感性は身体で育つ——バカラのグラスから考える
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「Fragile Light」という入口
京都・下鴨、糺の森の西に井村美術館がある。1981年の開館以来、幕末以降の近代有田美術陶芸を中心に、歴史のなかに埋もれかけた作品を蒐集し、研究し、後世へ引き継ぐことを理念として掲げてきた美術館である。地階の展示室には十代今右衛門、十一代柿右衛門以降の作品が並び、1階のギャラリーではオールドバカラを中心とした西洋アンティークを扱っている。
そこで開かれていた「Fragile Light ― 仄かな光 ―」展を観た。12名のクリエイターが井村コレクションと共演する企画である。失われたイメージや壊れてしまったもの、壊れやすいものたちを、それぞれの視点と感性によって再編し、新たなかたちと意味を与える。案内文にはそう記されていた。

実際の会場は、その趣旨のとおりだった。古いものと新しいものが同じ空間で響き合い、どちらがどちらを照らしているのかわからなくなる瞬間がある。骨董、工芸、現代美術、デザインといった既存の区分が、会場のなかで意味をなくしていた。
そしてその余韻のまま、館長・井村欣裕さんの講演を聴いた。オールドバカラのコレクションを通して日本文化を考えるという内容だった。以下には、講演で聴いた話に加えて、後から自分で調べて補った内容も含んでいる。
五百年の助走——王権が芸術を抱えるということ
話は500年前から始まった。
フランス王フランソワ1世は、1515年のマリニャーノの戦いに勝利してミラノを手に入れる。当時ミラノのスフォルツァ家に仕えていたのがレオナルド・ダ・ヴィンチだった。翌年、レオナルドはフランスへ移り、アンボワーズ近郊のクロ・リュセ城で晩年を過ごす。イタリア・ルネサンスの美が、王の手で丸ごと国境を越えた瞬間である。
重要なのは、これが個人の趣味ではなく国家の事業として行われたことだ。王権が芸術を抱え、庇護し、育てる。この図式がフランスの背骨として残っていく。
その系譜のずっと先に、19世紀のナポレオン3世が現れる。亡命先のロンドンで計画的な街並みや公園、上下水道を見た彼は、1853年にオスマンをセーヌ県知事に任命し、パリの大改造に着手させた。放射状の大通り、統一された建築線、上下水道と公園。現在のパリの骨格は、このときにつくられている。
そして同じ皇帝の号令のもとで開かれたのが、1867年のパリ万国博覧会だった。街づくりと万博は別々の出来事ではなく、一つの事業の表と裏である。新しい都市を世界に見せる場として、万博が用意された。
追い詰められた側の事情——ペリー来航から内戦へ
一方の日本は、まったく違う位置にいた。
1853年のペリー来航で開国を迫られ、国内は一気に不安定になる。攘夷か開国かで意見が割れ、桜田門外の変を経て、やがて幕府と薩長の内戦へ向かっていく。
このとき各藩が直面したのは、思想の問題である以上に資金の問題だった。軍艦も新式銃も、外国から現金で買うしかない。攘夷を叫ぶにも、そのための武器は外国製である。
薩摩藩の対応は徹底していた。黒砂糖の専売による利益だけでは膨らむ軍事費に追いつかず、天保通宝の贋金鋳造にまで手を染めている。木綿や昆布、宇治茶を海外へ売り、オランダの商社と生糸を取引し、型落ちの武器や蒸気船を他藩へ転売して差益を得た。長崎のグラバー商会は開港後に茶や生糸、海産物の輸出で足場を築き、やがて諸藩へ艦船と銃砲と弾薬を大量に売って巨利を得ている。
戦争には金が要る。この当たり前の事実が、幕末の日本を否応なく貿易へ押し出していった。
福沢諭吉が商売を説いた理由
この文脈を踏まえると、福沢諭吉の主張の意味が変わって見えてくる。
武士が商いを卑しいものとみなす価値観のままでは、国が立ち行かない。実学を修めよ、一身独立して一国独立す。よく引かれるこれらの言葉は、精神論として読まれがちである。けれども背景にあるのは、稼げなければ独立を失うという、きわめて具体的な現実認識だったはずだ。国を守るための金は、商いからしか出てこない。
