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30年ぶりの奈良、そこに戒壇があった(後編)── 唐招提寺と薬師寺

設計を確かめに行く

前編では、一日目に歩いた興福寺・元興寺・奈良国立博物館・東大寺を書いた。締めくくりに置いたのは東大寺の戒壇院である。日本において「僧である」ということが制度になった場所であり、785年に十九歳の最澄が具足戒を受けた場所でもある。

30年ぶりの奈良、そこに戒壇があった(前編)── 東大寺・興福寺・元興寺を歩く

2日目は、その戒壇を築いた人の寺——唐招提寺へ向かった。あわせて薬師寺にも足を延ばしている。

先に断っておくと、最澄が比叡山に何を設計したかは、すでに別の記事で書いた。菩薩戒によって入口の基準を「規則を守れるか」から「志があるか」へ移したこと。十二年籠山制で滞在時間を設計したこと。円密禅戒の総合カリキュラムが、結果的に一点突破の求道者を育てる装置になったこと。

比叡山という組織、仏教という言語 ── 2026年後半、中世仏教を読む

ここでは、それを繰り返さない。奈良で確かめたかったのは、別の視点である。その設計は、何から離れるための設計だったのか。そして、離れるために使った道具は、どこから来たのかだ。

2冊を持って歩く ── 招く側と、迎えた側

訪ねる前に、2冊を読んでいた。

井上靖『天平の甍』は、鑑真を招くために唐へ渡った留学僧たちの側から、鑑真が日本にたどり着くまでを描く。永井路子『氷輪』は、来日した鑑真が日本で何をしたのかを描く。

招く側と、迎えた側。同じ出来事を逆の視点から読んでいたおかげで、鑑真渡日という一つの出来事を、二方向から見ながら歩くことができた。

そもそも『氷輪』は、計画になかった一冊だった。

師茂樹『最澄と徳一』を読んで戒壇への疑問が生まれ、その問いに引かれて手に取ったものである。本が次の本を呼ぶ、というのはこういうことだと思う。そしてその『氷輪』が、今度は現地を呼んだ。読書が計画ではなく生き物になるとき、行き先まで決めてしまうらしい。

なぜ鑑真は渡ってきたのか ── 長屋王の袈裟

『唐大和上東征伝』が伝えるところによれば、日本から来た僧が渡日を懇請したとき、鑑真は集まった弟子たちにこう問うたという。日本という国は、かつて長屋王という人物が千枚の袈裟を唐の僧に贈ってきた国であり、その袈裟にはこう刺繍されていた——

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁。

山や川で隔てられた別の土地であっても、風も月も同じ空の下にある。仏の弟子たちに寄せて、ともに来世の縁を結びたい。

弟子たちは誰も名乗り出ず、鑑真自身が「ならば私が行く」と言った、と伝えられる。

長屋王は、前編で書いた通り、729年に謀反の疑いをかけられて自害している。その死は疫病の記憶と結びついて、怨霊として恐れられた。その同じ人物が唐へ送った布に縫われた四句が、十年以上ののちに、一人の高僧を海へ押し出した。日本国内では祟る霊として記憶された人が、海の向こうでは日本仏教を招き寄せる縁になっている。

そこから鑑真は五度の渡航に失敗し、視力を失い、十年余りをかけて753年に薩摩へ着いた。

唐招提寺 ── 「離れた」ことが、土地の感触として分かる

唐招提寺は、759年に開かれた。土地は、新田部親王の旧宅だった。新田部親王は天武天皇の子で、長屋王の叔父にあたる。ここでも長屋王の周辺に行き当たる。

近鉄・尼ヶ辻の駅から歩いた(本来の最寄りは西ノ京だが、今回は別方向から入った)。暑い道のりで、東大寺からはずいぶん離れている。この距離が、そのまま答えだった。

鑑真自身も、国家の制度の中枢から離れている。東大寺を出て唐招提寺を開き、国家が管理する戒壇とは別の、自分の教育の場を持った。本で読んでいるあいだ、それは一つの解釈にすぎなかった。

実際に両方を同じ2日間で歩くと、解釈ではなくなる。東大寺が人の手で構築された場所という印象だったのに対して、唐招提寺には自然に囲まれた場所という感触が残った。国家の装置と、一人の僧が晩年に開いた場所。規模も、立地も、境内の空気も違う。「離れた」というのは、比喩ではなく、実測できる距離だった。

建物も、それを裏づけていた。

金堂は、奈良時代・八世紀後半の建立。現存する唯一の奈良時代の寺院金堂である。国宝。中に立つ仏像とともに、しばらくその佇まいを見ていた。八世紀へタイムスリップしていくような感覚があった。

そして講堂。これは、平城宮の東朝集殿を移した建物である。写しではなく、宮の建物そのものが運ばれてきている。

いま近鉄奈良線の西大寺駅と新大宮駅のあいだで発掘と再建が進んでいる平城宮跡は、地上に見えるものはすべて再建である。ある意味で、平城宮の建築で今に伝わるのは、この一棟だけということになる。

