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【T#70】「タロットカード」を見ることとは何か?〜知識で見ること・ありのまま見ることの違い〜タロット実践講座(第5回)を開催〜

はじめに

こんにちは!東京・渋谷(恵比寿)でロルフィング・セッションと栄養・タロットカウンセリングを提供している大塚英文です。

2022年3月27日(日)、午後7時〜

同年3月31日(木)、午後7時〜
に「タロットカードを使って起業・副業したい方向けの実践講座」の第5回(第0回〜6回の全7回)とタロットカード練習会を開催したので報告させていただきたい。

タロットカードを見るとき、知識で見るか?あるがまま見るか?

タロットカードを見るとき、みなさんはどのように見ていますか?
多くの人は、学校で、あるがままに物事を見る訓練を受けていないので、
知識で物事を見てしまうのではないだろうか?

鈴木俊隆さんの「禅マインド ビギナーズ・マインド(サンガ新書)」には、以下の文言がある。

In the beginner’s mind there are many possibilities, in the expert’s mind there are few.
初心者の心には多くの可能性があるが、専門家の心には可能性がほとんどない。

As soon as you see something, you already start to intellectualize it. As soon as you intellectualize something, it is no longer what you saw
何かを見ると、知性が働き始める。知性で考えると、見るものと違うものになる。

「東洋は直接モノを見ることを大事にする」
のに対し、
「西洋は知識でモノを見ることを大事にする」
と考えていいかもしれない。

あるいは、
「西洋は自然を(知識で)支配し、コントロールする考え方」
をするのに対し
「日本を含め、東洋は自然の中と一体(あるがまま見る)となって、共生する考え方」
と表現していいと思う。

しかも、現代に入り、西洋のモノの見方が東洋に近づいている。

タロット実践講座では、
「タロットカードをどのように見るのか?」
に対し、
「知識」で見ると、可能性が狭まる。
「一人一人違ったモノの見方をする」考え方で見ると、
可能性が広がることを伝えている。

第5回のタロット実践講座では
「西洋の独特な考え方がどのように生まれたのか?」
「タロットカードの見方と西洋の見方がどう関係するのか?」
について取り上げつつ、
「生命の木」と大アルカナとの関係についても説明した。
このブログでは、前半の内容を中心に紹介したい。

西洋の考えの独自性〜自然から離れて一歩外から見る〜「超自然的原理」で世の中を見る

歴史的に見て、ヨーロッパで、
知識偏重の
「自然を支配し、コントロールするモノの見方」
がいつ頃誕生したのだろうか?

木田元さんの「反哲学入門」によると、このような考え方が生まれたのは、ソクラテス・プラトンの時代のギリシャからだという。

それ以前、
ギリシャを含め、ヨーロッパでは、
「自然の中と一体となって、共生するモノの見方」
が主流だったらしい。
実際、ギリシャ人はそれを
「万物が自然」
と表現。日本の神道と似たような考え方を持っていた。

すなわち、人間を特権的な位置に立って自然を支配するのではなく、自然の中に生きて、自然にかえる、つまり生成消滅する自然の一部という考え方だ。

ソクラテスが登場することで転機が訪れた。
ソクラテスによって「万物が自然」などといった自然にまつわる知の体系を全て否定し、一度古代ギリシャ人の世界観がリセット。

ソクラテスの刑死後、弟子の一人であるプラトンがその遺志を受け継ぐ。
プラトンは、エジプト、イスラエルを含め、世界の放浪の旅へ。
様々な思想と出会うことで「超自然的な原理」=「哲学」という考えを作っていく。

「超自然的な原理」とは、
「世界(自然)を一歩外から俯瞰的に見る」=「自然から超えたもの(離れたもの)」=「超自然的にみる」
こと。

すごいのが、この考えが西洋の中で脈々と受け継がれていくのだ。
例えば、プラトンは「イデア」、キリスト教は「神」、デカルト・カントは「理性」、ヘーゲルは「精神」
とそれぞれ「超自然的な原理」を表現。

なんと、2500年近く続いたのだ。

自然を「一歩外」から「俯瞰的」に物事を見ること。
これが、
「自然を支配し、コントロールするモノの見方」
に発展していく。

「理性」で世の中を見る〜主観・客観に分けて考える〜近代に登場する思想

「客観的に考える」というのは、今では当たり前で、サイエンスのみならず、ビジネスにおいてもロジカル・シンキング、医療の現場ではエビデンス(証拠)が大事だという形に現れている。

しかしながら、それは昔から当たり前だったのではない。
近代に入ってから確立した考え方なのだ。

それは、キリスト教が中心だった中世から「(人間)理性」が中心となる近代に移行する際に出てきたものだった。

大辞林によると、
「主観」=「その一人一人のものの見方」
「客観」=「当事者ではなく、第三者の立場で観察し、考えること。また、その考え」
と書かれている。

「主観的」「客観的」という考えが生まれたのは、ルネ・デカルト(René Descartes、1596年〜1650年、以下デカルト)からイマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724年〜1804年、以下カント)にかけて近代哲学が確立した頃。

