【B#269】宇宙服はどのように進化したのか ──下着技術からアルテミスへ、「生存装置」から「身体」へ〜アポロ計画⑩
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はじめに
宇宙開発の歴史を振り返るとき、私たちはロケットやコンピュータといった巨大で精密な技術に目を向けがちである。
しかし、人類が宇宙空間で「実際に活動する」ことを可能にした技術は、より身体に近い領域に存在している。
それが宇宙服である。

宇宙服とは単なる防護装置ではない。
それは、真空・放射線・極端な温度差という環境の中で、人間の生命を維持しながら、歩く・掴む・作業するといった行為を成立させるための装置である。
言い換えれば、それは、宇宙という環境に適応するための「人工的な身体」である。
そしてその起源をたどると、非常に興味深い事実に行き着く。
それは、宇宙服が軍需企業ではなく、下着メーカーの技術によって成立したという点である。
アポロ宇宙服 ──下着技術から生まれた「衣服」
アポロ計画で使用された宇宙服A7Lは、Playtex(後のILC Dover)によって開発された。

この事実は、宇宙開発の文脈において一見すると意外に思えるかもしれない。
なぜなら宇宙服は、極限環境に対応する高度な工学製品であり、本来であれば航空宇宙企業や軍需産業が担う領域だと考えられていたからである。
しかし実際には、最初に「動ける宇宙服」を成立させたのは、女性用下着を製造していた企業であった。この背景には、宇宙服という技術の本質がある。
軍需企業の限界 ──「安全だが動けない」宇宙服
アポロ計画初期、NASAは宇宙服の開発を軍需系企業に委ねていた。設計された宇宙服は、高い耐久性、強固な構造、安全性を重視した設計を備えていた。
一方で、関節が硬く動きにくい、作業が困難、長時間の活動に耐えない、といった致命的な問題を抱えていた。
つまり
「生存はできるが、活動できない」装置
であった。ここで明らかになったのは、宇宙服が単なる防護装置ではなく、人間がその中で動くことを前提とした装置であるという点である。
発想の転換 ──宇宙服を「衣服」として設計する
この問題に対して、全く異なるアプローチを提示したのが、下着ブランドとして知られるPlaytexを擁するInternational Latex Corporation(後のILC Dover)だ。
Playtexはもともと、
- ブラジャー
- コルセット
- ガードル
といった、身体に密着する衣料を製造していた企業であった。
これらの製品において求められるのは、身体への正確なフィット、動きを妨げない構造、長時間装着しても負担が少ない設計である。そのまま、宇宙服に求められる条件と一致する。
ブラジャー技術という「技術の集積」
「Uplift: The Bra in America」によれば、
「女性は、1863年から1969年にかけてブラジャーに与えられた1,230件以上の米国特許のほぼ半分を身に着けている」
とされている。
この事実が示しているのは、ブラジャーが単なる衣料ではなく、圧力分散、構造設計、素材工学、身体適合技術、といった要素が高度に統合された技術体系であったという点である。この蓄積が、宇宙服という新しい領域に応用されることになる。
International Latex Corporation の素材技術
Playtexブランドを展開していたInternational Latex Corporationは、ラテックス素材の加工において強みを持っていた。
ラテックスは、高い伸縮性、優れた気密性、身体への密着性を持ち、圧力を保持しながら身体にフィットするという特性を備えている。
これは宇宙服にとって極めて重要な要素であり、
「支えるための素材」が「生命を維持する素材」へと転換された
ことを意味している。
Playtex側の設計を主導したColleyは、宇宙服を「機械」ではなく「衣服」として捉えた。この視点は決定的であった。
機械的な設計では、強度や構造が優先される。衣服としての設計では、身体へのフィット、動きやすさ、柔軟性、が中心となる。
Colleyは後者を選び、宇宙服を「動ける構造」として成立させた。
縫製という「触覚の技術」
