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【J#115】伊豆半島の旅⑦〜九十浜海水浴場、御用邸、恵比須島、ペリー来航

はじめに

東京・渋谷でロルフィング・セッションと脳科学から栄養・睡眠・マインドの脳活(脳科学活用)講座を提供している大塚英文です。

2024年7月16日(火)、ロルフィングの出張セッションの為、静岡県下田市へ伺うようになってから、週1回、下田市に伺っている。先週(2024年8月12日、13日)には初めて、下田で柴田夫妻とお会いすることができ、今週(2024年8月19日、20日)の滞在期間、下田を観光した。

今週(2024年8月19日、20日)、前半は、ヒリゾ浜石部の棚田の展望台、奥伊豆パワースポット・山神社を観光した(「伊豆半島の旅①〜ヒリゾ浜、棚田、山神社、松崎市」参照)。

今回は、九十浜海水浴場の展望台、恵比須島ペリー艦隊来航記念の碑了仙寺等について紹介する。

九十浜海水浴場と須崎御用邸

ロルフィングのセッションが終わり、午後4時頃に、電車に乗ろうと、伊豆急下田駅へ。窓口で踊り子号のチケットを購入しようと検討したが、駅員から、午後3時以降の踊り子号は運行していないとのことだった。そこで、柴田夫妻と2時間程度、時間を過ごすこととし、プチ観光をすることができた。

最初に向かった先は、静岡県下田市須崎へ。昭和46年(1971年)に建てられた天皇家の御用邸の一つ須崎御用邸に隣接する九十浜海水浴場だった。御用邸とは、天皇皇后両陛下を始め皇室の方々がご静養の場として使用するもの。那須葉山、須崎の3つが宮内庁のHPに紹介されている。

驚いたのは、海水浴場へ向かう途中の細い道路と御用邸の大きさだった。葉山の御用邸も見たことがあるが、それに比べて遥かに大きい。ずっと、御用邸が続くことに驚き捨、車で走ること5分。ようやく、海水浴場に到着した。

九十浜海水浴場は、下田の中では穴場的存在。駐車場から坂道を下ると海水浴場にアクセスできる。プライベート感満載の海水浴場で、有料駐車場からの眺めは絶景。

展望台から地平線を覗くような感じで、感激だった。残念なのは、こちらもほとんど海水浴のお客さんがいなく、閑散としていたことだった。

恵比須島と恵比須神社

九十浜海水浴場から南に車を走らせると恵比須島へ辿り着く。50メートルの人道橋がかかっており、無人島へすぐにアクセスできる。島の中を一周できるように遊歩道(170メートル)も整備されているが、落石の可能性もあるため、一部の道は通行止めになっている。

海水浴を楽しむお客さんもいて、海の透明度が予想以上の高い(海水浴のお客さんが少なくなっていることもあるのかもしれない)。

恵比須島の遊歩道は、干潮のときに周回できる。島の南側には、火山から噴出した火山灰や軽石が海底に降り積もり、海流に運ばれたりしてできた地層が現れており、まるで他の惑星に来たかのような印象を受ける。

更に奥へ遊歩道を進めると、森林に囲まれた散歩道が現れる。奥には、恵比須神社がある。午前参拝した山神社と少し似た雰囲気を感じさせる神社で、海に囲まれているのに、まるで山の中の神社にいるような気分を味わうことができる。

最後に、ペリーとゆかりの深いペリー艦隊来航記念の碑了仙寺へ移動。その前に、日本の歴史について紹介したい。

江戸幕府とペリー〜鎖国から開国へ

下田といえば、米国との関係が深い。米国の東インド艦隊司令長官兼米使提督マシュー・ペリー(Matthew Perry、1794年〜1858年)は軍艦4隻を率いて大西洋を横断、インド、中国、琉球を経由し、嘉永6年(1853)6月、浦賀へ。鎖国政策を続けた江戸幕府に開国を迫る。

その圧力に屈した幕府は、回答を保留。翌年、嘉永7年(1854)1月、ペリーは再度、軍艦9隻を率い、江戸湾へ入港。最終的に、3月3日、横浜で、日米和親条約(神奈川条約)を締結する。

日米和親条約は
(1)アメリカ船に燃料や食料等、欠乏品を供給すること
(2)下田、箱館の2港を開き(下田は即時、箱館は1年の後)、下田への領事の駐在を認めること
(3)アメリカに一方的な最恵国待遇を与えること。
の3つが主要な条件となった。後に、英国(嘉永7年8月)、ロシア(安政元年12月)、オランダ(安政2年12月)とも同様な条約を締結することになる。