木造の建物が1200年以上こうして立ち続けていることに、驚かされた。しかも観光客がほとんどおらず、ほぼ独占する形で見られたのが大きかった。

もう一つ、印象に残ったのが蓮である。鑑真が来日の際に蓮根を持ち込んだと伝えられ、唐招提寺は開創以来、蓮を大切にしてきたという。「唐招提寺蓮」という名の品種も伝わる。境内には約百三十の蓮鉢と、二か所の蓮池がある。六十種ほどだそうだ。

建物だけでなく、花も鑑真とともに海を渡ってきた。

薬師寺 ── 対照を置いてはじめて、何を見ていたかが分かる

そこから歩くこと十分、薬師寺にも足を延ばした。

こちらは東塔(国宝)だけが創建当時——奈良時代からの現存で、ほかは再建されたものだとすぐにわかる建物だった。仏像は素晴らしかった。しかし、唐招提寺で感じたような、奈良時代がそのまま立っているという感覚はなかった。

面白かったのは、その順序である。再建された伽藍を見たことで、その一時間前に唐招提寺で何に触れていたのかが、かえってはっきりした。

これは、因明の三支作法について考えていたことと、同じ構造だと思う。インド由来のあの論証の型は、「喩」——かまどのような既知の実例——を論証の不可欠な要素として要求する。だが、既知の実例を並べるだけでは、対照が作れない。何かを変えて、変えなかった場合と比べる。そこではじめて、自分が何を見ていたのかが分かる。

唐招提寺の次に薬師寺を置いたのは、意図した設計ではなかった。駅を降りる場所を間違えて順序が入れ替わっただけである。しかし結果として、対照実験になっていた。片方だけを見ていたら、唐招提寺の何がすごいのかは分からないままだった。

読書でも同じことが起きる。『天平の甍』と『氷輪』を並べたのと、構造としては変わらない。二つ目が、一つ目の輪郭を作る。

鑑真が置いていったもの ── 最澄の武器は、どこから来たか

ここから、この2日間の核心に入りたい。

鑑真が日本にもたらしたものは、一般には「戒律」と言われる。もう少し具体的に言うと、正式な僧になるための具足戒——比丘であれば二百五十の条項——と、それを授ける三師七証の体制である。

これは要するに、僧という身分の品質保証制度だった。誰が僧かを国家が確定でき、僧は税を免除され、国家の管理下に入る。奈良仏教が国家仏教と呼ばれる所以の、いちばん硬い部分がここにある。

だが、鑑真が持ってきたのは、それだけではなかった。

『氷輪』を読んでいて、思わぬ発見があった。鑑真は、天台の典籍を日本に持ち込んでいる。のちに最澄が拠って立つことになる天台の教学は、鑑真が置いていったものの中に、すでにあった。

さらに重要なのが『梵網経』である。これは大乗の菩薩戒——出家者だけでなく、志ある者すべてに開かれた戒——を説く経典で、鑑真はこれも伝えていた。ただし、彼にとってそれは具足戒の補助的な位置づけだった。

そして、この世界は最澄と無関係な場所に置かれていたわけではない。最澄の師である行表(ぎょうひょう)が、その内側にいた人だった。

行表は722年の生まれ。741年、恭仁宮で道璿(どうせん)のもとで得度している。道璿は、鑑真を招くために唐へ渡った同じ使節——『天平の甍』の主人公である栄叡と普照——の要請に応えて、鑑真に先立つ736年に来日した唐僧である。北宗禅、華厳、天台、そして『梵網経』の菩薩戒。それらを携えてきて、日本で『梵網経疏』を著した。行表は、その全部を受け取っている。

そして778年、行表は近江国分寺で最澄の師となり、780年、十四歳の最澄を得度させた。

最澄は、十二歳から十四歳にかけて、この人から学んでいる。入唐するはるか以前に、天台と梵網戒の世界には、すでに触れていたことになる。しかも行表は、興福寺で唯識も学んだ人である。のちに徳一と戦うことになる法相の学問を、最澄は師のもとで一度受け取り、そのうえで一乗のほうを選んだ。

一方、比叡山に籠もったあとで最澄が読み込んだ天台の典籍は、鑑真が船に積んできたものだった。すべての人が仏になれると説く教学にそこで出会って、彼の生涯が決まる。

道璿から行表を経て届いた素地と、鑑真が運んだ理論。二本の線が、比叡山の草庵で合流している。どちらも、最澄が生まれるより前に、日本へ着いていた。

ここが、今回いちばん驚いたところである。

最澄が入口の設計を変えるために使った道具は、すでに二人の唐僧が置いていったものの中にあった。最澄がやったのは、新しい原理を外から輸入することではない。すでにあった副次的な要素を、主役の位置に引き上げることだった。

深く受け継いだ者だけが、本質的に独立できる。これは人の連なりの話だと思っていた。鑑真から道忠へ、道忠の門流が最澄の東国伝道を支え、最澄の場から鎌倉の祖師たちが出る、という。しかし今回分かったのは、それが中身の話でもあるということだ。独立に使われた武器そのものが、独立される側から渡されている。しかも渡したのは、鑑真であり、道璿であり、そのあいだに立っていた行表という一人の国師だった。