宇宙服A7Lは、20層以上の素材、ミリ単位の精度、完全な気密性、を必要とした。この精度は機械では実現できず、熟練した縫製職人によって実現された。

彼女たちは、生地のわずかな歪み、張力の違い、指先の感覚、を頼りに宇宙服を仕上げていった。
ここで重要なのは、
宇宙服の完成度が「設計図」ではなく「身体感覚」に依存していた
という点である。
宇宙服は「身体に寄り添う技術」である
アポロ宇宙服は、人類を初めて月面へと送り出した装置である。その本質は、衣服としての設計思想、身体へのフィット、縫製という触覚的技術、によって支えられていた。

この事実は、宇宙開発という最先端の領域においてさえ、
人間の身体に寄り添う技術が不可欠であった
ことを示している。そしてこの流れは、現代のアルテミス計画においても、形を変えながら受け継がれているのである。
素材の核心 ──ラテックスと多層構造が生んだ「生命維持システム」
宇宙服の設計思想を実際に成立させたのは、素材の組み合わせである。宇宙服とは単一の素材で作られた装置ではない。それは複数の素材が層として組み合わされ、それぞれが異なる役割を担うことで初めて機能する。
言い換えれば、宇宙服とは、素材の統合によって成立する「生命維持システム」といっていい。
なぜ「多層構造」が必要だったのか
宇宙空間は、人間にとって極めて過酷な環境である。外部はほぼ真空、温度は極端に変化する、放射線にさらされる、微細な隕石のリスクがある。この環境に対して、単一の素材で対応することは不可能である。
そのため宇宙服は、
それぞれ異なる機能を持つ素材を「層」として重ねる
という構造を採用した。この多層構造こそが、宇宙服の核心である。
アポロ宇宙服の基本構造
アポロ宇宙服A7Lは、大きく以下のような構造を持っていた。
- 内側層:快適性・温度調整
- 圧力保持層:気密構造
- 強度層:構造の安定化
- 断熱層:外部温度からの遮断
- 外装層:耐摩耗・耐衝撃
これらの層が一体となることで、初めて宇宙環境に対応することが可能になった。重要なのは、それぞれの層が「独立した役割」を持ちながら、同時に全体として機能している点である。
圧力保持の中核:Latex
宇宙服において最も重要な機能は、「圧力の維持」である。宇宙空間では外部圧力がほぼゼロであるため、人体を維持するためには内部に適切な圧力を保つ必要がある。この役割を担ったのが、ラテックスを用いた圧力保持層である。
ラテックスは、高い伸縮性、優れた気密性、身体への密着性、を持つ素材であり、内部の圧力を逃さず、かつ身体にフィットするという特性を備えている。
ブラジャーにおいて重要であった、フィット、支持、圧力の分散、といった要素は、宇宙服においては
「生命維持」というレベルに引き上げられた
のである。
温度と環境への対応
宇宙空間では、温度の制御が極めて重要となる。月面では、太陽光にさらされると高温、影に入ると極低温、という極端な環境が存在する。このため宇宙服には、断熱層が必要となる。
具体的には、アルミ蒸着マイラーなどの反射素材、多層構造による熱遮断、が用いられた。これにより、外部からの熱を反射し、内部の温度を一定に保つことが可能になった。
強度と柔軟性の両立
宇宙服には、相反する2つの要件が存在する。外部環境に耐える強度と身体の動きを妨げない柔軟性だ。
強度を高めれば、動きは制限される。柔軟性を高めれば、耐久性が低下する。このトレードオフを解決するために、
- ナイロンなどの繊維による補強
- 層構造による役割分担
が採用された。
宇宙服は、
一つの素材で解決するのではなく、
複数の素材の「バランス」によって成立している
のである。
ここまで見てきたように、宇宙服は単なる「素材の集合」ではない。それは、圧力、温度、強度、可動性、といった要素を同時に満たすための、極めて高度な統合システムである。重要なのは、この統合が単に理論的に設計されただけではなく、実際には第1章で見たような縫製技術によって実現されたという点である。
素材が「身体」を作る
宇宙服の本質は、素材にある。それは単なる物質ではなく、圧力を維持し、温度を調整し、外部から守り、動きを可能にする、という複数の機能を同時に担っている。
言い換えれば、
宇宙服とは、素材によって構成された「人工的な身体」である
そしてその身体は、次に見ていくように、現実の環境の中で初めてその限界と可能性を露わにしていく。