キリスト教の考え方は
「世界は神の「理性(神性理性)」によって創造されたもの。理性に沿った形で法則がある」
と考える。

一方で、
「世界創造の総仕上げとして、神と似せて人間を作り、それに「理性(人間版の理性(人間理性)」を与えた」
としている。

デカルトは、
人間が生まれ持ったものの見方(生得概念、人間理性)をうまく使えさえすれば、世界を正しく認識することができる
はずである!考えたこと。

すなわち
「理性(ここでは、人間理性)」を使うと、客観的に、自然の中で真に存在するものを認識できるよう
になること。

当然、「理性」は、自然を超えて、外から俯瞰的に見れないと働かない。
プラトンやキリスト教でいう「神」の「超自然的原理」の思考の文脈の中で「理性」は、理解することができる。

最終的に「理性」が近代哲学の柱となり、キリスト教の「神(又は神的理性)」の中世哲学に変わる「超自然的原理」の考え方の柱となった。

主観・客観で、世の中を見ることへの限界〜何が問題か?〜人間が認識できるものの限界

ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei、1564年〜1642年)は、
「自然という書物は数学的記号で書かれている」
と世界を表現。

キリスト教とは全く違うこの考え方は、デカルトを通じて、哲学的な裏づけが得られるようになる。
結果、キリスト教の影響を受けない形で科学が発展するようになる。

竹田青嗣さんの「現象学入門」には、

中世のキリスト教以前の世界では、
「神の教えを人々は教会から受け取り、自分で合理的に考える必要がなかった」
しかし、
「人間理性」が意識されるようになってから、キリスト教の神学の知識ではなく、人間の理性は世界に対する知識を「客観的」に考えることによって「正しく」捉えることができるという確信が生まれるようになったことを書いている。

具体例を挙げると、
サイエンスでは、仮説を立てて、実験を繰り返すことで確かめるという方法をとるが、
「仮説」=「主観」
「実験を繰り返して得られる確証」=「客観」
という形で主観的と客観的との関係による思考が確立されたように。

そして
「自然を支配し、コントロールするモノの見方」
が進んでいく。

残念なことに主観・客観で物事を見るというのは、限界がある。
実際、デカルトは神が人間に完璧な「理性」を与えているいうことが前提で、「主観」や「客観」が成り立つ。
もし「神」の存在が証明されない場合には、完璧な「理性」はなく、論理が破綻する。

実際、人間が認識できる能力には限界がある。
例えば、
1)人間が見れる光の周波数は限られている(赤外線や紫外線、電磁波は見れない)
2)ものを見るとき、五感から入ってくる視覚情報の10%しか使わない(残りは脳の情報を使う)
等。

実は、
「主観に見ること」と「客観に見ること」
は同じことを証明することはできないのだ。

19世紀に科学が誕生したが、専門化が進む〜世の中が説明できなくなっている

19世紀以降は「科学者」が誕生し、
主観と客観が一致していることを前提に、物理学、化学、生物学
が誕生。

様々な学問から
「世の中をどう見るのか?」
が提唱されてきたが、あまりにも細分化されてしまっているため、
専門家の中で世界を語ることができても、他の専門になるとそれが通じなくなる。
事態が発生。

科学から、現実を説明できる、俯瞰した理論が生まれなくなったように思う。

知識で見るのではなく、ありのまま見ること〜東洋の考え方

このように「超自然的な原理」を追求した哲学が限界があることが判明し、「プラトニズム(プラトン哲学)」(メルロ=ポンティは「反哲学」といった)と表現したニーチェが、それを批判、解体する。

その流れに乗って、フッサール、メルロ=ポンティ、ハイデッカーやサルトル等が東洋思想に近い「自然的な思考」=「生きている自然」をベースとした哲学を展開するようになるのだ。

彼らは、
モノを見るときに、
「「知性」で見ること」
ではなく、
「「直接体験したこと」を見ること」
を使って世界観を考えることだった。

身体図式(ボディスキーマ)の考え方〜一人一人が違った「世界観」を持つ

世界観の中で、タロットカードの見方と関係する、メルロ=ポンティの「知覚」の現象学を紹介したい。

人間というものは、主観、客観を超えた「身体図式」(ボディスキーマ)というものを持っていて、
それを使って一人一人独特な世界の捉え方をしているというのだ。

「身体図式」とは、
「視覚情報」「筋骨格系」「触覚情報」の情報は「脳」に伝えられる際に、無意識に「モノの見方」に影響を与える。
この一連の作業のことを「身体図式」と呼ぶ。
例えば、「皮膚」「関節」「筋肉」「内臓」からの感覚の流れによって絶えず最新情報を入手。
「身体図式」はパソコンのOSのように、日々更新されているのだ。

その上、身体図式は、身体からの感覚を無意識(自動的)に処理されている。

興味深いことに「身体図式」は、育った環境、文化、トラウマ体験による影響を受けることだ。

自治は、この考え方は、東洋の考えに近く、西洋から東洋と同じ結論になったというのは面白い。

「身体図式」=「一人一人の違ったモノの見方」
で説明すると、
「知識」を身につけるよりも「知識」を手放した方が遥かにいいことがわかる。

まとめ

今回は、タロットカードを見ていく際に、
1)一人一人が違った「身体図式」(パソコンのOS)を持っていることを知ること。
2)お互いの世界がわかるような共通言語を探し出すこと
3)クライアントと共同作業で、イメージを作り上げること
が重要となることを伝えた。

後半には「生命の木」と大アルカナとの関係について取り上げた。
知識量が増えたので、圧倒される参加者もいたので、次回、取り上げる際には、
ボリュームが多くならないように、工夫したいと思う。

次回で最終回なので、うまくまとまるように資料を作りたい。

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