そして「博覧会」という仕組みを日本に紹介したのも福沢だった。1862年の第2回ロンドン万博を実際に見聞し、『西洋事情』のなかでその仕組みを書いている。国が産物を並べ、比較され、評価される場がある。その情報が日本に入ってきた。
井村さんは講演のなかで、明治政府が外貨を稼ぎ国を救う手段として美術工芸品の輸出に価値を見出す、その端緒をつくった人物として福沢を位置づけていた。教科書的には殖産興業政策の文脈で語られる部分だが、思想の側から見ればこの見立てには筋が通っている。
慶応三年、パリ
そして舞台が、慶応3年(1867)のパリ万博である。
日本が初めて正式に参加した万博で、幕府に加えて薩摩藩と佐賀藩が出品した。ここで起きたことが興味深い。薩摩藩は幕府とは別に「薩摩琉球国太守政府」を名乗り、独自の展示場を構えたのである。しかも幕府より二か月早く、慶応2年11月に鹿児島を発ち、翌年1月にパリへ入っている。琉球の産物、薩摩焼、漆器、扇、煙草など、百種を超える産物を約400箱。国内の権力闘争が、そのままパリの会場に飛び火したかたちだった。
幕府側の使節団は、将軍名代として徳川昭武を立てた一行である。その随行者のなかに、若き日の渋沢栄一がいた。のちに日本の近代産業を設計する人物が、この時点ではまだ二十代の随員として、パリの街と万博を見ている。
グランプリとジャポニスム
そして日本の工芸品は、初出品にしてグランプリを獲得する。井村さんはご自身のコラムでも、日本の『超絶技巧』が世界を席巻するきっかけがこの万博であり、ジャポニスムの起点になったと書かれている。
面白いのはその先である。フランスのバカラ社は、次の1878年パリ万博に照準を合わせ、日本の七宝を徹底的に研究したという。そして、クリスタルガラスで七宝焼の質感を再現しようとした作品を生み出す。「葦に雁図花瓶」がその一つだ。
この話には唸った。素材がまるで違う。七宝は金属の胎に釉薬を焼き付けるもので、クリスタルは鉛を含んだガラスを削るものである。それでも、あの発色と質感をこちらの技術で出せないかと考えた職人がいた。これは知識の借用ではない。他者の手つきを、自分の身体と自分の素材で再現しようとする試みである。
日本の美意識は、やがてアール・ヌーヴォーという形でフランスの工芸に流れ込んでいく。井村さんはこの変化を、日本の『超絶技巧』がアール・ヌーヴォーへ変容していく過程として捉えておられる。
一方の日本では、美術工芸品が近代化の資金を稼ぐ重要な輸出品目になっていった。鹿児島だけでは需要をさばききれず、京薩摩、大阪薩摩、神戸薩摩、東京薩摩、横浜薩摩と、全国の産地が「SATSUMA」の名で輸出に参入する。鹿児島産の本薩摩は、輸出された薩摩焼全体の一割にも満たなかったという。
バカラという場所
バカラそのものの成り立ちにも触れておきたい。
鉛クリスタルが生まれたのは17世紀のイングランドである。ガラス溶解の燃料が木材から石炭へ切り替わるなかで、新しい溶剤として酸化鉛が試された。その配合から、透明度が高く、重く、光を強く反射するガラスが偶然できた。クリスタルと呼ばれるのは酸化鉛を24パーセント以上含むガラスで、バカラはそれを30パーセント含む。
1764年、フランス王ルイ15世の認可を受けて、ロレーヌ地方のバカラ村にガラス工場が設立される。クリスタルガラスの製造が始まるのは1816年からで、以後、王権の保護のもとで名品を生み出していく。
ここで、フランソワ1世の話と同じ図式が繰り返されていることに気づく。権力が技術と美を抱え、保護し、育てる。そしてこの構図は、遠く離れた薩摩藩と薩摩焼の関係にも重なる。藩が窯を抱え、職人を養い、産物として世に出す。洋の東西で、同じ仕組みが働いていた。
「だんだんとわかってくる」という言い方
ここまでが歴史の話である。ただ、講演を聴き終えて何日も残っているのは、年号ではなかった。もっと身体寄りの、手触りのある話のほうである。
コレクションを前にした解説の時間があった。バカラはこう見るのだ、と手ほどきを受けながら実物を眺める。そのなかで井村さんが語られたことが、強く残っている。