EVAの現実 ──制約の中で動くということ
宇宙服の本質は、それを着用した人間が、宇宙という環境の中でどのように感じ、どのように動くのかという「経験」の中で初めて明らかになる。
その現場が、EVA(船外活動)である。
宇宙服は「自由」を与えない
宇宙服というと、私たちはしばしば「宇宙で自由に動くための装置」というイメージを持つ。実際には、その逆である。宇宙服は、身体を保護する代わりに、動きを制限し、感覚を変化させる装置である。

この点について、アポロ11号に乗船した宇宙飛行士・マイケル・コリンズ(Michael Collins)が「Carrying the Fire: An Astronaut’s Journeys」 の中で、宇宙空間での体験を非常に冷静な言葉で描いている。
彼の記述から浮かび上がるのは、宇宙服が「可能性」を広げる装置であると同時に、常に制約を伴う存在であるという事実である。
宇宙服内部の環境 ──孤立した空間としての身体
「Amazing Stories of the Space Age」(著:Rod Pyle)でも描かれているように、宇宙服の内部環境は決して快適ではない。温度は完全には安定しない、作業中に大量の汗をかく、湿気がこもる等だ。

コリンズの視点が興味深いのは、こうした物理的な環境だけでなく、
宇宙服の内部が「孤立した空間」として感じられる
という点である。
宇宙服を着ると、外界との接触は極端に制限される。触覚は鈍くなり、音は限られた形でしか伝わらず、視界も制約される。
つまり宇宙服とは、
人間を宇宙から守ると同時に、宇宙から切り離す装置
でもある。
「動けない身体」との向き合い
宇宙服は内部圧力によって膨張しているため、関節を曲げるだけでも大きな力が必要になる。腕を曲げる、物を掴む、姿勢を変える、といった動作一つ一つに、抵抗が伴う。これは、常に外側から押し返される身体の中で動いている状態とも言える。
実際、アポロ宇宙飛行士たちは、短時間の活動でも強い疲労を感じ、心拍数が上昇する、という状態にあった。
Collins自身は月面には降りていないが、彼の記述からは、宇宙という環境そのものが、人間の身体に対していかに厳しいかが伝わってくる。
手の感覚と作業の困難さ
宇宙服のグローブは、気密性を保つために硬く設計されている。その結果、指先の感覚が鈍くなる、細かい操作が難しくなる、握るだけで大きな力が必要になる、といった問題が生じる。
工具を扱う場合でも、しっかり握ること自体にエネルギーが必要であり、長時間の作業では手の疲労が蓄積する。Collinsの描写に共通するのは、こうした一つ一つの動作が、決して「当たり前ではない」という感覚である。
身体感覚の変化
宇宙服を着用すると、身体の感じ方そのものが変化する。自分の手足の位置が分かりにくくなる、動作のフィードバックが遅れる、身体の境界が曖昧になる。
これは単なる物理的制約ではなく、
身体そのものの「認識」が変わる現象
である。Collinsの語りは、こうした変化を誇張せず、むしろ淡々と記述することで、そのリアリティを際立たせている。
宇宙服とは何を可能にしているのか
ここまで見てきたように、宇宙服は決して理想的な装置ではない。
- 高温
- 発汗
- 動作の制限
- 感覚の変化
- 孤立感
といった多くの制約が存在する。同時に、それがなければ人間は宇宙で一歩も動くことができない。このとき重要なのは、宇宙服の役割をどう捉えるかである。
宇宙服は、
自由を最大化する装置ではなく、
制約の中で「行動を成立させる」ための装置
なのである。
ISSからアルテミスへ ──「作業装置」から「探査する身体」へ
宇宙服は人間に自由を与えるものではなく、制約の中で行動を成立させるための装置であった。では、その制約はどのように乗り越えられてきたのか。その答えの一つが、ISS(国際宇宙ステーション)からアルテミス計画へと至る、宇宙服の進化の流れの中にある。
ISS時代の宇宙服 ──「作業」を前提とした設計
ISSで使用されてきた宇宙服(EMU:Extravehicular Mobility Unit)は、明確に「作業」を目的として設計されている。
宇宙飛行士が行うEVAは、機器の修理、構造物の組み立て、部品交換といった、高度に計画された作業が中心である。そのため宇宙服には、一定の可動性、長時間の耐久性、安定した生命維持機能が求められた。
