聖書は日本語の言霊によって読み解くことができると考えていた。『ヨハネの黙示録』の「ヨハネ」を「四十八音」と結びつけ、聖書に記された言葉や数字を、日本語の音と意味によって読み直そうとしたのである。

これも、現代の言語学や聖書学に基づく読み方ではない。しかし、高根にとって日本語は、単なる意思伝達の道具ではなく、世界の起源や構造を明らかにする鍵だった。

さらに話は、空海にも及んだ。

空海が唐で密教を学び、帰国後に高野山を開いたこと、四国各地に空海の伝承が残されていること、さらに高野山で最初に祀ったのは仏ではなく、丹生明神・高野明神という日本の神々だったことなどから、仏教の背後には、より古い日本の信仰があるのではないかという見方である。

今回の旅は、もともと空海ゆかりの地を訪ねることも目的の一つだった。初日に屋島寺を訪れ、鑑真から最澄、空海へとつながる仏教史を考えた。そして2日目には、同じ空海が、古代ユダヤや日本神道、剣山の伝説と結びつけて語られている。

学問としての仏教史と、土地に残る伝承の世界。その二つは同じものではない。しかし、四国では両者が複雑に重なりながら、独特の文化的風景を形づくっているように感じられた。

翌日訪れる鶴亀岩を、写真と図面で見る

粟飯原住職は、翌日私たちが登る剣山の写真を示しながら、高根正教が発掘した場所について説明してくださった。その場所は、山頂付近にある鶴岩・亀岩の周辺である。

高根は、「鶴」と「亀」を合わせると「剣」につながるという言霊的な解釈を行い、この場所に秘宝が隠されていると考えた。

写真には、鶴亀岩の下へ続く発掘跡と、掘り出された石を積み上げたとされる場所が写っていた。

高根は岩の下を掘り進め、地下へ向かう経路を開こうとしていた。現場には、当時掘り出した石を積んだ場所が今も残っているという。翌日、実際にその近くを歩く予定だと伝えると、粟飯原住職は現地への行き方についても詳しく説明してくださった。資料館で図面や写真を見ることと、翌日、その場所へ自分の足で向かうこと。

この二つがつながったことで、剣山の伝説は単なる読み物ではなく、実際の地形を伴ったものになった。真偽を確かめることはできなくても、高根親子が見た岩を自分たちも見て、その発掘跡の近くに立つことはできる。そのことが、翌日の登山を一層楽しみなものにした。

山に登る前に、物語の地図を手に入れる

白人神社、磐境神明神社、そして高根資料館。この日に訪れた三つの場所は、翌日に登る剣山を、単なる標高1,955メートルの山とは異なる姿で見せてくれた。この日はまだ、剣山の山頂には立っていない。

しかし、翌日、自分たちが歩くことになる山道のさらに奥には、高根正教たちが発掘したとされる場所がある。山頂付近には、鶴岩・亀岩、御塔石、宝蔵石などの巨石があり、その地下に何かが隠されていると信じた人々がいた。

伝説が真実かどうかは分からない。

けれども、山へ登る前に、その山を何十年にもわたって見つめ、掘り、人生をかけた人々の存在を知った。そのことによって、翌日の剣山登山は、風景を見るだけの登山とは違ったものになろうとしていた。山の地表を歩く前に、私たちは、その地下に眠るとされてきた物語に触れたのである。

翌日、いよいよ剣山へ登る。そのとき、山頂に見える岩や祠、神社、そして眼下に広がる風景は、どのように見えるのだろうか。登山を前にして、私たちはすでに、剣山をめぐる壮大で奇妙な「物語の地図」を手にしていた。

次に、翌日の登山の模様について紹介したい。

参考サイト

関連記事