【B#57】意識と無意識(3)〜私がいるのか、いないのか〜縁によって関係が仮に成り立っている
本コラムでは、2017年のゴールデンウィーク中に出会った本「無意識の整え方」について、興味深いことが書かれていたので、2回に分けて書いた。
1回目は、前野隆司先生(以下前野先生)の「受動意識仮説」
すなわち
「私たちの行動を本当に決めているのは、脳の無意識であり、意識はその決定を0.35秒後に受け取って「自分で決めた」と記憶しているだけではないか」
という考えについて(「意識と無意識(1)〜意識は無意識の決定を記憶する装置?+物語を語る意識について」参照)。
2回目は、「無意識の整え方」の藤平信一氏との対談の内容について紹介。
身体と心は同じものであり、身体の状態を知ることで、自分の心がわかること
そしてその心を静めるにはどうしたらいいのか?
心に目を向けることについての考え方を紹介した(「意識と無意識(2)〜相手に心が向いている状態の時に実力が発揮されることについて」参照)。
3回目は、僧侶の松本紹圭氏(以下松本氏)との仏教と無意識についての対談について紹介したい。
人間は誰もが
「私はどこから来て、死んだらどこに行くのだろうか」
という素朴な問いを持っていて、それに対して、人間は様々な物語を創作(世界中の宗教、神話を含め)することで、答えてきた。
以前、そのことは、ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」の紹介の際に触れた(「意識と無意識(1)〜意識は無意識の決定を記憶する装置?+物語を語る意識について」参照)。
松本氏によると、
その考えには、
「私」という存在の核が、変わらないもの
として想定されているという。
仏教では、
「それって本当?」
と疑問視するが、否定するわけではないという。
では、どのように考えるのか?
松本氏の言葉でいうと、
「一人一人の人間というのは、個々が独立した実体として存在しているあるわけではなく、縁と縁の結び目に仮に成り立っているのです。しかも結び目にある宝石の輝きは、他の宝石全ての輝きに反映している。これは、釈尊の悟りで説かれた「縁起」を教えるものです。
すなわち
「縁によって仮に成り立っている」
ということになる。
前野先生は、
「仏教という宗教は、幻想に過ぎない「私」という意識を全否定することなく、結果的に人々の無意識を整えようとする装置に過ぎないかもしれない」
と無意識との関係で解釈されていたが、非常に興味深い。
縁と縁の結びつきについて、米国医師であり、東洋医学に造詣が深いディーバック・チョプラの「富と成功をもたらす7つの法則」に、宇宙という言葉を使って別の言葉で表現している。
チョプラ曰く、
人は無意識=潜在意識において宇宙と繋がっており(仏教でいうところの「縁」)、その集合体こそが宇宙。それをチョプラは、「純粋な可能性の場」=Pure Potentialityと表現。
純粋な可能性の場にアクセスするためには、瞑想を使う方法、他者に自分の持っているものを与えること、や執着を手放すなどの考えを紹介している。
松本氏も、対談で座禅や呼吸への意識などを紹介しているが、曹洞宗の修行で「三黙道場」の修行法の視点が面白かったので、取り上げたい。
三黙道場とは、僧堂=座禅・食事・睡眠を行う場所、浴司(よくす)=お風呂、東司=手洗いの3つのこと。
その3つに共通するのは「水」。
水は命の基本であり、それが住まいの中に循環する場所が「食堂」「お風呂」「手洗い」ということになる。水は、私たちの身体に入って、出ていって自然に戻る。そういう命の流れを意識する場所のため、特別にきれいにして修行する。特に手洗いの掃除に時間をかけるという。
自分の身体の一部であるかのように感じられるまで、五感を研ぎ澄まされる形で、毎日掃除することで、「型」を身につける=無意識への鍛錬を続けることになる。
断捨離について何度か本コラムにも書いたことがあるが(「身体と心(8)〜モノ、身体、言葉」参照)、ロルフィングはある意味で、心の断捨離で、身体の循環を良くするもの。結局は、禅寺で行なっていることを、セッションを通じて、身体内で行なっているのではないか?と考えればいいのでは、と感じるようになった。
無意識については、また次回以降も触れたい。