米国が開国を迫った背景は、捕鯨にあった。

捕鯨とロビー団体

司馬遼太郎の「アメリカ素描」によると、当時の米国は、灯油として鯨油を使用していたそうだ。ヨーロッパやアジアのように菜種油を使っていなかったそうだ。鯨油のために、捕鯨業が盛んで、しかも撮った鯨は油だけ絞って他は捨てていた。

それを象徴しているのが、ペリーよりも25歳年下の、ハーマン・メルビル(Herman Melville、1819年〜91年)が発表した「白鯨」にある。メルビル自身、青春期の4年間、捕鯨船の乗組水夫を経験(1841年〜44年)している。著作に「日本近海の台風」の現象が幾度か出てくる。

ところが、捕鯨中の米国・捕鯨船に対し、日本は、避難港を提供しなかったどころか、近づけば砲撃することで対抗。米国の捕鯨業者にとって最大の敵となった。そこで「日本を開国させよ!」とロビイストを使って政府に働きかけることになる。

それまで、慢性的な飢えの状態にあるシベリアの食料の供給元として、日本と通商をしたいロシアが交渉に来ていたが、フランス的な教養を持つロシア人は、日本の法と慣習を尊重しすぎるあまり、功を奏せず。逆に、司馬さんがいうように、ペリー流の「ピストルを突きつけるような西部劇のやり方」が成功に導いたのだ。

ペリー艦隊来航記念の碑とペリーロード

日米和親条約を締結した米国は、嘉永7年(1854)3月18日〜21日に順次、下田へ来航する。ペリーの艦隊は非公式の訪問だったが、浦賀奉行所の支配組頭である黒川嘉兵衛が対応。3月24日群集が見物する中、了仙寺で食事を提供していた(下記は当時の下田来航の模様)。

ペリー艦隊の下田滞在は約70日間に及んだが、細かい点がほとんど決められていなかった日米和親条約の詰めの作業が行われる。ペリーと日本と交渉が行われた場所が、奉行所が置かれることになる了仙寺だった。協議は、10日間に及び、嘉永7年(1854年)6月17日に、日米下田条約(日米和親条約付則13ヶ条)が結ばれる。

ペリーが下田を訪れた際の港と、ペリー艦隊来航記念の碑を観光するところから開始。港の小ささに驚いた。何と、ペリーは、下田の町がきれいに整備され、下水が川に直接流れ込まないように、川の脇に下水溝が作られていることに感激したそうだ。西洋では小さな都市に下水溝があるのは常識に反することだったからだ。

次にペリーロードを歩き、了仙寺に向かった。ペリー提督一行が、日米下田条約交渉・締結のために行進したのがペリーロード。米国・ロサンゼルスに幼少期の頃、7年住んだ経験があるが、それに比べても道幅が大幅に狭い道。どのような心境で、ペリーたちは行進したのだろうか、想像しながら足を進めていった。

日米下田条約が締結されたとき、米国人は、下田の街を歩く権利「遊歩権」が与えられた。米国人は下田の町民と異文化の交流を体験。了仙寺では、下田の町民たちを対象としたコンサートがアメリカ海軍の軍楽隊によって開かれた。これが、国内初の洋楽のコンサートになる。

了仙寺と日米下田条約締結

日米下田条約が締結された了仙寺に到着。横浜では、日米和親条約が、日本語、英語、漢文で条文が作られたそうだが、日本側は、英語の条約文に署名するのを拒否。下田の了仙寺で再交渉することになる。最終的に、日米下田条約は、日本語、英語、オランダ語の条約文が作られ、ここで初めて日本側も署名する。

よく、日米和親条約は、不平等条約と呼ばれているが、実際、ペリーとの交渉で日本は必ずしも全て米国に妥協しなかったことも判明している。例えば、銀を使った日米の為替レートも圧倒的に日本側有利に交渉を進めていたそうだ。

寺の背後の海食洞窟から人骨、玉類・金銅製の腕輪、首飾りなどが出土しており、貴重な洞窟古墳を見ることができる。

あっという間のプチ観光が終わり、伊豆急下田駅から帰途についた。

まとめ

今回は、九十浜海水浴場の展望台、恵比須島ペリー艦隊来航記念の碑了仙寺等について紹介させていただいた。幕末の歴史に興味を持っている一人として、下田は観光の宝庫だ。観光している人が少ない印象があり、寂しい。ぜひ、ご興味のある方は、下田観光を勧めたい。

少しでも、この投稿が役立つことを願っています。

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