美術作品には、作品に感情が乗る。工芸品との違いはそこにある。だから見る側にも、作者がどれだけの想いをこめたのかを想像することが求められる。
そして、その次の一言だった。それは知識で身につくものではなく、作品に接し続けるうちに、だんだんとわかってくるものだという。
この「だんだんとわかってくる」という言い方に、強く反応した。仕事で毎日のように立ち会っている現象と、構造がまったく同じだからである。
知覚は、対象ではなく身体の側で変わる
ロルフィングのセッションで、初回のクライアントに身体の感じを尋ねると、多くの場合「肩がこっている」「腰が重い」といった言葉が返ってくる。
ところが回を重ねるうちに、語られる内容が変わってくる。右の肩甲骨の内側が、息を吸うときだけ動きにくい。左足の外側に体重が逃げていて、そのぶん右の腰が働きすぎている。表現が細かくなるのではない。感じ取れているものそのものが増えている。
このとき、身体が変わったから感覚が変わったのか、感覚が変わったから身体が変わったのかは、実のところ切り分けられない。確かなのは、対象と知覚が同時に動いているということである。肩は最初から複雑だった。ただ、それを受け取る解像度が、そこになかっただけだ。
美術作品を前にしたときも、同じことが起きているのだと思う。グラスは変わらない。カットの深さも、鉛を含んだガラスの重さも、百年前から同じである。変わるのは見る側だ。そして、その変化は理屈を覚えることでは進まない。何度も見る、何度も触れる、何度もその場に身を置く。反復的な接触を通してしか、知覚の側は変わっていかない。
井村さんは別の場所で、勘とは五感のことであり、それを鍛えるためのものが美術にはある、と書かれている。感性という言葉は抽象的に響くけれども、その実体は五感、つまり身体の受容能力そのものだということになる。
作品に感情が乗る、とはどういうことか
作品に感情が乗るという表現を、身体の側から言い直してみたい。
工芸品も美術作品も、人の手が動いてできている。ろくろを引く腕、カットを入れる指先、火の色を読む目。作品とは、ある身体が特定の時間のなかで動いた、その運動が固まったものである。
だとすれば、そこに残っているのは形だけではない。速度、迷い、ためらい、思い切り、呼吸の間合い。そうしたものが、輪郭や厚みや面のわずかな揺らぎとして定着している。
技術の完成度だけを見るなら、揺らぎは欠点になる。けれども、作り手の情動が定着している層を見ようとするなら、そこが手がかりになる。井村さんが工芸品と美術作品を区別されたのは、おそらくこの層のことだろう。ご本人はコラムでも、万博を機に日本の超絶技巧が磨かれていく局面を、工芸品がARTへ移り行く瞬間だと表現されている。
そう考えると、鑑賞という行為は思いのほか身体的である。作者の心を想像すると言うとき、想像しているのは概念ではない。その人の手がどう動いたか、どこで止まったか、どんな姿勢でこれに向かっていたか。つまり他者の身体運動を、こちら側の身体で追体験している。
バカラの職人が七宝を研究したときに起きていたのも、おそらくこれである。異国の工人の手つきを、自分の素材と自分の手で追いかける。その執念が、あの花瓶の質感になった。
施術の場でも似たことが起きる。手を置くと、その人がこれまでどう生きてきたかが、組織の質として伝わってくることがある。長く緊張を抱えてきた場所には、その歴史が残っている。読み取っているのは情報ではなく、身体に定着した時間である。
スタイルとは、軸をもって選ぶこと
もう一つ、井村さんは西洋の「スタイル」という言葉について話された。あれは自分の軸をもってものを選ぶことであり、洋服も、テーブルマナーも、その延長線にある。大事なのは、誰の指示でもなく「これだ」と思える自分の感覚を持つことだ、と。
軸という言葉は、身体を扱う仕事にとっても中心的な概念である。ロルフィングが扱っているのは、重力との関係のなかで身体がどう立つか、その線のことだ。
そして経験上、外から与えられた「正しい姿勢」を形だけ真似ても、それは軸にならない。胸を張る、顎を引く、といった指示に従っている間は、指示が消えた瞬間に元へ戻る。
