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【J#62】『古事記』を読むと見えてくる世界(4)〜生産に関わる神、人と神の違いについて

2019年11月3日(日)、神辺菊之助先生(以下神辺先生)を招いて『古事記』のセミナーを開催。

今回で3回目(通算4回目)だが、主催者の都合により最終回となった。
過去3回、サロン・ZEROでセミナーを開催したが、その模様について下記にまとめた。
入門編:「『古事記』冒頭部分をきちんと読むと見えてくる世界:古事記を通じて日本を知ろう」(2019年7月7日開催)
1回目:「日本の古典の基本的な考えと神々に対する見方について学ぶ」(2019年8月17日開催)
2回目:「「国」とは何か、天と地との思考の違いを含めた話」(2019年9月17日開催)

本コラムでも度々触れているが、古事記の難しさは冒頭の部分。
「最初が最もわかりにくく、かつ最初から追わないと次が完全にわからない構成になっている」
の理解がないと古事記が理解できない(詳細は「「国」とは何か、天と地との思考の違いを含めた話」参照)。
そのため、冒頭部分から、丁寧に一つ一つの言葉を紐解きながら説明することが大事になる。
1回、2回目の復習を経て、3回目の内容へと移った。

前回は、天之常立神までで、神の舞台が整った形。3回目は、演者から観客へと視点が移り、国之常立神からいよいよ、観客へ視点へ。話はより具体的になり、生産に関わる神々が登場する。
イザナギ・イザナミへ繋がる神世七代の話で、まずはウヒジニの神とスシチニの神からスタート。前者は田の神、後者は畑の神に相当する。泥土と砂土をセットとして考える。

神辺先生は、弥生時代に鍬などの鉄製の農具が使われ、土壌改良が進んだために、水田と畑作が一体になったのではないかと推測している。
このセットの考え方は、続く。
ツノグヒの神とイクグヒの神のセット。前者は耕作地との区分、後者は狩猟漁労用具を現している。
オホトノジの神とオホトノベの神のセット。双方で、耕作、漁労、狩猟の対象となる生命を現している。
その後、変わった神が登場する。
オモダルの神は、神々に欠けている何か、足る状態になった、足りなかった「何か」を表す神。
アヤカシコネの神は、「言葉にならないほどなんとも畏れ多い」という感嘆句を象徴した神。

面白いのは、アヤカシコネの神。オモダルで足りなかったものを補って、神々が住まう場所が完成したことで、思わず言葉が誕生した。それこそがアヤカシコネの神の正体だと推測しているところが面白い。思わず溢れ出てしまうのが言葉であり、感嘆と称賛と謙遜から出てくる言葉である。

生産のための環境作りで登場する神々に続き、それに対する言葉にならぬ感嘆と称賛が言葉となって現れる。そこが面白く感じた。そして最後に締めとして、イザナミ、イザナギの神が登場していく。
古事記では神は自明なものとして現れるが、人は自明なものとして現れないこと。人は、言語によるコミュニケーションができるか否かで判断されること。「こことい」という問いかけで、歌が帰ってくるのが人だと、人と神を分けているところ、古事記は面白いと感じた。
島はアイランドではない、視野、視座、視点を変えることの大切さ、抽象と具体、繰り返されるモチーフなど、本当に古事記の世界は多岐にわたっており、面白い。
今回であいにく、最後になってしまったが、これを機会に一度「古事記」の書物を手に取って、調べていきたいと思った。
最終回になってしまったが、今までご参加いただいた方、資料を準備いただいた神辺先生に改めて感謝申し上げます。神辺先生は成果を学会で発表されるとのこと。ますますのご発展を祈念しています。

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