【Y#54】プラーナーヤーマ・連続講座(12)〜サーンキヤ哲学とイーシュヴァラ
プラーナーヤーマ・連続講座で書ききれなかったことを書いてみたいと思う(最終日の模様については【YogaコラムVol.31】参照)。
座学の扱った内容としては
- セラピーとしてのプラーナーヤーマ
- 伝統的なアーサナ(ポーズ)への向き合い方
- ヨーガ哲学とイーシュヴァラについて〜オームとイーシュヴァラ
の3つがあったことを前回紹介した(【YogaコラムVol.31】参照)。
伝統的なアーサナ(ポーズ)と向き合うためには、相手の状態を見極めたうえで処方を考えることが重要。そのために、自分の実践があり、自分自身で身体を感じることが求められるのだという。基本、「努力がない状態」、「ポーズを無理に取らないこと」、「呼吸は自然呼吸」を意識。
それによって
- 葛藤がなくなること
- 鬱がなくなること
- ストレスがなくなること
- 知覚がクリアになること
など、ポーズを行うことによって効果が認められることの紹介があった。
サーンキヤ哲学とヨーガ哲学の違いを述べた箇所については、今まで考えたこともなかったので印象的だった。
サーンキヤ哲学というのは、25の原理で説明していくもので、
世界がどのようにして創造していったのか?
物語で語っている。
プラクリティ=物質原理=物質
プルシャ=精神原理=エネルギー
という2元論を出発点に5つ感覚器官、5つの行為器官、5つの微細元素、5つの元素、マインド、自我、知性とあわせて25からなる原理で説明していくもの(下記もあわせて参照)。
Tiwari-ji先生は、プラクリティを物質、プルシャをエネルギーに置き換え、それは磁石=エネルギーと金属=物質という例えで考えると分かりやすいという考えも述べていたという。そしてエネルギーが物質を引き寄せることで世界観を作り出すというのがサーンキヤ哲学。
「ヨーガ・スートラ」でのパタンジャリ・ヨガの八支則で以前説明したように(【Yoga コラムVol.23】参照)、ヨガの実践においては、外側ヨガと内側ヨガに分かれる。外側ヨガというのは自分で実践できるもの、若しくは意思がないとできないもの。内側ヨガといういのは、意思がある間は到達できないもの。つまり、物質を感じることを無視して、内側ヨガを実践していくのが難しいと言えるし、サーンキヤ哲学の考えにおいてヨーガは実践を通じて上記の図の下から上へと向かっていくともいえる。
このことについて話題になった後、サーンキヤ哲学になくて、「ヨーガ・スートラ」にあるものは、イーシュヴァラという考え方についての紹介があった。
メーレ・グレゴールの「現代人のためのヨーガ・スートラ入門」によると、
「サマーディへは、イーシュヴァラへの祈念によってもまた到達することができる。これは、「ヨーガ・スートラ」の中で何度か繰り返される発言である。「イーシュヴァラ」とは至高の存在、あるいは神の総称である。特定の宗教に関して述べているのではない。キリスト教の神であろうと、エホバであろうと、ヴィシュヌ神であろうと、何で、あっ
ても信奉者が崇拝する神の名を当てはめればよいのである」
という。
ということは、「ヨーガ・スートラ」の考え方はは神が存在するという有神論的。
伊藤武著の「図説ヨーガ大全」によると
「サーンキヤ哲学は無神論であるが、『ヨーガ・スートラ』はそれとは矛盾す
る「瞑想の対象としての神」の理論を導入したため、「有神サーンキヤ」とよばれている」
ということでその違いを説明している。
イーシュヴァラについては、ヨーガスートラ1章の27には(同「ヨーガ・スートラ」からの引用)以下のような一節がある。
「至高の存在の表現が、聖音オームである」
この点に関してもTiwari-ji先生の考え方の紹介があった。
イーシュヴァラとは音だという。音によって言葉が作られ、言葉が私ために与えられることで、知ることもできるという。また行動のためにも言語が必要なことから、具現化のために音が重要となる。
そうはいうものの、音というのは、
恐れを持たない、欲望を持たない、誤解のない存在、エゴもない、執着もない、妬みおない、死への恐怖もない
存在でもある。それこそが音であり、神であるという。その集約としてオームという音があるということになる。
また、音・言葉と、印象によってそれらにラベルを貼る(善悪をつけること)ことや、神といっても音というのは自分の態度に関わることから、個人的な神に関わること等についての説明を通じて、インド哲学の奥深さも体感できたと思う。
これでひとまず連続講座については終わり。また学んだ内容については機会があることにまとめていきたい。