軸として残るのは、自分の内側の感覚で見つけたものだけである。この立ち方のほうが息がしやすい。この配置のほうが足の裏に体重が乗る。そうした微細な差を自分で感じ取れたとき、初めてその姿勢は身体のものになる。
誰の指示でもない「これだ」という感覚。井村さんが美術について語られたことは、身体の学習について語られていることと、ほとんど同じ内容だった。
この夏、三つの場所で
振り返ると、2026年7月は同じ問いに3度ぶつかった月だった。
はじめは奈良である。30年ぶりに東大寺、元興寺、興福寺、唐招提寺と薬師寺を歩いた。そこで確かめたのは、読んでから歩くと確かめるべきものがはっきりしているという、順序の効き方だった。逆だと、ただ美しい建物を見て帰ることになる。テキストで読み、土地を歩き、身体で確かめる。三つを重ねること自体よりも、その順序が効いていた。
→ 30年ぶりの奈良、そこに戒壇があった(前編)── 東大寺・興福寺・元興寺を歩く
→ 30年ぶりの奈良、そこに戒壇があった(後編)── 唐招提寺と薬師寺
次が香道だった。志野流五百五十年の特別展で、香道では香りを「嗅ぐ」ではなく「聞く」と言うことを知った。呼吸をすれば、望むと望まざるとにかかわらず匂いは入ってくる。その受け身の感覚に、あえて注意を差し向ける。受信から傾聴へ。さらに六国五味では、香りの質を甘・酸・辛・苦・鹹という味覚の言葉で表す。嗅覚でとらえたものを、聴覚の語で聞き、味覚の語で味わう。感覚を別々の窓口として扱わず、たがいに翻訳し合わせている。
→ 香りを「聞く」 ── 身体で受けとる、日本の文化のなかで
そして3度目が、井村美術館だった。作品に接し続けるうちに、だんだんとわかってくる。
並べてみると、三つは同じことを言っている。ふだん意識の外を流れていくものに、注意を向けなおすこと。そして、一つの感覚でとらえたものを、別の感覚の言葉に置き換えること。
鑑賞において作者の手の動きを想像するというのは、視覚でとらえたものを運動感覚へ翻訳する作業である。香道が嗅覚を味覚の語彙に翻訳するのと、構造は変わらない。ロルフィングの場で起きているのも同じで、触覚で受け取ったものを、その人の生きてきた時間として読み直している。入口が違うだけで、育っているのは同じ力だ。
付け加えると、この夏の道筋そのものが人の縁でつながっている。香道展の機会をくださったのは友人のミヤケマイであり、井村美術館で井村コレクションと共演していたのも彼女だった。同じ人の紹介で、香を聞き、ガラスを見た。
感覚のOSという観点から
私は世界の受け取り方を四つの層で捉えている。論理のOS、感覚のOS、対話のOS、視点のOS。四つの関係については認識のOSにまとめているが、今回の話は、そのうち感覚のOSに真正面から関わっている。
感覚のOSは、情報を増やしても育たない。美術史の年表を暗記しても、グラスの見え方は変わらない。育つのは、触れた回数、見た回数、味わった回数の分だけである。しかもその蓄積は、意識的な努力の外側で進む。だからこそ「だんだんとわかってくる」としか言いようがない。瞑想の練習で起きていることも、構造としては近い。何かを新しく身につけるというより、すでにそこにあったものが見えるようになっていく。
井村さんは、なんでも見て、触れて、食べてみること、何歳からでも遅くないと語られた。これは身体の側から見ても正しい。感覚受容と運動の学習は、生涯にわたって変化し続ける。年齢とともに速度は落ちても、方向が閉じるわけではない。むしろ、蓄積のある人ほど微細な差を拾えるようになる。読書や旅と同じで、感覚もまた複利で効いてくる。
おわりに
身体は、壊れやすいものの一つである。そして身体の場合、受け取って次へ渡す相手は、未来の自分になる。今日どう立ち、何に触れ、何を味わったか。その蓄積が、十年後に何を感じ取れるかを決めていく。
パリの都市計画と、幕末の資金繰りと、ガラスに鉛を入れた偶然と、七宝を再現しようとした職人の執念。それらが一つのグラスの上で交差している。そして、そのグラスをどう見るかは、見る側の身体が決めている。
バカラのグラス一つから、そんなことを考えた2時間だった。


