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【P#73】幻覚剤の歴史⑧〜再評価の動き、エサレン研究所、最高裁の判決、臨床試験

はじめに

東京・渋谷でロルフィング・セッションと脳科学から栄養・睡眠・マインドの脳活(脳科学活用)講座を提供している大塚英文です。

幻覚剤の歴史については、LSDサイロシビンメスカリンMDMADMTを取り上げた。法律で禁止される前に、どのような歴史を辿ったのか?IT業界のメッカ、シリコンバレーとの関や、最終的にどのように法規制が入ったについてもまとめた。

法規制により、幻覚剤のセラピストは、地下活動を余儀なくされたが、どのようにして幻覚剤が復権し、ルネサンスの時代を迎えたのか?についてまとめたい。

幻覚剤への規制から方針転換〜再評価の動き

1950年代から1960年代にかけて、精神医学の主流派は、LSDやサイロシビンは、奇跡の薬として考えていた。若者は通過儀礼の手段を入手したと考え、ヒッピー文化やカウンター・カルチャーへつながっていった。

1960年末には、バッドトリップ、精神破綻、フラッシュバック、自殺など、幻覚剤のバッドトリップが宣伝され、60年代末には、全米で合法だった幻覚剤は、禁止薬物になり、使用したい人は地下活動を余儀なくされる。

やがて、1990年代に入った時、一部の科学者、セラピストを含む精神世界の探究者たちが、幻覚剤の再評価を決めていく。FDAの新任検査官のカーティス・ライトが、幻覚剤の研究計画について、有用性から考えて、他の薬品と同様に検討する方針を打ち出す。

DMTの歴史で書いたように、リック・ストラスマン(Rick Strassman)は目をつけ、FDAと薬物を規制するDEAと2年間交渉をし、DMTの生理的効果に関する研究(1990年〜1995年)が承認され、実施されたのだ。残念ながら、それ以外の幻覚剤の研究が進まなかった。

転機となった年〜2006年

アルバート・ホフマンの生誕100年祭のシンポジウム

本格的な幻覚剤のルネサンスが始まったのは、2006年と考えても良さそうだ。

一つ目は、2006年にLSDの発見者のアルバート・ホフマンの生誕100年祭のシンポジウム。神経科学、精神医学、薬理学、意識研究から芸術まで、ホフマンの発明が社会・文化に与えたインパクトを確認し、今後、精神疾患の治療や意識の解明につながる可能性を論じ合った。

スイス・バーゼルで行われたシンポジウム。「LSD – Problem Child and Wonder Drug」という動画でその模様をチェックすることができる。ご興味のある方はぜひチェックくださいね!

宗教団体・UDVに対する最高裁の判決

二つ目は、米国の連邦最高裁判所のジョン・ロバーツ・ジュニアが、アヤワスカのお茶を聖なる媒介物(サクラメント)として儀式に使う小規模な宗教団体UDV(ウニアン・ド・ベジタル(植物連合))が、規制物質法のSchedule Iの薬物のDMTを含むお茶を米国内に輸入することを許可する。

この判断の根拠となったのは、クリントン政権下の1993年に成立した「宗教的自由回復法(The Religious Freedom Restoration Act)で、アメリカの先住民が伝統通りに儀式でペヨーテを使う権利を与えたこと。当時は、アメリカ政府と先住民の特殊な関係を考慮。彼らに限定することを論じていた。

UDVは、キリスト教心霊主義の宗教団体として1961年設立された。判決が下った当初は、米国内は、百三十人の信者しかいなく、教主は、アマゾンのシャーマンからもらったアヤワスカによって啓示を受けることで、教主へ。最高裁は、少なくともこのような宗教団体の儀式に使う場合は、幻覚剤を法的に認めるとした。