制度としての遺産からは独立し、精神としての遺産には支えられる。そう考えていたが、支えられていたのは精神だけではなかった。

500年後、鑑真の寺で ── 四度続いた「離れる」話の、最後

継承と独立という同じ動きは、世代を越えて何度も繰り返されている。

鑑真が唐から戒を運ぶ。その鑑真が国家の中枢から離れて唐招提寺を開く。弟子の道忠がさらに離れて東国に教団を育てる。最澄が南都の戒壇から独立する。鎌倉五祖が比叡山から独立する。

受け継いだ者が、受け継いだ場所から離れて、自分の場を作る。それが四度、続いている。

今回、二日間で歩いた二つの寺のあいだに、この話の続きがあることに気づいた。しかも、それは離れていく方向ではなかった。

  • 754年 鑑真、東大寺に戒壇を築く
  • 785年 最澄、その戒壇で具足戒を受ける
  • 822年 大乗戒壇の勅許。最澄の死の七日後
  •     ── 以後、律宗は衰微する ──
  • 1236年 覚盛・叡尊らが東大寺で自誓受戒を行う
  • 1244年 覚盛、唐招提寺に入り中興。「鑑真の再来」と称される

1236年の自誓受戒とは、国家の戒壇によらず、自ら誓って戒を受けるという行為である。制度が壊れたあとに、戒そのものを個人の意志の側から立て直そうとした。そして覚盛は、鑑真の寺に入って、その再興を果たした。

東大寺の戒壇院で始まった「戒」が、500年かけて、鑑真自身の寺で引き受け直されている。

私はこの連なりを、どこまでも遠ざかっていく直線だと思っていた。離れて、また離れて、さらに離れていく。しかし覚盛を置くと、そうではなかった。離れる話が四度続いたあとに、最後は戻る話になる。

戻り方も、ただの回帰ではない。国家が保証する戒から独立していく流れが、最後には、国家の保証なしに戒を立て直すところへ行き着いている。同じ「戒」という一語が、五百年かけて、制度の名前から個人の決意の名前に変わった。

守破離という言葉が、最後にどこへ行き着くのか。奈良で二日歩いて、その先の一手を見た気がした。歩いた距離は、地図の上ではわずか数キロである。

最澄と空海 ── 離れる人と、包み込む人

もう一点だけ。来月は四国へ行くので、ここで対比を書いておきたい。

最澄が東大寺の戒壇から離れることに生涯を賭けたのに対して、空海は東大寺の別当となり、その境内に真言院を置いている。同じ場所に対して、正反対の身の処し方をしている。

完成した空海と、未完の最澄。この対比は前から考えていたことだが、今回、その差が場所の使い方として出ていることに気づいた。最澄は、南都という場所を出ることで自分の場所を作った。空海は、南都という場所の内側に自分の区画を置いた。離脱と包摂は、思想の形であると同時に、地理の選択でもある。

宮坂宥洪氏は、最澄を「日本仏教史上、釈迦になろうとした最初の人物」として先覚者と位置づけたうえで、こう書いている。最澄の系譜からは鎌倉仏教の祖師たちが輩出したのに対し、真言宗はついに空海を超える者を出さなかった、と。

開かれた最澄は展開を生み、完結した空海は帰依を生んだ。四国遍路という形で、1200年続く帰依を。

どちらが優れているという話ではない。ただ、2026年8月下旬に自分が歩こうとしているのは、後者の土地である。

読むことと、その場に立つこと

30年前、私は同じ場所を素通りしていた。読んでいなかったからである。

今回、文字で追ってきたものの前に立つと、本のなかの話が急に手ざわりを持った。逆に言えば、読んでいなければ、立っても何も起きなかったということでもある。読むことと、その場に立つことは別の体験だが、片方だけでは成立しにくい。

テキストで読み、土地を歩き、身体で確かめる。この三つを重ねたいと考えていたが、実際にやってみると、順序が重要だった。読んでから歩くと、確かめるべきものがはっきりしている。逆だと、ただ美しい建物を見て帰ることになる。三十年前の私が、まさにそれだった。

10月からは道元を読む。『正法眼蔵』を三か月かけて読む予定でいる。道元は、日本語で最高度の思弁を書いた人である。その道元が何から離れようとしたのかは、今回の二日間で具体的な建物になった。制度としての仏教。国家が管理する戒壇。あの石段。

そしてその前に、四国がある。

久しぶりの奈良は、よかった。


参考

  • 井上靖『天平の甍』
  • 永井路子『氷輪』(上・下)
  • 永井路子『雲と風と』
  • 永井路子『美貌の女帝』
  • 司馬遼太郎『空海の風景』
  • 師茂樹『最澄と徳一 ── 仏教史上最大の対決』
  • 田村晃祐『最澄』
  • 宮坂宥洪「空海の軌跡」(エンサイクロメディア空海/密教21フォーラム)
  • 最澄『山家学生式』『顕戒論』(『現代語訳 最澄全集』第1巻)

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