アポロ時代と比較すると、EMUは大きく進化している。
特に、関節部分にベアリング構造を導入、モジュール化による部品交換、長時間の作業を前提とした設計、といった点において、「作業装置」としての完成度は高まった。
それでもなお、動きの制約、身体への負荷といった根本的な問題は残り続けていた。
アルテミス計画の転換点 ──「探査」という目的
こうした流れの中で、アルテミス計画は宇宙服に新たな役割を与える。それは「探査」である。アポロ計画では、月面活動は短時間かつ限定的であった。
アルテミスでは、長時間の活動、不整地での移動、未踏領域での探索が前提となる。
特に、月の南極はこれまでの月面とは大きく異なる環境である。永久に太陽光が当たらない領域(永久影)、極端な低温、不均一で複雑な地形。
このような環境では、「動けること」そのものがミッションの成否を左右する。
宇宙服は、
生き延びるための装置でも、作業のための装置でもなく、
環境に適応して行動するための身体
であることが求められるようになった。
次世代宇宙服AxEMU ──民間主導の開発
この新しい要請に応える形で開発されているのが、AxEMU(Axiom Extravehicular Mobility Unit)である。この宇宙服の開発を主導しているのが、Axiom Space である。これは、宇宙服開発の構造が大きく変化していることを示している。
アポロ時代にはNASAが中心となり、企業が受託する形で開発が行われていた。現在では、民間企業が主導し、NASAがパートナーとして関与するという新しい形が採用されている。この変化は、宇宙開発全体の構造変化とも一致している。
Pradaの参加 ──再び「衣服」としての宇宙服へ
AxEMUにおいて特に象徴的なのが、Prada が設計に関与している点である。この事実は、単なる話題性にとどまらない意味を持つ。アポロ時代には、Playtexという下着メーカーが宇宙服開発を担った。現代では、再びファッションブランドが関与している。
ここに見られるのは、
宇宙服が本質的に「衣服」であるという事実の再確認
である。
ファッションにおいて重要なのは、身体へのフィット、動きやすさ、長時間の快適性である。これはそのまま、宇宙服における核心的な課題でもある。
AxEMUの技術的進化
AxEMUは、これまでの宇宙服の課題に対して、具体的な進化を示している。
- 可動域の大幅な向上
(しゃがむ、歩く、登るといった動作が可能) - 軽量かつ柔軟な構造
(身体への負荷の軽減) - 多様な体型への対応
(男女差・体格差への適応) - 極限環境への耐性
(月南極の高温・低温への対応) - 高反射素材(白色)による熱制御
これらの特徴はすべて、
「動けること」を中心に設計されている
という点で共通している。
ISSとの接続 ──汎用化される宇宙服
AxEMUは、月面だけでなくISSでの船外活動にも使用される予定である。
これは、宇宙服が、特定のミッション専用の装置から、複数の環境に対応する汎用的なシステムへと進化していることを示している。
ここでも重要なのは、
異なる環境に適応できる「身体」としての性質
である。
ここまでの流れを整理すると、宇宙服の進化は次のように捉えられる。
- アポロ:生存装置
- ISS:作業装置
- アルテミス:探査する身体
この変化は単なる技術的進歩ではない。
それは、
宇宙服が「外部装置」から「身体そのもの」へと近づいていく過程
である。そしてその過程において一貫しているのは、身体にフィットすること、動きを妨げないこと、長時間使用に耐えることという、「衣服」としての本質である。
まとめ
宇宙服の進化は、単なる技術の進歩ではない。それは、身体にフィットすること、制約の中で動けること、環境に適応することを追求してきた過程である。
下着メーカーから始まり、最先端の素材技術、そして現代のファッションブランドへ。その流れの中で一貫しているのは、宇宙服が「身体に寄り添う技術」であるという点である。宇宙服は、私たちに完全な自由を与えるものではない。しかし、制約の中で行動するための「新しい身体」を与える。
その意味で宇宙服とは、人間が環境に適応するための、一つの答えなのである。