ジョンズ・ホプキンズ大学の臨床試験

ローランド・グリフィス〜薬理学者が瞑想に興味を持つ

三つ目は、ジョンズ・ホプキンズ大学のローランド・グリフィス(Roland Griffith)が「サイコファーマコロジー誌」に発表した2006年の論文だった。画期的だったのは、グリフィス自身、権威のある厳正な研究者であったことだ。自らサイロシビンを試し、潜在的な可能性について探りたくなったのも大きい。

グリフィスは、精神薬理学を専門とする研究者で、1972年に研究員としてジョンズ・ホプキンズ大学に雇用される。アヘン、ジアゼパムのような催眠鎮痛薬、ニコチン、アルコール、カフェインを含む物質の依存症の研究に従事。カフェイン依存症の研究で55本の論文を発表。コーヒーは食品よりも薬品に近いことを明らかにした。

一方で、意識の主観的な経験(現象学)に興味を持っており、研究人生と並行して瞑想を実践。段々と、意識と実存の謎の方が、科学よりも魅力的に感じるようになる。瞑想が科学とどう結びつくのか?の方に興味を持つようになった。

2023年10月に他界したグリフィスは、過去に様々なポッドキャストに登場している。今回のブログを書く際、参考にしたポッドキャスト(TIM FERRISS SHOW)を下記に紹介したい。

ボブ・ジェス〜幻覚剤のルネサンスのきっかけを与えた人物

その頃、国立薬物乱用研究所の所長を引退したボブ・シュスター(Bob Schuster)から連絡が入る。エサレン研究所で、若者のボブ・ジェス(Bob Jess)と出会ったのだが、君と相性が合うと思うので、一度会ってみたらと薦められる。

実はその頃、カルフォルニア州ビッグサーにある「エサレン研究所」で、研究者、セラピスト、宗教学者らを集めて小規模な集会を開き、幻覚剤の治療目的や精神開発に使う可能性、復権などについて、ジェスとシュスターは、話しあっていたのだ。

ジェスは、コンピュータ・エンジニアで、オラクル副社長も務めるビジネスマン。25歳には、高用量のLSDを摂取。「主観と客観が消える強烈な一元化体験」をする。太陽系、生命の誕生を含め、人類の進化についても体験したという。1995年にオラクルを退社する。

多くの人に聖なる体験をしてもらう目的にスピリチュアル実践協議会(CSP)を設立。「安全かつ効果的に宗教体験を実際に味わえる方法を身につけ、発展させる」ことを目的に、幻覚剤のエビデンスも発信。UDV裁判もサポートし、2006年の判決に結びついた。

組織としてCSPはどんどん大きくなり、シリコンバレー形成に大きな影響を及ぼした、ジェイムズ・ファディマン(James Fadiman)、マイロン・ストラロフ(Myron J. Stolaroff)、ウィリアム・ハーマン(Willis Harman)等と接触(3人については「ヒッピー文化、シリコンバレー形成、問題解決の手法として」参照)。

更に、100種類以上の幻覚剤を合成し、MDMAを再発見したアレクサンダー・シェリゲン(Alexander Shulgin)とアン・シェリゲンの2人が主催するセラピスト・科学者を含めた内輪の集まりにも参加するようになった(詳しくは「MDMA、幻覚剤の臨床開発の仕組み、セラピストの心構え」参照)。

論文を調べていくうちに、1950年代から70年代にかけて1000本以上の研究論文、4000以上の研究件数があることを把握。アルコール依存症、うつ病、強迫性障害、終末期患者の不安障害などに使われており、その可能性が報告されていた一方で、臨床試験の厳しい基準に満たしたものは僅かだと分かった。

エサレン研究所とは?〜ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメント

1994年、ジェスは、エサレン研究所で開かれる集会に招待される。その頃、エサレン研究所(Esalen Institute)は、米国の人間性回復運動(Human Potential Movement)の中心地だった。

人間性回復運動の理論的な支柱となったのが、アブラハム・マズロー(Abraham Maslow)の人間性心理学、来談者中心療法(Client-Centered Therapy)を創始したカール・ロジャース(Carl Rogers)、ゲシュタルト・セラピーを開発したフリッツ・パールス(Fritz Perls)だった。

