【W#11】東欧3カ国の旅〜国境を越えること
2014年8月1日〜2日、8月8日〜11日の5日間、ミュンヘンを起点に、プラハ(チェコ)、ブダペスト(ハンガリー)とウィーン(オーストリア)の3カ国へ旅に出かけた。交通手段は、バス(プラハ)か電車(ブダペストとウィーン)を使用した。
共通しているのは、19世紀絶頂期にあったオーストリア・ハンガリー帝国という形でハプスブルク家により支配を受けた土地であること。
塚本哲也氏の「エリザベート」によると、オーストリア・ハンガリー帝国は、オーストリア、ボヘミア、ハンガリー、北イタリア、スペインなどの広大な領土をもつ多民族国家が一つの王族の下で共存共栄していた。
多民族して象徴的なのは、ハプスブルク家の王族の語学教育。帝王教育には、母語のドイツ語以外に、英語、フランス語、イタリア語、チェコ語、ハンガリー語の読み書きが求められ、実質最後の皇帝のフランツ・ヨーゼフ一世はこれらの言語を完璧に読み書きができたらしい。
様々な民族が混在する帝国内で、ハプスブルク家は音楽に注目し、すでに1498年にマキシミリアン一世が宮廷音楽隊を組織し、王族自ら率先して音楽への情熱や尊敬を示していった。マリア・テレジア女帝が、1741年にブルク劇場を作り、息子のヨーゼフ二世が国民の劇場に格上げして以来、ウィーンの演劇の水準も上がり、市民階級全体が芸術愛好家になって、芸術家の街としての土壌が育っていく(写真は19世紀に立てられたウィーンのオペラ座)。
そういった背景を知った上で、国境や国家を考えてみるとすごく興味深い。電車やバスの窓の外から国境を越える瞬間を覗いていたが、車線(道路)や線路は変化しないのに対して、言語、通貨そして駅の看板、道路のサイン等、雰囲気ががらっと変わる。もちろん、かつてソ連が栄えた頃は国境審査があったと思うのだが、シェンゲン協定のおかげで今はパスポートの確認もほとんど行われない。そう考えてみると、20世紀の第一次大戦後にオーストリア・ハンガリー帝国が滅ぶ前の東欧の姿を見ている印象があり興味深い。
ボヘミアは鉱物資源に恵まれており、冶金工業や機械工場が盛んで、プラハ近辺とあわせ帝国最大の工業地帯として栄えたとのこと。そのプラハは、徒歩30分圏内で街を見ることが出来るので徒歩で全体を見た。第二次大戦の爆撃を逃れた街だけのことがある。景色も素晴らしく、童話に出てくるシーンを連想させる。薬塔(下記の写真の1枚目)からプラハ城(下記の写真の3枚目の右側)へ至る道を逆から歩いた形になったが、街全体(下記の写真の2枚目)が美術館の中にいるという印象があり、イタリアのフィレンツェと似た雰囲気を感じた。
ハンガリーは、ヨーロッパの製粉業の中心地として、19世紀後半は最盛期を迎え、穀物取引や染色、車両、造船等も盛んだったとのこと。ハンガリーは歴史的に様々な異民族が流れ込んでいるため、文学を含めた学問の盛んだったらしい。音楽でもリストを輩出している。
その中心地のブダペストは、非常に大きな街だけあって、主にバスで廻ることになった。さすが、オーストリア・ハンガリー帝国の第二の首都で、エリザベート皇后がお気に入りだった街だけある。
一つ一つの建物に美しさがあり、歩いていてその魅力の虜になってしまった(下記の2枚目)。店が並ぶ中心街(下記の1枚目)で食事をとっている(下記の3枚目)と、音楽が流れてくるような、外国人を包み込むような魅力あふれる雰囲気を感じた。
ウィーンは、19世紀から20世紀の初期にかけて都市設計を行ったウィーンのルエーガー市長が辣腕を振り、しっかりとした街を設計した背景がある。19世紀末の街がそのまま保存されているシュテファン教会や美術館、議事堂が点在するリング・ストラッセ近辺(下記の1枚目)と、オフィス街が点在するドナウ河近辺(下記の2枚目)と二つに分かれているという街が同居している設計になっており、それがこの街の伝統を継承していくという強い意志を感じた。
3都市ともそれぞれ甲乙がつけがたい、特徴的な街であり、長年住んだ東京とはまるで異なる印象だ。
今回の世界一周の旅ではヨーロッパを含め様々な世界の異なる街を見ていく形になると思うが、単純に観光(美術館巡りや城を見る)するのではなく、街を歩いてみて、自分が実感したこと、体感したことを歴史に照らし合わせて考えていければと思っている。