身体を中心としたボディワーク(ロルフィング、フェルデンクライス・メソッドも含む)を始め、チベット密教、東洋的修行法、ヴィパッサナー、スーフィズムが取り入れられ、トランスパーソナル心理学の発祥の地として知られている。医療やスピリチュアリティに幻覚剤が役立つ可能性についても研究されていた。

1962年、マイケル・マーフィー(Michael Murphy)とディック・プライス(Dick Price)がインドへ旅し、北インドのオーロビンドのアシュラム(精神的な修行を行う場所)を訪れ、アメリカにもそういった拠点が欲しいということで、Big Surでエサレン研究所を作ったという。

エサレンの特徴は、スカラー・イン・レジデンス(居住研究員)という制度があり、パールスや、チェコから亡命、ホロトロピック・ブレスワークの開発者であり、精神科医・スタニスラフ・グロフも研究員として長期間エサレンに滞在した。他にも心理学の先駆者や東洋の宗教家がエサレンに滞在したらしい。

エサレン研究所についてご興味がありましたら、エサレンが作られた初期の頃に滞在した日本人・吉福伸逸さんの「トランスパーソナル・セラピー入門」をチェックすることをお勧めしたい。

エサレンの集会では、幻覚剤のスピリチュアリティに及ぼす影響について興味がないことわかり、新たにCSPを設立。1996年に幻覚剤復活キャンペーンを実施するため、ジェス主導で集会を招集。過去に幻覚剤を研究していた、ファディマン、ハーマンだけではなく、国立薬物乱用研究所のシュスターが参加することになる。

シュスターは、MDMA、LSDは評判が悪いのでやめた方がいい。知名度がはるかに低いサイロシビンを研究することを提案、LSDの政治的・文化的イメージが与える偏見に惑わされずに済むからだ。シュスターはジェスにグリフィスについて話し、2006年のサイロシビンと神秘体験に関する共同研究につながる。

ビル・リチャーズ〜幻覚剤の使用経験豊富な医師と臨床試験を実施

一方で、グリフィスは、過去に実施した実験はヒヒなど人間以外の動物。臨床経験のあるセラピストを探していた。幸運だったのは、心理学者のビル・リチャーズ(Bill Richards)は、1960年代から70年代にかけて、スプリンググローブ州立病院のメリーランド精神医療研究センターでサイロシビンを使った経験があったのだ。

心理学・神学の両方の学位を持つリチャーズは、学生時代に幻覚剤を経験する。1960年代後半に大学を卒業すると、スプリンググローブの病院で研究員として勤務。有志の被験者にサイロシビンを投与する試験に関与。1977年まで国から米国立精神衛生研究所から助成金を受け、批判を受けずに数百人に投与し続けられた。

1998年、グリフィス、ジェス、リチャーズの3人は、聖金曜日実験にほぼ基づいたパリロット版の研究を計画。FDAとDEAによって1999年に承認され、研究がスタート。ジョンズ・ホプキンズ大学のチームは、300回以上のサイロシビンのセッションを主導。瞑想家、がん患者、禁煙したい喫煙者、宗教家など。いずれも「幻覚剤未経験者」だった。

幻覚剤の臨床試験を行う際は、偽薬を使うと気がつきやすい。そこで、対照薬として、向精神薬のリタリンが使われた。リタリンを選択することで、4回に1回の割合で、サイロシビンと間違えたらしい。知覚の変化、神秘体験を含めた様々なことが明らかとなり、今後に期待を持たせる内容で2006年論文化された。

まとめ

規制物質法により、幻覚剤は研究を含め使用禁止。幻覚剤のセラピストは、地下活動を余儀なくされた。どのようにして幻覚剤が復権し、ルネサンスの時代を迎えたのか?2006年に起きった3つの出来事を中心にまとめた。

少しでもこの投稿が役立つことを願っています。

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